ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

きのう居合の稽古だった。

午前中はエッセイ教室に行った。前の日、夜遅くまでかかって書いた。
小説は調べる時間が書く時間の何倍もかかる。こんなに大変とは知らなかった。

居合の稽古中、前田の殿が芋をくれた。こんなに大きな芋は珍しい。

高段者が小尻突きの稽古をしていた。スマホのビデオからとった連続写真。
今月26日、箱嶌さんは出版記念パーティでこれを披露するらしい。
僕は組太刀でそのお相手をすることになったが、未熟な剣士にうまく務まるか心配だ。


きのう提出した小説の原稿は、
アテナの銀貨                       中村克博


 マンスールと兵衛は玄界島の沖にそそり立つ島の断崖を見上げていた。朝日が当たって海鳥の糞で白くなった岩肌が輝いている。博多の方角を眺めると朝日は、みるみる昇って遠くのしょうて黒い山脈が明るくなりかけていた。北風が心地いい、波の静かな海だった。
上甲板の屋形から聖福寺の二人の僧が出てきた。船長のイヌブルも一緒だ。甲板下の船室にいる次郎の治療を終えたようだ。
三人が船尾楼の甲板に上がってきた。
「ジロウノ、グアイハ、ドウデスカ」
「あまり良くありません。血の混じった汁が出ております」
「きのう歩いたのがいけませんな」
「それと、食べすぎたのが、いけません」
「陸で食べる久しぶりの料理でしたからな」
「精進料理と言われたが、聖福寺ではあれが、いつもの食事ですか」
「ふだん、寺院での勤行僧は一汁に一菜、粥は三膳までとなっております」
「ただ、田畑での作務などほねおり、はららきが多いおりには、たくさんいただきます」
「くりやでの料理は禅僧の仕事だそうですが…」
「典座(てんぞ)のつとめですが、供する人が多ければ、みなも手伝います」

 風が変わりはじめたようだ。
北からの風が東に少しずつ変わっていた。
上甲板に向けてイヌブルが大きな声を出している。
甲板員が帆綱をさらにゆるめて船の傾きがなくなっていった。
船はうねりに乗るようにゆっくり上下して朝日を背に西に向かっている。
兵衛がマンスールを見た。
「イヌブルとは壱岐でお別れですな」
「ソウ、リュウキュウ、イッテ、ミンナ、アラビア、カエリマス」
琉球にいるマンスールの船団を率いてイヌブルは地の果てに帰るのか」
「アラビア、チノハテ、チガイマス、ニシモ、キタモ、リクチ、アル」
「ほう、そうですか、北には十字軍のフランクがおるが、西にも陸がな」
「ソコカラ、ミルト、ココガ、チノハテ、デス」
イスラムはアラビアから十字軍を追い出して長い戦は終わったのですな」
「ソウデス、エルサレム、トリモドシタ、イクサ、モウナイ」
「それで、爆弾になる硫黄をアラビアに送る仕事はなくなったのですな」
「ソウデス、ソレニ、サラディーン、シンダ」
「そうか十字軍との戦いに勝って、そのあとアラビアの国王はみまかられた」
「ソウ、サラディーン、シンダ、ワタシノ、シュジン、モウイナイ」

 アラビア船は順調に航海して正午前には芦辺の浦にはいった。マンスール壱岐のなだらかな丘陵を見ていた。夏の日差しに輝く木々がお帰りなさいと迎えるように思えた。出迎えていた二艘の小早船に先導されて桟橋から離れて投錨した。艀に乗り換えて上陸したマンスールの一行を芦辺の屋形から西文慶と娘のチカたちが出迎えた。簡単な挨拶を済ませ、そのまま為朝の陣のある月読神社に向かった。次郎のために天蓋のない牛車が用意されていた。西文慶とチカは後ほど月読神社に出向くことになる。

