貝原益軒を書こう 六十六 中村克博
尺五は話をつづけた。
「根岸殿は佳代さんといっしょのようです。二人は大坂からオランダが領有する台湾のゼーランジャ城に着いたことはご存知ですね」
久兵衛は自分の席にもどって尺五の話を聞いていた。
「はい、そのようすは先日お聞きしています」
久兵衛はそわそわした気分で尺五の話の先を待った。
尺五は返された茶碗に水を差し、茶筅を通して建水にこぼした。
「藤堂家からの知らせによると、根岸殿はいま鄭成功のいる厦門にいるようです」
久兵衛は手に持った茶碗にいまだ口も着けずに聞いていた。
「当初の予定では大坂から鬼界ヶ島を経由して厦門に直行するはずで、それで役目が終わるはずだったのが・・・ 厦門には江戸の柳生からの密命を受けている武士が同行しています。佳代さんも一緒のようですね」
佐那が落ちついた口調で、
「皆さんご無事のようで、安堵いたします。それにしても、たいへんなお勤めのようで、それも思いがけない急なお達しだったようですね」
尺五は自服の茶を点てながら、
「詳しい報告は密書で届いております。後ほど目を通されるとよろしい」
久兵衛が茶を飲みほし、膝前の茶碗に頭を下げて、
「私は、黒田家、京屋敷へ報告はいかがしますか・・・」
「黒田家にはすでに知らせはとどいておりましょう。おそらく京都所司代からでしょう。江戸の柳生よりは速いはずです」
「先ほど、尺五先生のもとには藤堂家からと言われましたが・・・」
「さようです。私の所には徳川家からの繋がりはありませんよ。伊賀からです。諜報はさまざまな経路がありますね。佐那さまはどこからですか」
佐那がほほえんで、
「私がお聞きしたのは鴨神社です。しかし尺五先生より遅れています」
久兵衛は驚いたようすで頭をあげて、
「私は講習堂に朱子学の研鑽のために参っております。徳川家の御政道が、世間をまとめるための倫理を見極める役目を授かっておりますが、それとは別に諜報がいかに大切か、ありがたいことです」
尺五はうなずきながら、干菓子の盆に手をのばした。
「そうですね。学問はその目的が役立たねばなりませんからね」
久兵衛は思い出したように気がかりだったことをたずねた。
「佐那様ともうされますか、鴨川での舟遊びで賊に襲われ行方知れずと聞いていりましたが、まさかここでお会いできる
とは・・・」
佐那が久兵衛の方に膝を向きなおって、
「あのとき、私は鴨川を佳代さまと下っておりました。根岸さまが警護をなさって・・・ そこを鴨神社からの手練れの荒者たちが待ち伏せ、根岸さまに投網をかぶせ反撃できなくして、私を奪い去ったのです。長いあいだ鴨神社の奥まったところでかくまわれておりました」
久兵衛は体をのりだすようにして、
「そうでしたか、あれいらい今日まで、私は名前もお聞きしないまま佐那さまのことが気にかかっておりました。こうしてお会いすると昨日のことのように思えて不思議です」
「わたしも、そうです。ときのながれは短くなって消えてしまうこともあるのですね」
佐那は膝の上に重ねた手を見つめて、
「それに・・・ 大徳寺を出てのできごとは悪い夢だったらいいのにと思います。あの夜の惨い斬殺を目の前でいくつも見て、今も信じられない光景が目の裏に焼き付いています。思い出すと血の気がひきます。」
「私も、武士ですが初めての体験でした。辛くて苦しいときは長く感じても、それが過ぎさると、こんどは思い出そうとしても、それはもう消えています。つらくて苦しかった時期が空白になって思い出せない」
佐那はこたえるように、
「あれから長い月日が過ぎているのに、まこと先ほどのようです」
尺五は二人のやりとりを聞きながら茶を飲みほして、
「ほんとに、そうですね。人が感じるときの長さは漏刻が計る水の流れとは別のものなのですね」
久兵衛が尺五に向きなおって、
「して、佐那さまはどうしてここにおいでなのですか」
尺五は茶碗に湯をそそぎながらほほえんで、
「佐那殿は久兵衛殿と同じ理由で講習堂にきておられます。武断の時世から文治へと、まずは徳川家が定める朱子学の倫理を知ろうとしておられます」
「では、そのために鴨神社から使わされたのですか」
尺五が少しためらうように、
「うㇺ・・・ そうですが、もっと奥のやんごとなきところに繋がるのでしょうね」
佐那が陽気にうきうきした口調で、
「そのように言われては大仰に聞こえます。私は外に出られてただうれしいのです」
「はは、そうですね。ここには各地の大名家から遣わされた若者が多い。ちかごろは商家の子弟も多くなって・・・ ああ、そうだ、久兵衛殿と佐那殿には講習堂から尺五堂の方に受講場所を変えてもらわねばと思っております」
「尺五堂にですか」と久兵衛と佐那が同時に聞きなおした。
「そうです。尺五堂の方です。山崎闇斎殿や伊藤仁斎殿との居宅に近く、ご両人の出入りもあります。御所の南通りにそっています」
令和五年四月二十日