貝原益軒を書こう 八十 中村克博
根岸は下宿先の久兵衛を訪ねていた。天気はいいが青い空がすこし霞んでいた。二人は縁側に座っている。近くの桜が屋根の向こうに見える。花びらがこちらまでちらちら散ってくる。ときに風が強く吹くと花びらは部屋の中まで舞い込んできた。
久兵衛が湯呑にはいった花びら指でとりながら、
「花は散りその色となくながむればむなしき空に春雨ぞふる」とくちずさんだ。
根岸はそれを聞くと空をのぞいて、
「霞んではおるが雨はふっておらんよ」と真顔でいった。
「新古今和歌集にある歌ですが誰の作かわすれました」
「そうか・・・ 昔の平安時代のやまとうたか・・・」
久兵衛はお茶をひと口飲んで、
下宿の娘がお盆に菓子皿をのせてやってきた。二人のあいだにお盆をおいた。
「八刻です。おやつをどうぞ、黒砂糖をからめて、おいしいですよ」
久兵衛が「これは、めずらしい、かたじけない」と礼を言った。
「根岸さま、久しぶりですね。ほんとにながくお見えになりませんでしたね。どこに行っておられたのですか」
根岸は黑い駄菓子をつまんで口にいれて顔をほころばせた。
「油でこんがり揚げたイモムシのようだが、うまい」
久兵衛がサトを見て、
「サトさんも一緒にお茶を飲んでお菓子を食べませんか」
「そうですか、ありがとうございます」
サトは二人のうしろにまわって座敷にあがり、「おじゃまします」と敷居の前に二人に向かってすわった。
久兵衛は座を立って鉄瓶からサトのお茶をいれている。
根岸が菓子皿のお盆をサトの前にうごかした。
サトは菓子をつまんで半分口にいれ噛んだ。カリッと音がした。
根岸はお茶をごくりと飲んで、
「うまいでしょう。近ごろは黒砂糖がでまわって、甘い世になったもんだ」
サトは菓子の半分をもったまま、
「いえ、いえ、黒砂糖は私どもには貴重でめったに手にはいりませんよ」
「そうですか、台湾や厦門では露店で籠に入れて売っていたが・・・」
「えっ、根岸さま・・・ ながいあいだ、そんな遠くに行っていたのですか・・・」
根岸はキョトンと自分の言ったことに気づいて、とまどった。
「なにしに、そんなところにお行きになっていたのですか・・・」とたたみかけるようにサトが問いただした。
久兵衛がサトのお茶を小さな盆にのせてサトの横においた。
サトはおじぎをして、
「久兵衛さま、根岸さまは海をわたって台湾、高砂の国に行かれたのですか、どんなところかお聞かせください」
久兵衛は笑って、
「そうですか、それは私も聞きたいもんです。根岸殿お願いします」と言った。
根岸はは話をそらそうと、
「先日、黒田藩邸で口外無用の役目を申しつかってな」
「どんな、お役目ですか」と久兵衛とサトは同時にたずねた。
「じつは、ちかごろ、京の街中で辻斬りがあるそうです。それで拙者に下手人たちを成敗するように申し付かったのです」
「えっ、辻斬り仲間の成敗を、根岸殿が一人で・・・」
「いや、手立ては、まかされておる。事件の記録もあるので、まずは状況の下調べをして、策をたてねば・・・」
「手伝ってくれるか」と久兵衛を見た。
サトは驚いて、
「辻斬りのうわさは私も聞いています。根岸さまが、それを成敗されるのですか、それはたのもしい・・・」と胸に両手をあてた。
久兵衛は菓子を手にしていたが、
「今どき辻斬り征伐など・・・ たいへんなお役目ですね」と言った。
根岸は菓子をバリバリ食べて、
「戦はなくなって剣術は無用になって、活人剣などと、禅の坊主が柳生の殿様に諭しておるそうだ。なのに・・・ わけがわからん」
久兵衛が気の毒そうに、
「私も沢庵禅師の不動智神妙録や玲瓏集とか太阿記をよんで、剣術はそして刀は武士の精神に、禅的な存在になるのでしょうか・・・」
「わけがわからん」と根岸は久兵衛を見た。
サトが神妙な顔になって、
「武士は民の手本になる生きかたをすることがお役目になるのではありませんか」
根岸が考えるように、
「武士は国を守ることが、親や家族を守るのが、主君の義に殉じるのが役目と・・・」
久兵衛がたしかめるように、
「武士が守る国とは何でしょうか、国土とか領地、そこに住む臣民ですか・・・ 」
根岸がこたえて、
「いやそれだけではない。ご先祖や、今につづく歴史とか受け継がれる習慣とか心もだな。それに、季節のうつろいも木や草の植生も、人のいきざま、きずな、もだ」
サトが、
「いただく食べ物も、お芝居や踊りや、茶とかお花のお稽古ごとも」
久兵衛が言った。
「領土や民は目で見える。しかし民の心が侵略されるのは見えません」
「そうか、心の侵略を防ぐことも武士の勤めというのだな」
令和六年四月十九日