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はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

きのう金曜日、居合の道場に取材があった。

九州医事新報という医療関係の業界紙からだった。
これを機会に医療関係の居合の愛好者が増えるのが楽しみだ。

七時前だった、まだ稽古は始まっていないが、清水師範にインタビューがされていた。
藤田師範は、一人、もくもくと難しい技を稽古していた。極めても極めても奥が深いのだろう。

宗家がお見えになった。さっそく取材が始まった。
二百年以上もまえ、筑前黒田藩に柳生新影流を伝えた柳生松右衛門家信、その正統十三代が蒲池源三郎鎮浪、
それを継承するのが、第十四代長岡源十郎鎮廣その人、黒田藩伝柳生新影流の宗家である。

マイケル・コンタス氏はアメリカ人、居合の修業に来日して二十五年、今では黒田藩伝柳生新影流の筆頭師範、
マイク師範はもうすぐ免許皆伝、アメリカで柳生流居合の道場を開くのだろうか、


福岡黒田藩傳柳生新影流兵法 http://www.shinkage.jp/ 
道場は大濠の福岡県警武道館で毎週金曜日の七時から 
入門と見学は、 092-523-6283または携帯090-6299-5289(清水)まで。


居合の稽古の前、午前中ははエッセイ教室だった。いそがしかった。


アテナの銀貨                      中村克博


 会食は盛り上がり船の上は声をはり上げないと聞こえないほど騒然としていた。金の役人はイスラムの船乗りたちと入り乱れ大声で話している者もいた。なにを話しているのか、通じ合っているのかはさだかではないが楽しそうだった。それに金の役人には酒を持ち込んだ者がいるようだった。
 宴もたけなわのころ、マンスールは金の来賓に挨拶して席を立って船尾楼に戻ろうとした。護衛の兵士と従卒の少年とが、それに気づいた。そのとき、金の軍人がマンスールに近寄って何やら話した。
 聖福寺の僧が通訳した。
「大切な相談があるそうです」
「ソウデスカ、ドウゾ、ワタシノ、ヘヤ、オイデクダサイ」
「いや、今ではなく、明日、あらためて、と申しております」

 夜が明けて朝日が出て、まもなく積み荷の作業がはじめられた。はじめに大量の宋銭が二隻の輸送船に運ばれた。人力の荷車が続いていた。陸には金の軍隊が警戒しているようで軍旗が距離をおいてはためいていた。 
 宋銭の積み込み作業はいぜん続いていたが、夕日が西の陸地に傾くころ一艘の艀がマンスールの船に横付けした。藁の筵の下に隠すように小さな木箱がいくつも乗せられていた。水夫のほか兵卒が五人乗っていたが、身なりのいい軍人が一人でマンスールの船に上がって来た。昨日の軍人だった。聖福寺の僧が二人で出迎えてマンスールの船室に案内した。
 マンスールは一人で応対した。金の軍人は楊耐庵と名のり、私事である相談への配慮に感謝した後、すぐに本題に入った。
 聖福寺の僧が通訳した。
「私は金王朝に忠誠を誓う軍人ですが、祖先は代々北宋に仕えておりました。さらにそのまた先祖は北漢の将軍でありました」
「ソウデスカ…」
「代々、我が一族に伝わる黄金を受け取っていただきたい」
「黄金を…、ナニガ、ノゾミデスカ」
「日本に所領が欲しいのです。一族が帰化し暮らせる、よるべが望みです」
「シカシ、ワタシハ、イスラム、ソノ、ノゾミ、ムリデス、ムリ…」
 楊耐庵は両手を合わせて祈るように、
南宋の貴人の家族や高僧は大勢が五畿内や鎌倉に移り住んでいると聞きます」
 聖福寺の僧が付け足すように、 
「博多や坊津には宋の商人が町をつくっていますが…」とマンスールを見た。
「シカシ、アナタ、グンジン」
「もとより、私と妻子は残ります。ただ他の一族は逃したい」
「ナゼ、ジブンノ、クニ、マモラナイ」 
「クニ、国とは何でしょう…、私には、わからないが一族は守りたい」
 聖福寺の僧が言葉をおぎなうように、
「そうですね、貴国は国の主権が代わるたびに王朝が代わります。まして、異民族に国土や民を支配され言葉や日々の風習まで変われば、なにが国かと…」
 楊耐庵は聖福寺の僧に通訳され、我が意をえたように、
「我が一族は、五代最後の後周から禅譲を受けた宋王朝を守る忠臣楊一族を起源とします。それが今では宋を南に追った異民族、金の王朝の軍人として南宋に敵対しております。そしてまた金国は乱れ北方の勢力に怯える毎日、すでに金王朝の存続がおぼつかない、何をもって祖国と言いましょうや」と、息もつかずに話した。 
 マンスールは通訳の言葉を聞いて、しんみりとした表情になった。言葉のすべては解せなくとも意味は理解したようだった。
「ワカリマス、シカシ、ワタシハ、イスラムノ、ショウニン」
 聖福寺の僧が口をはさんだ。
「拙僧たちが栄西禅師様にお頼みいたしてみます」
楊耐庵が聖福寺の僧をみつめて涙ぐんだ。
「ありがたいです」
「しかし、金塊をこのたびは預かることができません。お望みが、かなえられるときに楊家の皆さんがお持ちください」
 しかし、そのとき楊耐庵の金塊はすでにマンスールの船に積み込まれていた。手桶ほどの大きさだが頑丈そうな木箱が数十個、甲板に重ねられ、さらに水夫たちが二人ずつ同じ木箱を重そうに運んでいた。

日が、かわって早朝から引き続きイスラムの輸送船には、たくさんの艀が行き来して物資の積み込みがなされていた。高麗の海賊の頭目が兵衛と甲板からその様子を見ていた。
兵衛が海賊の頭目に、
「昨日から焼き物をたくさん積んでおるようですね」
頭目は輸送船に積み込まれる薦包みや木箱をながめて、
「赤みをおびた青や緑の輝きは瑠璃のごとく、瓶子や碗、盤など形もうつくしい器を作る産地が金国の領域にあります」
「先ほどから障テい小石を運んでくる艀が現れましたな」
「は、は、燃える石で石炭と言いますが、ご存じないですか」
「石が燃えるのですか」
「焼き物の窯にも使いますが、家々の煮炊きや冬の暖房にも使います。開封百万家と言われる中に薪を用いる家は無いといいます」
マンスールのアラビアには燃える水があるそうですが」
「ほう、水が燃えるのですか、水が燃えては消しようがありませんな」
「いや、私はまだ見たことはありませんが…」
「銅銭、焼き物、石炭が積み終わると、絹などの織物や書画が運ばれて、日のあるうちに、いよいよ船出ですね」
「そうですね、威海に着いて、はや五日が過ぎたのですね」
「天気に恵まれて荷作業が助かりましたな」
「しかし、そろそろ天気は下り坂のようですね」
「雲がでて雨になっても、風さえよければ問題ないが…」
頭目は何か、気がかりなことでも…」
「なぜか、わかりませんが、この航海、胸騒ぎがするのです」
平成二十七年九月三日