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はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

貝原益軒を書こう五十九 

貝原益軒を書こう 五十九               中村克博

 

 

 根岸はオランダの船に下りると、すぐに船長に案内されて佳代のいる部屋にいそいだ。そのあいだに、副官の指示で船は大型ジャンク船から離れていった。風はしだいに強くなって雨が降っていた。帆を上げると船足は速く大型の戦艦が近くなった。数種類の信号旗が上げられた。戦艦からも返事の信号旗が上がった。二隻の戦艦は南に速度を上げて遠ざかっていく。

 

 根岸が船長につづいて部屋に入ると佳代は座ってうつむいていた。根岸が来たことがわかっても、うつむいたまま顔をあげなかった。根岸は膝をついて佳世の肩にふれた。のぞきこむと佳代は泣いていた。

 少年の水夫ジャンは部屋の隅にまっすぐ立って二人を見ていた。

船長も片膝をついていたが、たどたどしい日本語で根岸に話した。

「佳代殿、船の倉庫で・・・ 私の船、水夫が、何人も悪い水夫が… 許せない、狼藉しました。私の用心、たりません。もうしわけ、ありません。ゆるしてください。悪い水夫は、二人、縛り首しました。海に捨てました。ゆるしてください」

 根岸は船長の話を半分ほど聞いて、「なんと…」と息がつまったように後の声が出ずにいた。うつむいていた佳代は床にうつ伏した。

 

 ドアを叩く音がして副官が顔を出した。船長は副官を見てうなずいた。しばらく二人の様子を見ていたが水夫のジャンに何か言って船長は部屋を出た。

雨も風も強くなっていたが追い風が重く帆走には都合よかった。厦門に向かう大型のジャンク船は右舷前方の東よりにかぶさるように大きく見えていた。バタビアに帰る戦艦二隻は前方に霞んでいた。船長は後部甲板の操舵輪の横でしばらくその方角の船影を見ていた。副官が促すので船長は後方にふり向いた。小型のジャンク船がついて来ていた。小型と言ってもこちらのオランダ船よりはるかに大きい鄭成功の一隻だ。帽子の下の顔に当たる雨を手の甲でぬぐった。よく見ると帆柱が二つある前の大きな方に、その帆柱の最上部に、雨にけむって小さなオランダの三色旗がはためいていた。船長は右手を伸ばして副官に握手をもとめた。副官は嬉しそうに船長の手をにぎって笑った。

 

 少年水夫のジャンは部屋を出て船長をさがしていた。船長は船倉にいた。先ほどのジャンク船との銃撃戦で負傷した船員が十数人いた。そのうち危篤の重傷者が三人ほどいて船では治療の施しようがなかった。

ジャンが厳しい顔をしている船長を見つけて近づくと、気になっていたのか根岸たちのようすを聞いてきた。ジャンは不動の姿勢で、根岸が佳代に何を話していたのかは分らないが、佳代はしばらくすると落ち着きをとりもどして、顔色もよく話もしていることを報告した。顔つきが少しほころんだ船長はジャンに飲み物と食べ物をとどけるように言った。

 

 佳代は根岸の胸に顔をうずめていた。泣いてはいないが涙が流れていた。根岸は佳世の肩を抱いて顔を佳代の頭に近づけていた。左手で背中をおだやかになでていた。佳代のぬくもりが伝わっていたが頭では別の思いがめぐっていた。

 いま四百人の若者が鄭成功の傭兵として明国の厦門にむかっている。明国は清に攻め込まれて十年、いまでは国のおおかたが侵略されている。

それとはまた別に百人の若者が年老いた武士と女子供二百人の家族と一緒にオランダが占領する台湾に向けて航海している。

彼らはいずれも徳川幕府を転覆しようと由比正雪の乱に加担した者たちだ。豊臣から徳川に世変わりしたおりに領国を取り潰しになった大名の家臣と末裔たちだ。その多くが禁教令にそむくキリシタンとされる。 

国とはなんだろうと根岸は思った・・・ 思ったがわからない。

 根岸の腕の中で佳代は穏やかな呼吸をしている。大坂を出て船をいくつも乗りかえて今はオランダの船で南の海を台湾に向かっている。思いかえせば、この役目は京都で藩の家老から思わぬ密命を受けたのが始まりだ。

 なにがどうなって、何が起きたのか、どうなるのか、かいもく見当もつかないできごとが続いたものだ。一介の剣術使いになぜこのような大役を与えたのかとも考えた。考えてもわからなかった。

