ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

きのう午前中はエッセイ教室だった。

教室が終わって忘年会があった。
この日、提出した原稿はこんなだった。



栄西と為朝と定秀               中村克博


定秀は、ゆっくり灰の中に火箸をさして眠っていた熾火(おきび)を出した。障子は閉められていたが、お昼前の日差しが廊下ごしにはいり板張りの照り返しで屋根裏の小屋組みが黒々と見える。囲炉裏わきには枯れ枝が一抱えほど置かれている。その中から指ほどの小枝を選んで熾火の上に重ねると煙が上がってすぐに赤々と火がおこった。山は平地よりも田植えが早い。英彦山のふもとでは田んぼに植えられた苗が気持ちよく育っていたが朝は冷え込む。囲炉裏を挟んで武士が一人かしこまっていた。
「それで、そなたは行忠殿のようすを、じかには見ておらぬのですね」
「はい、栄西様から急ぐとだけ言われ、直接にお預かりした書状でございます」
「きのうの夜に書かれたようだが、夜通し駆けてこられたのか」
 炎の上に腕ほどの焚き木を三つほど重ねた。燃えさしの小枝が崩れ落ちた。
「いえ、昨夜は糟屋にあります実家にとまり、今朝早く出てまいりました」
「それは、ご苦労でした。多少の段取りが要りますので返書は後ほど当方で届けます。ゆっくり休んでお帰りください」
「いえ、ご返事を承って帰るように言いつかっておりますので・・・」
「ふㇺ、そうですか、それでは別室でしばらくお待ちください」
 博多からの武士が別室に案内されると、定秀はあらためて栄西からの書状を読み返した。囲炉裏から離れた窓際の文机に右腕をのせて左手で右肩を包むようにかるく揉みながら障子の明かりを見つめていた。右肩に受けた矢傷はすっかり治っているが、いまだに動かしづらい。痛みはないが小石を遠くに投げるのはむりだった。
 玄関の方で人の気配がして廊下を歩く音がする。障子に映った人影がとまると、挨拶の声がして正坐した沙羅の笑顔が見えた。そのすぐ後に、戸次惟唯(べっきこれただ)が神妙に片膝をついている。二人は部屋に入ってあらためてかるく挨拶をした。定秀は文机に手紙を置いて、左手で肩をもみながら二人の方へ向きを変えた。
「博多からの武士はいかがしておる」
「湯を使っていただき、茶粥の手はずをしております」
 沙羅は囲炉裏の燃えぐあいをととのえて薪を一つくべたした。すると、炎の勢いがおとろえて煙がではじめた。
「父上の右の肩は痛みますのか」
「いや、痛みはないが、近ごろ左手を肩にやるのが癖になっておるようだ。それよりも惟唯殿の具合こそ気がかりだが・・・」
 囲炉裏の火はいよいよ炎が弱まり、沙羅は煙そうに身をかがめて燃えさしをいじっていた。
「はっ、もともと傷は大したことはありません。今は完治しております」
「いいえ父上、おもては治っても深い刺し傷です。もうしばらくの養生がいります」
 沙羅はますます煙そうに顔をふせて左手で両目をおおうようにした。惟唯が沙羅との場所をかわって小枝をひとつかみ煙の中に差し込んだ。顔を近づけて口をすぼめて何度も息を吹きかけた。炎がぱっと上がった。
「はは、は、火はあまり触らなぬほうがよいようじゃな、傷の養生もな」
 定秀はそう言って左手を膝元においた。居住まいをただして二人を見た。視線を沙羅にうつして慎重に口を開いた。 


「先ほど、栄西様よりの知らせが届いてな。それで、そなたたちとの相談にもよるが、沙羅が博多の栄西様をおたずねする時期が少しばかり早まりそうだ」
「それは、うれしゅうございますが、惟唯様の具合がいかがかと思います」
「じつはな。書状によると、行忠殿が馬から落ちて怪我をされたようだ。壱岐から早船で今は博多においでのようだ」
「えっ、なんと、どこを、いつですか・・・」
 惟唯は勢いづいた囲炉裏の火に焚き木をたそうとしていたが、沙羅の声に動きを止めて定秀の言葉を待った。
「右腕の骨が折れておるようだ。つい二日ほど前のことらしい」
「博多は鎌倉武士の勢力下ではありませんのか、沙羅は、心配です」
「宋の信頼できる医者のもとにおるようだ。博多と言っても、いまは聖福寺栄西様が差配しておられる」
「しかし、私には理解しかねます。大宰府には鎌倉からの武藤資頼がいて筑前豊前肥前守護職にも補任されておるとなれば博多とは目と鼻の先です」
「博多におる鎌倉武士は聖福寺の警固が役目である。聖福寺の社域は東西に八町(900メートル)南北に八町という。そこには昔から宋の人が多く住んでおる。山寺とは意味がちがおう。櫛田神社も、修復中の袖ノ港もある。宋や高麗との交易の要(かなめ)の博多を鎌倉がじかに、おさえようとするのではないのか、そこでは、これから巨万の富がますます動く」 
聖福寺は禅寺ではありませんのか、禅師様はいったい何を・・・」
「そのようなこと、我々下々のはかることであるまい。世の中が、いや、もっと大きなものが動こうとしておる」
 屋敷の外から玄関の方で歩く人のざわめきがおこった。大勢の人の気配がして廊下を渡ってくる。最初の影がひざまずいて障子を開けると、あとは軽く頭をさげて立ったまま部屋に入り囲炉裏のまわりに正坐してすわった。

