一年ぶりだった。二ヶ月おきにしていたが、コロナとかで出来なかった。
いい天気で十人ほどの参加者だった。
みんな後期高齢者になって、それでも元気だ。
川上君がいない。いないのを思えば胸が苦しくなる。
食べきれないほどの料理を腹に入れてもデザートは欠かせない。
近年は時間がすぎるのが早い。夕方になっていた。
せんしゅうの金曜日はエッセイ教室だった。
小説の題は、貝原益軒を書こう、だが根岸ばかりが登場すると道崎君が言った。
今回は久しぶりに久兵衛が出てきた。
貝原益軒を書こう 五十一 中村克博
久兵衛は滞在先の離れ屋で書物の整理をしていた。ここしばらく暖かい日がつづいていたが今朝は寒かった。朝の食事はさきほど母屋ですませていた。障子ごしに部屋の奥まで朝日が入って陶器の火鉢に掛けられた鉄瓶から湯気がおぼろに見える。庭に足音がして障子から家主の娘の声がした。
「一服なさいませんか」
久兵衛が障子を開いた。
「それは、どうも、ありがたい」
娘は湯呑と菓子の盆を畳に置いて部屋の中を見た。
「あら、あたらしい風炉がありますね。それに茶釜の形がおもしろい」
「あ、あれは講習堂の尺五先生からいただきました。上がりませんか」
「はい、ありがとうございます。片付けものが残っていますので、のちほどお邪魔してもよろしいですか」
久兵衛は火鉢の火を少し風炉に移して火種にした。炭籠から炭をついで形をととのえた。茶釜を洗って水を入れた。ふくよかな瓢の形をしているが小ぶりな茶釜は松永尺五から贈られたものだった。そのとき一緒にもらった風炉も一風変わった形をしていた。茶道の風炉というより唐銅の火鉢を小さくしたようで高さは手のひらを立てたほど差渡しは一尺ほど、青銅で出来ていて全体に緑青が出ているが経年の使用感で程よく緑青が落ちていた。風炉のような火窓はなく小さいのに重みがあって落ち着いた感じが気に入っていた。
久兵衛は抹茶を点てる用意をしながら先日の講習堂での尺五との話を思いだしていた。禁中並公家諸法度と武家諸法度を今一度よく読み込んでおくようにいわれている。禁中並公家諸法度といえば、紫衣事件でこれに抵触した沢庵禅師が出羽国上山に流罪になったことが思い浮かぶ。
紫衣事件とは、寛永四年(一六二七)天皇が幕府の法度を無視して出した大徳寺、妙心寺などの僧に対する紫衣着用勅許を江戸幕府が無効であるとし、沢庵らの高僧を出羽国や陸奥国へ流罪した事件である。
大徳寺住職であった沢庵宗彭は柳生宗矩とは若いときから懇意であった。剣禅一如を説き宗矩の求めに応じて不動智神妙録を書きあらわした。これによって剣の技を武術から武道へ流れを変える倫理の基になった。
紫衣事件から五年、寛永十一年(1634年)将軍家光公は参内して後水尾上皇との和解を願い上皇に七千石もの院領を献上した。またこのとき沢庵禅師は刑を解かれて大徳寺に戻っていたが家光公は大徳寺にも多大な寄進を行い法堂や仏殿などの伽藍を整備した。
このとき家光公と沢庵禅師の対面を取り計らうのが柳生宗矩であった。翌寛永十二年(1635年)沢庵禅師は幕命により再び江戸に下った。寛永十三年には家光公に近侍する。寛永十六年に徳川幕府は品川に万松山東海寺を建立して沢庵禅師を開祖とした。このような沢庵禅師がかかわる一連の出来事は何を意味するのか、柳生の剣の変化と徳川幕府が武断の政道を文治の世に変えよとすることは、どのような関連があるのか・・・
障子の外から家主の娘の声がした。久兵衛が立ったままで障子を開いた。娘は部屋ににじって入り両手をついておじぎをした。
「おじゃまいたします」
「どうぞ、中へ、いま茶を立てようとしておりました」
久兵衛は障子を閉めずに開いたままで茶釜の前に座った。
「窯の火がほどよくなりましたが、まだ湯が沸いておりません」
娘は両手を膝に置いたまま体を乗り出すように、
「このような釜と風炉の組み合わせは初めて見ました。
瓢箪の形をした釜と小ぶりな風炉との取り合いが・・・
使い込まれた茶釜の色と風炉の緑青の薄緑とがよろしおすなぁ」
「そうですね、格式張らずに、ほどほどなのがいい」
娘は膝前に置かれた落雁を見て、
「あれ、これは長生殿ではありませんか・・・」
