ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

エッセイ教室に行った。

為朝の船団はトカラ列島を南下している。
定家の歌を若い僧がもじったのが受難のはじまりで、
一転して小難しい場面になって、調べるのに四苦八苦して書いた。


栄西と為朝と定秀                  中村克博


船団はトカラ列島の島影を左舷に見ながら南西に進んでいた。中秋が過ぎるころで月が明るく波はおだやかだった。
風が北西から北寄りに変わり肌を刺すほどではないが夜風は冷たかった。
 聖福寺船の船尾楼の甲板に次郎、聖福寺の僧二人、それに琉球の武将二人が風を避けるため左舷船室の壁に寄り添うように車座になっていた。 
為朝は夕餉のあと船室で眠っているようだ。
「明日の夜明けには奄美の島が見えるでしょうか」と次郎が言った。
「進路を西寄りにとっていますので、それに主帆を降ろしての帆走ですから、どうでしょうか」と琉球の武将が大和の言葉でこたえた。
「それでも朝のうちには奄美に差しかかりましょう」ともう一人がこたえた。
「月夜の海の島影は水墨山水の絵を見るようですね」と次郎が言った。
「何もない。さみしい景色です」と琉球の武将が遠くの島を見ていた。
すると、聖福寺の僧の一人が抑揚をつけて詠んだ。
「見渡せば花ももみじもなかりけり浦のとまやのあきの夕ぐれ」
それを聞いて、戸惑うように次郎がたずねた。
「物悲しく、むなしい感じがします。どのような歌心ですか」
 歌を詠んだ僧がこたえた。
「いかに艶やかなことも過ぎてしまえば夢のまた夢。十年ほどまえ、西行法師が勧進された二見浦百首にある左近衛少将定家様の作だと聞いています」 
 次郎は黙って、ただ聞いていた。
もう一人の僧がつけ加えるように言った。
「十年ほど前、定家様二十五歳のお歌です。今の私どもと同年輩のころ、すでに諦観の境地ですね」
すると、次郎が思いついたように言った。 
「十年前と言うことは壇ノ浦合戦の翌年、そのころ六波羅一帯はすでに焼け野原、この歌は、平家一門の栄華の跡を詠んだものでしょうか」
 それを聞いた僧が、
「秋の浜辺に桜や紅葉があるはずもなく、言われてみれば、目で見た風情を詠ったのではではありませんな」と言った。
 次郎が遠慮がちに、
「さすれば浦の苫屋とは、もろもろの民の暮らしのことですね」と、言った。
船室の扉が開いて為朝があらわれた。
「ほう、月があかるいな」
烏帽子をかぶり太刀は腰につけず右手に持っていた。
「窓の下でお耳触りだったでしょう。申し訳ありません」と次郎がわびた。
「いやいや、おもむきのある話のようだ」
 皆が席を広げて為朝が座にくわわった。
 次郎が話の穂をつぐように、
「え〜っと、見渡せば花ももみじもなかりけり…」
 為朝が下の句を、
「浦のとまやのあきの夕ぐれ…、かな」と、あわせた。
 為朝は大きな湯呑から一口飲んだ。
船はゆっくり上下に小さくゆれていた。
「ほう、南の海の十六夜(いざよい)は一段と明るいようだ」と見上げた。
 聖福寺の僧が大きな土瓶から褐色の茶を自分の湯呑に注ぎながら、
「願はくは花のもとにて春死なんそのきさらぎの望月のころ」と誦した。
 為朝は顔をほころばせて湯呑を両手につつんでいた。
僧は土瓶をもどして、
山家集にあります西行法師五十代の作ですが、その通り望月のころ桜のもとに入滅されました」
 次郎が解せぬように、
「俗世間を捨ててなお、死にようにまで望みがおありとは…」
 僧は茶碗を膝の上に持って、つぶやいた。
「と、言うことは、西行様は死ぬるまで煩悩を断じることはないと宣言しておられるようにも聞こえますね」
 次郎がえたりとばかりに、
「煩悩即菩提、生死即涅槃ということですか」と僧を見つめて言った。
 僧はすこしためらっていたが、
「いや、そのようなことでは、ありますまい。西行様は平清盛様とは同い年、お若いころ同じ北面の武士として親交もあったようです。」と思い込むように言った。
「それは、どのようなことでしょうか」と次郎が問いただすように言った。
「いや私には解りません。何やら一本の糸が引かれているような」
もう一人の僧が、
「そういえば十年前、西行法師は奥州をたずね、秀衡様に東大寺の大仏の鍍金に使う砂金を勧進されました。当然、義経様とはお会いになっておられます」
 別の僧が話をついで、
「奥州からの帰路、おそらく行く前にも、鎌倉で頼朝様と会っておられます。奥州合戦はそれから三年後、その翌年の如月十六夜西行法師は役目を終えられたように入滅されました」
 次郎が言った。
「役目を終えられたように、な、なにか因縁めいておりますね」
 僧が苦い茶を飲みくだすように、
西行さまは終生、鳥羽天皇にお仕えする北面の武士佐藤義清(のりきよ)のまま、だったのではないでしょうか」
 次郎は気が高ぶったように、
「そうですね、朝廷が割れては国が乱れる。おおそれながら、すめらぎはその生きざま死にようにこそが国へのつとめではありませんか。西行法師は自分の生涯をかけておかみにそのことをお伝えしたのではありませんか」
 琉球の武将の一人が嘆息して、
「我らの王家でも骨肉相食む争いが続いております」と言った。
僧の一人が目を伏して、
「本朝では鳥羽上皇崩御されたあと保元の乱が起こりました。天皇側と上皇側に分かれて争い、武士たちは互いの主人に従って戦います。そして多くの父と子が兄と弟たちが殺しあいました。悲惨なことです。武門の家ならそれも役目でしょう。しかし、上が割れては国は荒れすさみ、民は飢え人の心は離散します」
 さらに別の僧が、
「古代からの律令の仕組みが行き詰まると世上がみだれ、国は激動をはじめました。保元、平治さらに治承、寿永と世はうつろぎ平家無きあと…」
もう一人の僧が、
「ついに頼朝様は後顧の憂えを除くべく奥州征伐へ向かわれました。動員された国中の兵、その数二十八万四千騎と言います。建久三年には征夷大将軍に任じられ、いま国は一つにおさまり鎌倉の時代になろうとしております」
次郎がぽつりとつぶやいた。
西行さまは朝廷、平家、平泉、鎌倉とつながっておいでのようですね」 
 もう一人の僧が言った。
東大寺大勧進職は重源様のあと栄西様が継がれ大仏殿落慶に頼朝様は正妻、嫡男、姫様をご同道して参列されたと聞いております」
月は西の空に傾いていた。
 次郎がまたぽつりと言った。
「そして…、栄西様は鎌倉とはどのようにつながっておいでなのか」
「そして…、我らはトカラの海を琉球に向かっておる。夜明けまで少し眠っておくか」と、為朝が言った。
「はい、思わず話が過ぎました」と次郎が頭に手をやった。
「そうですね。敵は夜明けとともに決戦を挑んでくるでしょうね」と僧が席を立ちながら言った。
平成二十六年十月十六日