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貝原益軒を書こう 四十五             

貝原益軒を書こう 四十五             中村克博

 

 

 根岸と佳代が乗る二丁艪の早船はほどよい風に帆を張っていた。鴨川からすでに桂川に合流して行き交う船も多くなっていた。二人は屋形の中に入って外の景色を見ている。ときおり佳代が根岸に話しかける。

そのころ、京都の久兵衛は下宿先の町家の離れ屋で小倉から送られていた荷物の整理をしていた。講習堂では松永尺五から住いを町家の下宿ではなく、こちらの宿舎にするように勧められていた。そのときの尺五とのやりとりを思いだしていた。

 

「それで、荷物は間借りする予定の町家に送られているそうですが、ここに、講習堂の宿舎に運んだらいい。運送の手配はこちらでやりましょう」

久兵衛は町家に間借りして講習堂に通うつもりでいたが、それでは不便だろうと尺五が講習堂の宿舎を使うように決めてしまった。それは思いがけなくありがたいのだが、肝心な公家の女人の話を切り出せないでいた。

「先ほどの話によれば、荷物には茶道具が多いようだが久兵衛殿は茶の湯をたしなまれるのですか」

「いえ、いえ、私はまだ心得がありません。お道具は豊前の小笠原様からのお預かりものです。黒田家から預かったものもあります。尺五様へお届けするように申し付かっております」

「ほう、そうでしたか、それは楽しみですね。久兵衛殿も、こちらに居られる間に勉学だけでなく茶法を身につけられるといいですね」

「はは、ありがとうございます」

「ところで、久兵衛殿はこのたび京に来られてから、大層な難題をお抱えになったようですね」

 久兵衛はうろたえた。切り出せないでいることを見透かされたようで、

「は、はい、じつはどうしていいのか途方に暮れております」

 尺五は久兵衛をいたわるように、

「あらましは聞いております。木下順庵と言う者がおりましてな。順庵は私の門下ですが加賀藩主前田利常公にご贔屓になっており、数日まえに前田家の京屋敷に出向いたおりに今回の事件を聞いております。以前に柳生宗矩公に従って一時江戸に出たこともあるほどに柳生家ともつながりがあります。そちらからも事件のおおよそを聞いてきております」

「恐れ入ります。なにとぞ、よき計らいを賜りますようお願い申し上げます」

由比正雪の起こした災難を大火事になる前に消し止めたのは幸いで、あとは残り火を注意して一つ一つ消していくだけです。案ずるには及びますまい」

「は、はぁ~~、して、いかような手立か、お教えください」

 久兵衛は両手をついて尺五を見上げた。

 

 そのとき尺五は由井正雪の事件を案ずることはないと言っていたが、それから先の話は聞かずじまいで講習堂を出てきていた。根岸が鴨川下りの舟遊びで襲撃にあったことも、公家の女人が奪われたことも、そのあとの伏見での出来事も久兵衛は知らない。根岸と佳代が淀川を下っているなど思いもよらないことだった。

 

 久兵衛は小倉で細川忠利から預かっている茶器の荷物を開いていた。上野焼の水差や茶碗それに芦屋の茶釜などを蝋燭の明りで確認した。明日また明るい日の光で見ることにしてそれぞれの箱にもどして床の間に並べた。久兵衛が下宿するこの離れ屋は八畳が二間あって真ん中に物置と水屋が付いている。軒がふかく周りを縁側がめぐらしてあり隅には厠もついていた。久兵衛は荷物の整理をしながらこの離れ屋を気に入っていた。五尺から講習堂の宿舎をすすめられているがどうしたものかと思っていた。部屋の外に足音が近づいて障子に手燭の小さな灯りが映り縁側から声がした。

「貝原様、お茶になさいませんか、スモモのいただきものがあります」

 若い女の声だった。下宿している町家の娘の声のようだ。

「そうですか、それはありがたい」

 月が雲間から出て娘が手燭の火をふき消した。娘のあとについて母屋の濡縁から障子が開け広げられた板張りの部屋に上がった。蚊遣火(かやりび)がふすぶる匂いがしていた。濡縁に近いところにスモモの盛られた皿があって傍に藁で編んだ小さな円座がひとつ置かれていた。部屋の隅に行灯がともっていたが、中ほどには燭台が置かれて近くの小さな火桶に鉄瓶がかけられていた。茶盆に急須が見える。久兵衛は座って外を見た。夕顔が月明りで一輪白く見える。 