京都にいる貝原久兵衛とは別れの挨拶もせずに国を出た。国を出た・・・ 国とは何だろうとまた思った。扉を叩く音がしてジャンが飲み物と食べ物を運んできた。

 

根岸が佳代の背中をさすりながら国とは何かと考えている同じ時刻に、貝原久兵衛は松永尺五の講習堂にいた。今日は朝から武家諸法度についての解釈と意見の交換を五人の受講生とかさねていた。昼からは伴天連追放之文についての考察とその後の影響についての意見陳述が行われた。この二つの重要な文書は家康公の命で臨済宗の僧、黒衣の宰相の異名を持つ以心崇伝によって作成されたものだった。これを秀忠公による幕府の法度書きとして公布した。

一日の勉学が終了した。久兵衛は尺五に呼ばれていた。行儀見習いの娘に案内されて廊下を突き当たりの部屋まで歩いた。部屋に入る前に七つの鐘の音が聞こえた。以前も案内された竹林の見える部屋で庭に面した障子は開け広げてあった。しばらく待っていると尺五の急ぎ足が廊下につたわって障子が開いた。

「お待たせしましたな。所司代からの使いが来まして、ながくなった」

「いえ、お忙しいのに、ありがとうございます」

 尺五が久兵衛に対座するとすぐに茶菓子と煎茶が運ばれてきた。すすめられて久兵衛は茶碗を口にした。ぬるめの茶だった。旨味が何とも言えずひと息に飲んでしまった。茶を運んだ中年の女がそれを見て笑った。

 尺五は茶菓子を手にして、ほほえんで女に大ぶりの茶碗でおかわりをたのんだ。

久兵衛殿、黒田家の用向きで今は南の海にいる根岸殿の消息が、明日には伝えられるようです。その前ぶれの使いが所司代から来ておったのです」

「そうですか、どのようなお役目か、首尾よくいっておるのでしょうか」

久兵衛殿は気がかりでしょうね。いずれにしても明日には所司代が直々に講習堂に訪ねてお見えです」

「なんと、京都所司代がみずから講習堂においでになるのですか。あ、いや、幕府が表ざたにしない極秘の処置の経過を、と思いまして…」

尺五は茶を一口飲んで、

「は、は、その方が気楽を装うのに良いのでしょう」

久兵衛に大ぶりの茶碗におかわりが運ばれてきた。

 久兵衛は代わりの茶碗を手にして、

鄭成功のもとに送られる武士たちは明の民になるのでしょうか。満州族の清が漢族の明を滅ぼすと明の領土は清の国土になります。明の国民は武力で国を奪われ言葉も風俗もちがう清の国民なるのでしょうか。そうなれば厦門に移住した日本の武士たちはどうなるのでしょうか」

 尺五は黙って聞いていた。少し間をおいて、

「貝原殿がここしばらく考察されている幕府の法度書では、どうのように解釈されますのかな」

 久兵衛は茶を飲んで、

「私事ですが貝原家が代々身を寄せている黒田家は、初め如水公が豊前国中津十二万石の所領を豊臣秀吉公から与えられました。天正十五年です。ついで関ヶ原の戦いで徳川家にお味方して筑前国五十二万三千余石に国替えになっております。初代福岡藩主は長政公です。そのおりの秀吉公は太政大臣、関白であり、家康公は征夷大将軍、右大臣です。いずれも朝廷の臣下であります。ですから、いただいた領国は朝廷から黒田家が預かっている体裁だと解釈します」

 尺五は茶菓子を口に入れて頭を上下した。

「なるほど、国のありようはそうなりますかね。江戸幕府配下には二百余りの大名の領国がありますが、それはすべて千年も二千年も連綿とつづく万世一系天皇家の国なのですね」

 久兵衛は茶碗を茶托にもどして、

「それにしても、幕府は、これほどの隠密にはこばねばならない国の大事を、なぜ我が黒田藩にお命じになるのでしょうか」

 尺五は結んだ口をうるおすように茶を一口飲んで、

「そうですね、由比正雪の乱は未然に防ぎましたが、起きておれば島原の乱どころではなかったかも、しれません。江戸も京の都も戦乱に巻き込んで・・・ 紀伊大納言様に嫌疑ありと、江戸に謹慎中だとか・・・ しかし、これで、キリシタンの問題も諸大名の統制も一気にさばけるといいですね」

 尺五は久兵衛の顔を見て、

「反乱に加担した罪人でも自国民を国外に追放するとなれば、これは国としての責任の投げ捨てですね。その役目をなぜ黒田藩に命じたか、貝原殿はどのようにお考えですか」

令和四年九月十五日