ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

貝原益軒を書こう 六十

 

 

貝原益軒を書こう 六十                  中村克博

 

 日は傾いて竹林からの風が涼しい。いくつもの鳥の声がする。久兵衛は尺五の問いにこたえようとしていた。

かさねた手を膝に戻しながら、

「幕府は大量の武士を国外追放する難事を黒田藩に命じ、黒田藩はその大役を根岸殿一人に押しつけました。これは事が発覚した場合の予防処置ではありますが、その奥に何か大きな目論見を推察します。

さきほど尺五先生は、これでキリシタンの問題も諸大名の統制も一気にさばければ、とおおせでしたが幕府のねらいはまた別にあると思います」

 尺五は満足げにうなづいて、

「ほほう、それはどんなことか聞きたいものだ」とった。

 久兵衛は「まだ幕府の真意は測れませんが」と首をかしげ独り言のように、

「先ごろ龍光院で、黒田支藩重臣暗殺を根岸殿に命じられましたが、これは黒田家が由比正雪事件とのかかわりを切るため・・・

 それと・・・ 

如水公も長政公もキリシタンでありましたが黒田二十四騎の重臣方にも多くのキリシタンがおられました。しかしそれはもう昔のこと・・・ 」

 そこで話がとぎれ、間をおいて、

久兵衛はひと息に話した。  

「ご承知と思いますが、黒田騒動は寛永九年(1632年)、二十年も前のことですが、筆頭家老の栗山大善様が藩主忠之公は幕府に反逆の意志ありと訴えた事件です・・・ 

当時の長崎奉行であった豊後府内藩主竹中采女正様をとおしての訴えなのですが・・・ 

申し立てがとおれば黒田藩のお取り潰しが懸念されました。

しかし寛永十年、老中は黒田忠之公はじめ幾人もの黒田家重臣を召喚し重々の審理をかさねた結果、黒田騒動を栗山大膳様の虚言として謀反の嫌疑なしとしました。

所領をいちど取り上げ同時に返すとの訳の分からぬ決着で黒田家は改易を免れました。栗山大膳は南部藩へ配流、忠之公側近の倉八十太夫高野山へ追放されます」

尺五は残った茶をすすって、 

「このとき家康公の感状を栗山大膳様と家老の小河内蔵允様が提出したとか・・・」

 久兵衛は尺五を見て、

関ヶ原合戦での長政公の功を謝して、子々孫々まで疎略にしないとの家康公の感状のことですね。しかし、じつは誰もそのようなもの見たことはないのです」

 尺五は久兵衛の話の脈絡をさぐるように、

「話が昔に飛んだようだが、こたびの問題とどのようにつながるのでしょうな・・・

それにしても、あれだけの騒動で誰も腹を切らずに済んだものですね」

 久兵衛は身を伸ばして、

「ところが、腹を切った大名家があったのです」

 尺五は、思いもよらない久兵衛の言葉を確かめるように、

「これは、異なことを聞くものです。どのようなことですか」

 久兵衛は少し前かがみになって、

「この事件では腑に落ちないことがあります。黒田騒動が決着した同じ年、寛永十年に竹中采女正様は長崎奉行職を罷免され、翌年、嫡子の源三郎と共に浅草の海禅寺で切腹です。

不正の発覚は長崎代官の末次平蔵様の訴えです。竹中采女正様が唐人の貨物を着服し自ら国禁の海外貿易に手を染めているという。

他にも罪状の訴えは諸説ありますが、平戸のオランダ商館長の手紙により竹中采女正が朱印状を偽造して南国との密貿易に手を貸しているとの告発などもあります」

尺五は久兵衛の話をつないで、

「そうでしたね、長崎代官が長崎奉行を訴える。たしかに奇妙ですね。竹中采女正殿はキリシタンの摘発に辣腕をふるわれ、踏み絵、穴逆さ吊などの強硬な方針の半面、棄教や転向には温情でのぞんだような方です」

島原の乱は竹中采女正の過酷なキリシタン弾圧と、島原藩の重税が原因と言われます。しかし、それは事件後の官僚による作文、それよりも、幕府は多くの大名取り潰しと国替をおこない浪人難民があふれ出たのが主因、島原の乱は浪人対策の不手際が主因です」

 尺五は久兵衛の話につきあうように、

「幕府は乱の鎮圧に諸藩連合し総勢十二万、反乱軍は総勢七万といいますね。原城に追い詰め殲滅した数だけで三万七千、鎮圧までに四ヶ月ほど、反乱軍は大量の火縄銃や鉛玉や火薬などの武器と膨大な兵糧などを手配しますが、資金はどこから出たのでしょうね・・・ 」