 あれから半年ほどの月日が過ぎていた。英彦山に身を寄せていた為朝を栄西が初めて訪ねた日だった。定秀の屋敷で二人は会ったが、ろくに話をするまもなく為朝を二十一人もの刺客が襲った。
 戦闘は炭火から下された茶釜の湯が冷めぬうちに終わったが、緒方惟榮(おがたこれよし)の送った二十一人の武士は七人が討たれ九人が深手を負い、のちに二人が死んだ。生き残ったものが戸次惟唯を頭に一二人、いま囲炉裏を囲んでいる。

「久しぶりに皆で顔を合わせたな。みな元気そうだな」
 みんなの顔がいきいきとして笑顔がよかった。当初は囚われ人であり、厳しい監視のもとで分散して傷の養生をしていたが、近ごろは監視もなく一同に会しての食事もしていた。散策の範囲は限られるが屋敷内での佩刀も本人の裁量にまかされて武術の稽古も日々怠ることはなかった。
「みなに進呈した太刀の具合はどうかな。これまでより三寸から五寸ほど短くしてある。それに錆びにくい砂鉄を選んで英彦山のかぬち(鍛冶)たちが手分けして打ったものだ」
「巻き藁を斬っておりますが、刃筋が通りやすいようです」
「よく斬れます。身幅が広く腰反りで踏ん張りがいい」
「海で、船の上で使ったことはありませんが、この長さなら具合いいようです」


緒方惟榮(おがたこれよし)、もとはと言えば定秀とは同じ豊州の豪族、かっては鎮西八郎為朝
配下のともがらだった。平家が滅び奥州も平定した鎌倉の治世で一門の存続をはかるため、敵味方になり英彦山に刺客として郎党を送りこんで斬りあったが、主命に従うことは武門のならい、もとより私情があってのことでなければ禍根をもたぬのが、いさぎよしとしていた。 
 
 囲炉裏には薪が重ねられ火の勢いがまして、後から部屋に入った若い武士たちでにぎわい部屋は蒸し暑いほどになっていた。定秀に了解をとる者がいて、部屋の障子も廊下の障子も開け広げられた。昼の明りが差し込んで、山からの清々しい冷気が若者たちの熱気をさました。
「かねて、みなと談合したとおり為朝様のもとで海に出る手はずになった。事情があって時期が早まったが取り急ぎ博多におもむくことになる」 
「ことが早まるのは望むところです。為朝様の下知で戦えるなら本懐です」
「為朝様を討ちもらしたことで三郎、いや緒方惟榮殿は鎌倉の大友への面目をつぶしたが、内心ではどうだかな。昔は為朝様のもとで、われらは、たがいに三郎、紀平次と呼びあっておった」
「われらの父上もその中におったのでしょうか」
「そうだな。ちょうど、みんなと同じほどの年恰好であったな」
 庭先に博多からの武士の姿が見えた。若者たちの、ざわめきに誘われたようだ。庭下駄をはいて太刀は佩刀せずに手に持っている。後ろには屋敷につめる武士が二人ついていた。定秀はそれに気づき、少し思案したようだが立ち上がって縁側に下りた。庭下駄の武士をこの話し合いにくわえることにした。博多に持ち帰る返事を、説き聞かせる手間がはぶけると思ったのだ。
「お引き合わせいたす。以前から何度も聖福寺のお使いでご足労いただいておる前田殿である。このたびは事を急ぐ事態でもあるので談合に立ち会っていただこうと思う」 
聖福寺につめております、前田鍵弾ともうします」
 
 英彦山での談合が終わり一足先に出立した前田健弾は、あくる日には博多の聖福寺に帰り着いて、栄西に定秀からの手書(しゅしょ)を手渡し成り行きを復命していた。春の終わり、日暮れの空はまだ明るかったが、堂塔普請の槌の音も街からの喧騒もおさまり、時おり海からの風が真新しい障子の建具を鳴らしていた。
「戸次惟唯殿と沙羅様は八木山を越えて、篠栗街道から明日のいま時分には聖福寺に入られると思います。警護は途中の郷司や庄屋にたのんで暫時も途絶えることがないようにしております」
「惟唯殿は傷の回復が順調のようですね」
「はい、お元気そうです。残りの一一人の方は修験道の姿で街道をそれ山道をまいられます。六人と五人に分かれて、それぞれに道になれた山伏が数人つきそって案内いたします」
「そうですか」
「先の人たちは夜通し歩きづめ、小石原から馬見山、古処山を通って大根地山、米の山さらに三郡山、若杉山それから篠栗街道に出て我らの迎えの者と合流いたします。明後日の朝の内には聖福寺に到着いたします」
「二日も眠らずに山を歩くのは、大変なことですね」
「・・・途中の宿坊で食事もしますし、適時な休息もいたします。後の人たちは同じ山道を無理なく体を慣らしながら、これより二日ほど遅れて到着いたします」
                                 平成二五年一二月一日