ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

電線に鳥が止まってベランダに糞を落とす。

住んでいる家の壁を塗り替えている。

建てて25年ほどになる。あちこち傷んでいる。

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家の前の目ざわりな電線を撤去してもらう。

遠くの景色の邪魔になるし鳥が止まって糞を落とす。

 

 

エッセイ教室に提出した小説の原稿は、

久兵衛がいよいよ松永尺五をたずねた。

 

貝原益軒を書こう 三七               中村克博

 

 

 久兵衛は一人、堀川ぞいの講習堂に松永尺五をたずねた。二条城東門を前に繁華な場所にあっても車馬のかまびすしさもなく閑静であった。朝から夕方まで四書五経、近思録、小学、通鑑目録などを講ずることたえず、公家や武士だけでなく町人まで出入りしていた。屋敷の奥には竹林がある。朝日がかかってまぶしかった。久兵衛は案内されるまま玄関を通らず屋敷にそって庭の路地を歩いた。鳥のさえずりに聖典素読する声を聞きながら屋敷の奥まったすみの部屋に濡縁から通された。

 久兵衛は床を前にしてすわった。床には書も花のなく瓢型の小ぶりな茶釜がひとつ置いてあった。庭の障子は左右に開けられ手入れされた草木に竹林からの日が射して風もなく小さな白い花がいくつも咲いていた。のどかな部屋のありようで久しぶりに気持ちがおだやかになった。目をとじて肩の力をぬいた。小鳥の声が聞こえる。カエルの声もする。しばらくすると昨日までの出来事が頭をよぎりはじめた。 

 

大徳寺での惨劇のあと、陽が落ちてから根岸と黒田屋敷にもどった。家老がまっていた。家老はすでに龍光院からの報告をうけ、あらましは知っているようで些細なことを少したずねただけだった。今後の手筈もととのえて一件落着、何事もなかったようだった。二人に金子をたまわった。あくる朝、黒田屋敷を出て宗州の京都屋敷に出向き、一息するひまもなく宗州に龍光院での出来事とそのいきさつを説明した。そのあと宗州は席をはずして根岸と簡単な食事をした。しばらく休んで佳代殿と公家の女人の部屋に案内された。

ほんの一日か二日の出来事なのに、長い月日がすぎていたように二人の顔を見ると懐かしく、ほっと安堵する気持ちがした。久兵衛は不覚にも目が潤んで公家の女人の前に座り思わず膝をすすめて互いに手をとりあった。いや、ほんとうは公家の女人は両手を膝の上に重ねたままだったのだが、久兵衛は互いに手を取り合ったと思った。女人はうつむいて涙を流した。久兵衛の手の甲に女人の流す涙が落ちてきたのは確かだった。

根岸は久兵衛の後から部屋にはいった。二歩ほど入るとうしろで案内が障子を閉めた。久兵衛は大刀を預けているが根岸は左手に持ったままだった。家の中では、腰から外した大刀は右手に持つのが大方の流儀らしいが根岸はそうしない。栗型のあたりを左手で持って腰の前にし、鞘尻をさげて右手が左手にかるく重なるようにしていた。立ったままだった。すわって根岸を見つめる佳代と目があった。佳代は思わずか、たまらずか、膝立ちになって根岸の腰を抱きしめた。刀の鍔が佳代の頬にあたった。佳代はかまわず頬ずりする。根岸は刀を腰の左にうつした。右手は行き場を失ったが佳代の頭をささえるように包んだ。

 

久兵衛は講習堂の奥の部屋にいる。廊下を人が近づく気配がした。障子が開いて書生が茶を運んできた。もうしばらく待つようにと松永尺五からの伝言があった。久兵衛は思いふけることをつづけた。

公家の女人は身の処かたがまだ決まっていなかった。今も宗州の京屋敷にいる。いまだに名前を何と言うのかは知らない。誰も聞かないし言わない。このまま江月宗州のところに置いておくわけにはいかない。人知れず殺害されるか、遠くに売られるか、いずれにしても存在を消されてしまう。黒田屋敷で家老がそのことにふれなかったのは、この事件は一件落着で公家の女人のことは黒田家とかかわりはなくなった。すでに頭にはないのだろう。久兵衛の思いはさらにひろがる。

しかし、宗州はそうはいかない。厄介な火種をかかえていては災難が降りかかるのは目に見えている。由比正雪の事件を幕府は短期間で解決したようだが根が深い。紀州の徳川家も岡山の池田家も黒田家もそして宮廷の一部もからんでいる。さらにイエズス会の残映もうごめいてつながろうとしている。宗州の屋敷にいる公家の女人の存在が糸口になって一連の関係が表に出るやも、と思いをめぐらせていた。

 

今日こうして松永尺五をたずねたのは、君命で講習堂に入門する挨拶のためだが、今の久兵衛に肝要なのは松永尺五に事の一切を申し述べて、なんとか良い手立てを考えてもらえないかと、いうことだった。その成否に不安がないわけではないが勝算はある。それよりも、初対面にのっけから重大で厄介な頼みごとを持ち出すことの図々しさが、なんとも気が引ける。

松永尺五の講習堂が建つ用地東西十八間、南北三十間と構築にかかる費用は京都所司代坂倉周防守茂宗の篤志による。師の藤原惺窩や父、松永貞徳の余沢を多分に受けているが、謹厚な人柄と積年の奨励とが自ら融和寛容の徳を大成して、稀に見る光栄を致したのだろう。さらにその儒名は宮廷にまで達して後水尾上皇から特別な配慮を頂き、近ごろ禁門の南に敷地をたまわり、住まいを新築し尺五堂と名付け公卿や著名人の訪問がたえないという。後水尾上皇は四代にわたる天皇の後見人として現在も院政を行う。上皇中宮である東福門院院政を擁護している。東福門院は二代将軍徳川秀忠公の三女である。先ほど崩御した徳川家光公は朝廷との協調姿勢をかかげていた。そのような情報を久兵衛は京都に赴く以前から承知していた。それにしても、公家の女人の保護をお願いするのに、どのように話を切り出せばいいのか、わからない。

急ぎ足の音が近づいて障子が開けられた。松永尺五が部屋に入ってきた。

床を背にして腰を落とし足の両裏を合わせて座りながら、

「お待たせしましたな。もうしわけありません」といった。 

 久兵衛は両手をついたままで、尺五の足元を見ながら挨拶の口上をのべた。

 

令和三年五月六日