「資金の出どころ・・・ 推測しかねますが、気がかりは島原藩主の松倉家、当初はキリシタンを黙認してポルトガルとの貿易で巨利を得ています。密貿易ですね」

 尺五はうなずきながら、

「それで、話を戻すと、竹中采女正様を長崎奉行に推挙したのは切れ者の老中土井利勝様でしたね。能史と見込んでとすれば、竹中采女正様がおこなった抜け荷の実行は、鄭成功への支援を隠密裏におこなう幕府の策謀かもしれませんね」

 久兵衛は尺五の見識に感じ入るように、頭を下げ、

「今も鄭成功は幕府に援軍の要請を切望しております。しかし幕府は応えない。ところが長崎の代官末次平蔵は密かにそして公然と鄭成功に武器を送っている。これは幕府の禁令にふれ死罪にあたいする重罪。ということは、幕府は表向き清と明との争いに関わることを避けながら鄭成功を援助している。あふれる浪人、余っている大量の銃などの武器・・・」

尺五は久兵衛の話に方向をしめすように、

「博多は、長崎に薩摩、門司、下関、広島、岡山、出雲それに大坂、堺につながります。さらに鎖国とはいいながら、博多は長崎、対馬、釜山、琉球、台湾、安南、交趾、シャム、ルソンなど、さらに厦門金門島、福建、広東、浙江などの湾岸都市をつないでおります」

 久兵衛は尺五の言葉にわりこんで、

「そうです。博多はもともと外国との交易では堺や平戸、長崎にまさる湾口都市。長政公は関ヶ原での功績に何よりも博多をいただいたのです」

「ははは、長政公が関ヶ原の功績に紙の書付など、ありがたがるはずもない」

「そうですよね。如水公が知ったら書付など、長政公を平手打ちでしょう。

はははあ、これはたいへん不遜なことを口にしました」

少し間をおいて、「あっぁ、そうだ」と久兵衛は思い出したように、

「幕府は、外国貿易をオランダに限り、それを長崎出島に限定して独占しようとしていますが、それは今だ有名無実、博多は海外貿易をしてこその博多です。

博多の豪商で嶋井宗室、神屋宗湛、大賀宗久が三傑として知られ今も代々続いておりますが、しかし、今では伊藤小左衛門が博多で一頭地を抜いております。長崎代官末次平蔵様の娘婿は伊藤小左衛門、末次家と伊藤家は親族です。忠之公が長崎のオランダ商館をおとずれる折には伊藤小左衛門をいつも同行されます」

尺五は久兵衛の話がまとまってきたのを嬉しそうに、

「黒田の忠之公は受け継いだ博多の交易機能を生かそうと、家臣の登用も家柄や序列に関わらず若手でも抜擢されますね。武辺で功労のあった代々の重臣は面白くない」

 久兵衛は話をととのえ結論をめざした。

「近年、鄭成功は抗清復明をかかげ清国との戦さに死にもの狂いで、博多の広大な交易領域を背景に武器など戦略物資をかき集めるようにしています。戦さは金がかかりますが、それが清国相手となれば想像を絶します」

「そうでしょうね。大義より金の続く方が戦さは勝ちますね」

オランダ東インド会社は景徳鎮の磁器を独占して輸出しておりましたが、清国による景徳鎮窯の破壊で磁器の確保が困難になります。戦費をもとめる鄭成功肥前伊万里に磁器生産の技術を移転することを思いつきます。それで長崎、江戸幕府、黒田藩、オランダそれに鍋島藩に交渉を持ち掛けます。戦乱で流出した景徳鎮の陶業技術者が多数、伊万里にやってきます。伊万里磁器の作風はまったく景徳鎮と同じです。その結果、景徳鎮の代替として伊万里の磁器生産が鄭成功の権益になります」 

「ほう、いくつもの手ごわい交渉相手がおるものを・・・」

「倉八十太夫配下の若手官僚が立案し、伊藤小左衛門が長崎、オランダなどと掛け合います」

尺五は何度もうなずいて、

「さすがに、そのような国をまたぐ交渉は博多を持つ黒田藩にしかできませんね。伊藤小左衛門の船は前々から、外洋で鄭成功や朝鮮の船と沖合での瀬取り、さらに国外の港でオランダや明や清との出会い貿易をしておる。大坂で火縄銃や刀、槍、甲冑など大量の武器類を買い集めておるし、それらのことは知れわたっておりますからね」

「幕府は島原の乱の翌年に平戸のオランダ商館を長崎の出島に移して二十年ですが、いまだに抜け荷はおさまりません」

「それで、貝原殿の見立てる考えが南海にいる根岸殿につながりますね」

 久兵衛は根岸のことより、もっと大きな大事に気づいたようで、

「幕府は黒田家の、伊東小左衛門の大掛かりなご禁制破りに見せしめの鉄槌を・・・」

 夕日はすっかり落ちて竹林に残照もなかった。

                            令和四年十月六日