ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

午前中はお茶の稽古

今年になって長女も稽古をはじめた。

雪が残っているが天気は良かった。

娘はあらためて盆立てから、従兄弟は濃茶の稽古、
母は両方を同時に指導していた。たいへんだろうと思った。

母から習い始めて従兄弟と僕は五年目に、
二人とも、もうすぐ古希。


昨日はエッセイ教室だった。
為朝は琉球をそして鬼界ヶ島をあとに壱岐へ向かう
       アテナの銀貨                 中村克博


 鬼界ヶ島を奪還する討伐戦で投降していた琉球の反乱軍将兵五百のうち四百は帰参して許され、すでに王朝軍に再編されていた。
残りの百人ほどは鬼界ヶ島に残留して硫黄の採掘と運搬に従事していた。ほかに最後まで山にこもっていた幹部の部将たち十人は後に島津の守備隊に投降していた。この残留組の将兵から為朝は配下として徴募に応じるものを聖福寺船で連れていくことにした。
希望者は部将八人と兵四十ほどだった。この中から部将三人と兵十二人を選んだ。心身頑健な者、身寄りのない者、琉球に帰ると罪に問われる者を優先した。戦傷の治療をしていた平家の武者たちは島に残り時期をみて琉球で作戦中の本隊に合流することになった。
博多に行くことを希望するイスラムの海商マンスールは単身での同行を許され、二人の許嫁は革袋の宝玉をもって乗ってきた船で帰ることになった。重たい箱いっぱいの金貨も返却されたが、いくつもの籠に盛られた珍しい果物は聖福寺船の乗組員がとっくに賞味して跡形もなかった。

夕日が西の海を染めていた。聖福寺船に続いて硫黄を満載した外洋船が鬼界ヶ島を離れると進路を北北西に変針した。それを護衛する南宋の軍船が後を追った。まだ白波が立つほどではないが西の風がしだいに強くなっていた。
三隻のイスラムの船が帆の風を抜いて漂っていた。漂いながら聖福寺船を見送っていた。見送る帆影が夕日の照り返す海へ遠く、しだいに小さくなった。日が沈むと、それまでの赤く黄色い夕焼けは消え、ぬけるように透明な空の青と吸い込まれるような深い海の色に変わった。

鬼界ヶ島を出て一昼夜過ぎた夜だった。強い風が北西から吹いていた。聖福寺船は北に進んでいた。下甑島(しもこしきじま)が右舷後方に過ぎるころだったが細い月明かりでは島影はさだかでなかった。聖福寺船と続く二隻が進路を別にする地点にさしかかっていた。暗い海だった。南宋の戦船から軍鼓が高らかに響きはじめた。聖福寺船がそれに応えて法螺貝を鳴らした。聖福寺船はそのまま北を保持し、続く後ろの二隻は西に進路を変えた。
為朝と船長が上甲板を歩いていた。
南宋の軍鼓の響きが寂しく聞こえます」
「戦のときに聞こえる響きと違うのかな」
「戦のときは鼓舞しますが、今は名残を惜しみます」
 水夫や為朝配下の武士たちも左舷の船端の欄干に鈴なりになって、届いてくる軍鼓の音の方を静かに見ていた。船尾楼の物見甲板から時おり二羽の法螺貝が長い尾を引いて吹かれていた。
「法螺貝を一羽、二羽と数えるのはなぜでしょうか」
「なぜだろうな、鳥に似ておるのかな、戦場では陣貝といったな」
 二人は船尾楼に上がって行った。
惟唯と次郎それに二人の僧が甲板の手すりから、遠くに離れていく南宋の船を見ていた。風の音が聞こえる。為朝は手すりに近づいて皆と同じ暗い海に目をやった。南宋の戦船から届く太鼓の音はかすかに風の音にまじって聞こえていた。
思い出したように船尾楼の見張り甲板から二羽の法螺が鳴りだした。静寂を破ってだんだんに大きく長く、そして高い裏声のような音に変わった。ひとたび鳴りやんでまた鳴りはじめた。
「もうよい、法螺をふくな。止めよ」と惟唯が上に向かって叫んだ。
 惟唯の声は法螺をふく者には聞こえないようだった。
為朝が惟唯に笑いをこらえて、
「そう叫ぶな、傷にさわるぞ」とたしなめた。
「法螺は吹くことを立てると言いますが、なぜでしょう」と船長が言った。
「なぜかな、茶も点てると言うが、わしには分からぬ」
「ホラを吹く、はウソをつく意味にもなり、それで、立てるでしょうか」
 横で聞いていた聖福寺の僧が、
「元は、ほうら、でありますが無量寿経に法鼓を扣き、法螺を吹く、とあります。法華経にも大法螺を吹き、大法鼓を撃ち、とあります。心地観経には大法螺を吹いて衆生を覚悟して仏道を成ぜしむ、とあります」と記憶をのべた。
「では、法螺を吹くとは元はと言えば仏の説法のことですな」と船長が感心したように言った。
「我ら若僧が、出来もしない知識だけを言うと、理屈ばかりのホラになり、ウソになったのでありましょうか」と恥ずかしそうに言った。
 風がさらに強く吹いて冷たくなっていた。上甲板には人影はなく見張り番の動きがあるだけになっていた。