 マンスールと次郎と兵衛それに聖福寺の二人の僧は月読神社に着くとそのまま為朝のいる建物に出向いた。部屋には為朝が一人で待っていた。一通りの挨拶がすむと巫女が二人で栗の甘煮と薄茶をはこんできた。
 次郎が為朝にうちとけた言葉で、
「これはなんとも甘い栗ですね。英彦山のより甘い」
 兵衛が茶碗に一礼して、
「久しぶりの茶、いただきます。この茶碗は口当たりがよさそうです」
 聖福寺の僧が碗の高台をのぞいて、
「高麗の焼き物ですね。あちらでは汁や飯をつぐ日頃の器なのでしょうか」
「いや、世間の民は我らと同じ素焼きのかわらけを使うのでしょう」
「高麗の窯は、うすい草色から空の青い色まで焼きますね」
「官窯は王朝の専用ですが民にもたくさんの窯があるようです」
 為朝がマンスールを見て、
「このたびは大儀な仕事をご苦労であったな」
「イエ、モウシワケ、アリマセン、ツミニ、ハンブン」
「積み荷より、それよりも部下の死傷者が多かったな」
「ジロウノ、ケガ、モウシワケナク…」
「それは武士の不覚であろう、幸い治る傷でなによりである」
 次郎はうなだれるように頭を下げ、
マンスールと兵衛が身を以て助けてくれました」
「いや、相見互です」
 聖福寺の僧が、
南宋の軍船に襲われ、絡め捕られ、あわやと思いましたが」
「あのときは観念いたしましたな」
「コマノ、カイゾクガ、ミガワリニ、ナリマシタ」
 為朝が身を乗り出すようにして、
「ほう、高麗の海賊とな、それが、いかがして…」
 次郎と兵衛が代わる代わるに、高麗の海賊との出会いから帰路での南宋船とのいきさつを説明したが互いに語り口がもどかしく、二人の話は行ったり来たりしていた。
「兵衛の話は、はがゆい、先に進まぬ、ついに南宋の兵がなだれ込んで」
「次郎どのは船倉に寝ておったが、敵はそこにも入ろうとして」
 次郎が兵衛をにらみつけ、
「そのとき、接舷しておった南宋の船が離れまして」
「乗り込んでいた敵兵は孤立し、形勢が逆転し」
「高麗の海賊の鬼室福信が宋船に飛び移って舵取りを殺して」
「アラビアの兵が二人、鬼室福信に続いて飛び移り」
「舵を反対にとったので船は離れました」
「タスカリマシタ、ガ、サンニンハ、メノマエデ、コロサレ、ウミニステラレ、マシタ」
為朝は黙って聞いていた。みんなは為朝の言葉を待ったが為朝は一口残っていた薄茶を両手で押し戴くように飲み干した。巫女が「おかわりを…」と言った。為朝は飲み干した茶碗の口を手で拭って差しだした。
 そのとき、芦辺の西文慶と娘のチカが部屋にはいってきた。二人は為朝に挨拶して、みんなにもあらためて挨拶をかわして席にくわわった。
 聖福寺の僧が為朝に、
「鬼室福信は百済が滅びますとき最後の将軍の名前です」
 もう一人の僧が、
「海賊の頭目は五百五十年ものあいだ子子孫孫同じ名前を受け継いでおったようです」
「われらは百済の末裔で日本人と同じ倭の民だと申しておりました」
 為朝は西文慶とチカの方を見て、
「いままで、このたびの航海のあらましを聞いておったところだ」
 チカがはしゃぐように、
「それは、おもしろそうでございますね」
 為朝がぽつりとつぶやくように、
「そういえば、清和天皇から出た源氏にも百済からの家があったな、平氏の祖は恒武天皇の血を引くというが新羅からの家もあったと聞いておる」
 マンスールが思いついたように、
「ムカシ、アラビアカラ、フネデイッテ、ヘイケ、ナッタハナシ、アリマス」
 聖福寺の僧が話をおぎなうように、
イスラムが起こるころ大食(タージ)から逃れた拝火教徒が唐から新羅を通って奈良のあすか斑鳩に移り住んだようです」
「国が亡ぶとき民族の移動がおきれば、海からも来たのでしょう」
「ヘイケハ、ウミ、コウエキ、スルヒト」
「宮島の厳島神社聖方位の向きに建てられておるそうです」
「飛鳥の斑鳩には今も奇異な遺跡がのこり、宮城は聖方位に造営されておったそうです」
ペルシャシリウス、ホシ、シンコウ、ト、オナジデス」
 チカが膝をにじりながら、
「月読神社は、そのシリウスの星とかかわりがあるのでしょうか」
 聖福寺の僧が、
「ただ、聖徳太子斑鳩月読命を崇拝されていたと…」
 もう一人の僧が話をついで、
古事記には、イザナギの命が黄泉の国から帰られたとき、筑紫の日向橘の小戸の阿波岐原で禊祓い(みそぎばらい)され、左の目を洗われたとき天照大神、右目を洗われたとき月読命、鼻を洗われたときスサノオの命がお生まれになった、とあります」
「は、は、人の祖先のことも国の起源も、何が本当やらわかりませんな」
「そうですね、同じ事実でも人によって見方はちがいますし」
「見え方が違うのは仕方ないが、都合よく作ったのもあるようで」
「国の成り立ち、氏の出自は今があるための根拠ですから」
「うそも三回聞けば、作り話も三世代語り継げば」
「ウソがホントに、いずれ辻褄が合わずとも百年後では、ですな」
平成二十七年十一月十九日