「そ、そうですが、サト殿は食べたことがあるのですか」
久兵衛は娘の名前をサトと初めて口にしたのだが自分では気づいていなかった。サトの方がそれに気づいていた。
「いえ、いえ、このような高貴なもの、お話を聞いただけどす」
「話を聞いただけ・・・」
「はい、話を聞いただけ、見るのは初めて・・・
後水尾天皇さまが加賀の前田様から献上されたお菓子をおほめになって、
その白い長方形に胡麻をふりかけたお菓子を後水尾天皇さまは田に落つる雁のようであると、落雁と命名されたとか、
そのあと前田利常公のお考えで唐墨の形に似せて、小堀遠州卿がこれに長生殿とお題をつけられたそうどすな」
話を聞いていた久兵衛は固まったように驚いて、
「な、なんともサト殿から思いもよらぬ因縁の深い話をお聞きして・・・」
落雁も瓢箪形の茶釜も松永尺五がくれたものだ。久兵衛の頭の中で、後水尾天皇、沢庵禅師、柳生宗矩、徳川家光の関係が線でつながり入り乱れた。尺五から与えられた禅問答の考案のようだ。
久兵衛はつい先日、講習堂で聞いた話が頭をよぎった。慶長十六年(1611年)後水尾天皇が即位されると時の徳川家康公は孫娘、和子様の入内を申し入れた。入内宣旨が出されるが入内は大坂の陣や元和二年(1616年)の家康公の死去のため延期された。元和四年には、お輿入れの女御殿の造営がはじまる。
ところが何と、天皇は四辻与津子という女官に女児を産ませていたのが発覚する。後水尾上皇が禁中法度など無視して宮中に遊女を招きいれ、さらに遊廓にまでお忍びでお出かけになる秘話も聞いていた。信じられないことだが譲位後にも中宮以外の女性に三十余人の子を産ませている。
この傍若無人を地で行くような徳川幕府など眼中にないような振る舞いはどう解釈すればいいのか・・・
家主の娘のサトが久兵衛のようすをみて、
「貝原さま・・・ いかがなされました・・・」
久兵衛は、はっと我に返って
「い、いえ、干菓子の命名を後水尾上皇様がされたなど、驚きますね」
「ほんに、気さくな天皇さまで・・・」
「そ、そうですね・・・」と応えたが、久兵衛の頭は上の空で勝手に沢庵に飛んでいた。
柳生新陰流の宗矩公は戦乱の世に培われた武術を沢庵禅師の不動智神妙録によって平和な時代の武士道人倫に変異させる。そして、徳川幕府はこれまでの武断による政治から朱子学を規範にして文治の世に変えようとしている。
しかし、それは建前の表看板なのかもしれないと思ってみた。であれば藤原惺窩から林羅山それに講習堂の松永尺五の儒学、朱子学、陽明学とは・・・
久兵衛は考えが混乱して目の焦点が宙を見るように浮いていた。
幕府が次々と出す様々な法令や施策には林羅山が関わっている。いや、その前に徳川幕府にはもっと凄い儒者がいた、臨済宗南禅寺の以心崇伝禅師という。はじめは後水尾天皇の師であったが徳川家康公に乞われ駿府に赴き江戸幕府の法律の立案、外交、宗教統制を一手に引き受けて江戸幕府の礎を作ったとされる。禁中並公家諸法度も以心禅師の創案で沢庵禅師を流罪にしたのも以心崇伝の考えらしい。沢庵禅師は以心崇伝を天魔外道とののしった。この人物のことを調べれば徳川家の治世の根本がわかるかも、ところが沢庵禅師が家光公のお抱え儒者として出てくるとは、どのように解釈すれば・・・
久兵衛は茶碗や棗、建水や柄杓を並べ終えて湯が沸くのを待つように瓢箪の形をした茶釜を見つめていた。久兵衛は霞が消えていくようにハタと物が見えていくような気がしていた。久兵衛の頭の中で、後水尾天皇、沢庵禅師、柳生宗矩、徳川家光のかかわりが時系列で見えてきた。それが意図する意味合いも見えてくるようだ。
サトが落雁を割って口に入れた。茶釜から湯気がでて、たぎる音がした。
「久兵衛さま、湯がわきましたよ」
「おお、いい湯の音がしていますね」
「久兵衛さま、さきほどから何をお考えですか、まるでお心が止まっているように・・・」
「いえ、お、おはずかしい。ある考えが引っかかり・・・」
「きっと講習堂でのお勉強が大変なのですね」
「いえ、いえ、不動智というご本の、とらわれない心を・・・ 言葉でわかっても実行はできないものですね」
令和四年四月十四日