「寒いな、部屋に入ろうか」と為朝が言った。
「体を冷やすと傷に良くありません」と僧が惟唯と次郎を見た。
「それでは、私は下に居ります。夜半には風が北にふれると思います。そうなれば進路を北東に変更します」船長は為朝に告げて皆に挨拶した。
「ま、茶だけでも飲んで行け」と為朝が言った。
 部屋には蝋燭が壁の左右に、卓の上には天井から吊るされていた。
琉球の女が待っていたように煎じ茶を注ぎ分けてくれた。奥の椅子に為朝が座った。二人の僧と惟唯と次郎がその左右に座った。入口の椅子に船長が腰をおろした。
マンスール殿の様子はいかがですか」と次郎が言った。
「先ほどお休みになり今は眠っておいでです」と女がこたえた。
「博多に行きたいなどと言わずとも…、自分の船で帰れたものを」
「許嫁の手も握らず、ろくに顔も見ておらんようでした」
「女は顔を布で隠しておりましたから」
「わからんな」
「一人になられた後、泣いておられましたよ」と女が言った。
「尻の傷が痛かったのだろう」
 琉球の女が茶を注ぎ足してまわった。
「丁国安殿の船は今ごろ、どのあたりでしょうね」
「鬼界ヶ島の沖までイスラムの船と一緒でしたから」
「我らより半日速い。北に向かうに都合よい西が吹いていた」
「右手に平戸、左手に宇久の島のあたりでしょうか」
「うむ、いや、それは明日の今ごろでしょう」
「風が北に振れれば、もっと遅くなりますね」
「しかし、心はすでにカカ殿のもとでしょう」
「いやいや、船長(ふなおさ)はまだまだ気は抜けません」と船長はお茶を一口で飲んで、みなに挨拶して席を立った。
 僧の一人がマンスールの部屋の戸を開けた。マンスールは身を起そうとしたが僧がとどめた。傷の治療をはじめた。琉球の女がお湯を運び込んで戸を閉めた。もう一人の僧が惟唯と次郎の治療をはじめた。
 惟唯の額の傷は経過がよく化膿もなく乾いていた。左の眼が少し小さくなって眉毛が半分ほど抜け落ちていた。傷の瘡蓋がまばらに取れた跡に赤みをおびた新しい肉が盛り上がってつやつやしていた。
「美丈夫が台無しになったな」と為朝が言った。
「傷は頭の中には届いておりません」と僧が言った。
「目にも支障はありません」と惟唯が言った。
 次郎の治療に移った。矢傷の跡は塞がっていたが腕は動かさないように注意していた。傷口に血がにじんで固まっていた。
「腕は動かせませんが、五本の指は動かしてくださいよ。指先まで血液がめぐります。傷の血流が滞るといけません」
「いつも、いつも聞いており、心しております」
                        平成二七年二月五