 

 

 庭からの風が心地よかった。燭台の蝋燭がゆれている。娘が急須に緑茶を入れ湯をそそいでいる。久兵衛は娘のしぐさをながめていた。まだあどけなさが残るがしとやかなおもむきのある人のようだ。さきほど娘が濡縁を上がるとき踏み石がなく裾をからげたふくらはぎの白さが月の明かりでまぶしかったのを思い重ねていた。

 娘が茶を運んで丸盆から茶托の湯呑を久兵衛の横に置いて、かるく頭をさげた。

「講習堂からもどられ、ずっとお部屋で片付けをしておられ、おつかれさんどす」

 久兵衛は笑顔でうなずいて娘の顔を見た。娘が口にした「もどられて」という言葉に心がひかれていた。茶を一口飲んだ。そして、もう一口飲んだ。講習堂を出て下宿先のこの町家を訪ねたのは京に来て初めてのことだった。家の主人や女房、それに娘と顔を合わせたのも今日の午後が初めてなのに。温かい人たちだと思いながら、ほのかな月明かりと蝋燭の影がゆらぐおぼろな娘の顔を見ていた。

娘は正座から両足を爪立てた姿勢で丸盆をもって、

「貝原様、どうぞスモモをめしあがりやす」

「あ、ぁあ、はい、いただきます」と我にかえったようにいった。

 娘は両手に持っていた丸盆を胸に抱えるようにして、

「貝原様のお荷物は書き物がたくさんですね。それに焼きものもたくさん、それに剣術使いのようにお刀もいくつも・・・」 

 久兵衛は茶を飲んで湯呑を茶托に返しながら、

「そうでしたね、お昼から荷ほどきを手伝っていただいて、おかげでほとんど片付きました。文書以外の荷物のほとんどは刀も陶器も頼まれたお届け物です」

娘は丸盆を胸に抱えて、

「そうですか、お刀も贈り物におつかいなので・・・」

「戦乱の世がおさまり、刀は戦の道具から、形や表情の趣を観賞するようになっております。国ごとに伝えられる技の伝統があります」

「それでは書画や仏像のようですね」

 久兵衛はスモモをひとつつまんで口にはこんだ。

「これは、うまいスモモですね。そなたもいかがですか」

 娘は丸盆をふかく抱えなおすような仕草をして、

「ほんと、おいしいでしょう。でも、お刀がお茶のお道具のように柔和に扱われるのを想像するのは、やはり・・・」

 久兵衛はふたつめのスモモを手に取って口に入れようとしたが、スモモの皿を手にとって娘の前に置いてすすめた。

娘はかるく頭を下げて、

「ありがとうございます」といって、スモモはとらずに、茶托に手を伸ばした。

「お茶をいれかえますね」といって、久兵衛の湯呑がのる茶托を丸盆にうつした。

 娘は茶をいれながら、

「松永尺五様の講習堂は日本中の秀才が集まるご学問所なのでしょう。どんなことを勉強されるのでしょうね。それでも、たまには亰の名所をめぐって見物なさってください。その折には私にご案内させてくれはりますか・・・」

 久兵衛は口のスモモから果汁が漏れだしたのを手の甲でぬぐいながら、

「そ、それはありがたい」といって手の甲を袴でふいた。

 娘が茶を運んできた。

「私はこれで失礼しますが、あと、お風呂の用意ができております。ごゆっくりどうぞ。一日のお疲れをながしてください」

 といって、部屋からさがっていった。久兵衛はぽつんと取り残されたように薄雲にさえぎられぼんやり光っている月を見ていた。あす講習堂で松永尺五に下宿先は黒田の京都屋敷が手配した町家の離れ屋にする旨を申し伝えようと決めた。

令和三年十月十四