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はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

貝原益軒を書こう 七十一 

貝原益軒を書こう 七十一               中村克博

 

 すっかり日が落ちていた。涼しい風がふいて茶室から母屋に移った久兵衛と佐那は二人で夕餉を頂いたあとだった。部屋は燭台の光で明るかったが庭に面した障子の外が白くなったので月が出たのが分かる。

 佐那が障子を少し開けて夜空をのぞいた。

「雲のあいだに居待月、それに虫の声・・・ 秋ですね」といった。

 久兵衛が席を立って障子から顔を外に出した。

「少し欠けた月はいいですね。雲がうっすらとかかって・・・」

 佐那が席にもどりながら、

「尺五先生はこの月を見てどのように詠まれるでしょうね」

 久兵衛が、

「古今伝授は三条西実枝様より細川幽斎公が伝授され、それを八条宮智仁親王様に伝授され、さらに親王様から後水尾上皇様に伝授されて御所伝授が成立しました。尺五先生のお父上、松永貞徳様には地下伝授として細川幽斎公が伝授しておられますね」

佐那は、

「・・・ そうですか・・・」と言った。期待していた言柄ではなかった。

 

 廊下に人の気配がして、上使いの下女が障子を半分ほど開けて両手をついていた。お風呂の用意ができていると知らせた。男女それぞれのしつらえがあるようだ。

 数日前にも烏丸の御池通りで辻斬りがあったそうで、今夜は夜道をさけて泊っていくようにと松永尺五が配慮してくれていた。

 二人を風呂に案内する下女に久兵衛が声をかけた。

「最近は京も、えらく物騒ですね。あちこちで辻斬りが出るようですね」

 下女は手燭をもって先に歩きながら、

「はい・・・」と小さくうなずいた。

 久兵衛はうしろの佐那の足元の暗さに気づかいながら、さらに下女にたずねて、

「辻斬りは物取りですか、試し斬りですかね」

 下女は那佐の足元に明りが届くようにして、

「さあ、私にはわかりません」と頭を下げながら小さく言った。

 

 風呂から上がった久兵衛と佐那は用意されたとなりどうしの部屋に落ち着いた。置き行灯に火が入って部屋は明るかった。隣の部屋とは障子で仕切られ鴨居と天井の間には欄間はなかった。天井に佐那の影が映って動いている。庭に面した障子が月の光で明るかった。雨戸は閉めてなかった。庭番の伊賀者が昼も夜も警固している。

 久兵衛脇差を刀掛けに置いた。大刀はすでに枕元の刀掛けの上の段に置かれていた。いまだに何でこんな重たい刀を腰につけているのかと思った。風呂を使う前に着ていた羽織袴が刀掛けの横にきちんと畳まれていた。部屋が明るい。行燈の火を調節しようと火皿の大きい芯を消したとき、うっかり小さい芯まで消えてしまった。それでも月明りで部屋は暗闇ではなかった。寝床に横になったが目が冴えて眠れそうにない。

 となりの部屋はまだ先ほどのままに明るかった。何をしているのだろうと思った。声をかけてみたいが・・・ ためらっていた。掛布団をかぶっで「おやすみなさい」と小さく言った。言ったあと自分の女々しさに恥じて気持がむずむずした。

すると、となりの部屋から、

「おやすみなさいませ」と声がした。

 久兵衛はびっくりした。あわてて、

「おやすみなさい」と夜具から顔を出してこたえた。

 いよいよ眠れなくなった。

 

 久兵衛は目をつむって息を大きく吸った。そして息を止め、ゆっくり吐いた。ゆっくり息を吸い、さらにゆっくり吐いた。力を抜く、力を抜く、全身の力を抜く。両手を体側に置いて、手のひらを上にして背中の肩甲骨を左右引き寄せた。両方の手首を外にねじってさらに手のひらを上に向けた。その状態でしばらく呼吸をゆっくり続けた。そのあと両脇の手をへその下丹田にこんどは手のひらを下にして置いた。吐く息に意識を集中した。細い息をできるだけ長くはいた。自然に、意識して自然に無理をせずに吐く息をできるだけ長く細くはいた。気がおさまってくるのがわかった。ゆっくりした血のめぐりが意識に伝わって、下腹の奥の方が温かくなってきた。

厦門にいる根岸と佳代のことが思いに浮かんできた。長らく消息を知る手掛かりがない。どうしているだろうかと思った。

耳鳴りがする。かすかに低く単調で唸るような音だ。気にするとよけいにはっきり聞こえる。いや、虫の声のようでもある。久兵衛は両耳に人差し指を突っ込んでみた。音はやんだ。指を離してみた。先ほどの音がまた聞こえてきた。いくつかの虫の声が混ざり合って一つの音のように耳鳴りのように聞こえているのが分かった。すると、また、となりの部屋に寝ている佐那の顔がうかんだ。夜具の中の佐那のようすを想像した。虫の声がする。うつらうつら、意識が遠のいていった。

 

久兵衛は襖を静かにひらいた。月明かりで障子が明るく佐那の目を閉じた顔がはっきり見える。那佐は声を立てなかった。いやむしろ久兵衛を受け入れるようであった。これが現実か夢なのか、数日前か今なのか、一瞬かゆっくりなのか、夢のうつろうまま、ときもないようにあらぬ情景がすすんでいった。久兵衛は佐那に顔をうずめた。佐那はなされるままにしていた。そして、こたえてくれた。久兵衛は今おきているのが夢なのか、いや夢ならさめないでほしいと思った。  

 

 久兵衛の寝息がとなりの部屋から聞こえてきた。佐那は書きものをやめて、行燈の灯りを小さくした。虫の声がしていた。  

                               令和五年九月十三日