ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

午前中、エッセイ教室だった。

二三日雪が続いた。ものを書くにはいい天気だ。

霙ではない。雪だが水分が多い。積もっても半日で溶ける。
重たいので送電線のトラブルで夜に停電する。ロウソクの用意をした。
 
小説は、書くことの何十倍も調べることの方が多いのだと分かった。
今回は箸休めのように、そんな書きかたをしてはと、アドバイスされていた。

それで、今回はこんなだった。が、

栄西と為朝と定秀                       中村克博


 定秀の屋敷は静かになっていた。豊後からの騎馬行列は百貫文分の宋銭を八頭の荷駄にのせて出立した。阿南惟親は一応の役目をなした安堵の笑顔で定秀に挨拶をしたのち鞍をまたいだ。二人が交わした言葉は屋敷の門前で立ったまま二言三言だった。むかし、互いに若かったころ為朝を主(あるじ)として九州の原野を命を的に駆け回った仲にはそれで事足りていた。それからしばらくして屋敷は日常に戻った。鶏の親子が庭をついばみ、犬は日なたを避け軒下に寝そべっていた。

納屋の土間には藁の筵(むしろ)がしかれ真新しい打ち刀がずらりと並べられていた。切っ先から刃区(はまち)まで椿油のしみた和紙でくるまれ、いずれの刀にも茎(なかご)に名(めい)は切られていなかった。和紙でくるんだ上から細い藁紐を巻き付け、十振りづつまとめて、さらに藁縄で縛る作業をしていた。行忠と年老いた武士は、その様子を見ていた。
「このたび博多に運ばれる刀は三百振り、これまでよりも短いですね」
「そうです、行忠様、それに宋の国では刀の反りはないものが好まれます」
「斬るよりも突き技が多いのでしょうが、使い方も伝授すればと思います」
「さすれば、注文がもっとふえるかもしれませんな、はっ、はっ、は」
 納屋の外は日差しが明るかった。沙羅が一人でこちらに来るのが見えた。いそがしげな小股で、なんとなく気が晴れない雰囲気があった。入口の敷居をまたいで土間に入ってきた。行忠と話をしていた年老いた武士に明るく笑顔をおくって、刀の梱包の作業している様子をながめ、人と目があうたびに軽く会釈した。  
「行忠様、こちらにおいででしたか、さがしておりました」
「阿南惟親殿は、しごくご機嫌なようすでしたな。おもてなし、ご苦労でしたね」
 沙羅は行忠を探して鍛冶場まで小道を上り、鍛刀場の一つ一つを覗いて回り、河原にも下りてみたが見あたらなかったことを話した。沙羅の額には汗がういて、うなじは濡れていた。沙羅は行忠と年老いた武士を交互に見て、
「すこし、お時間をいただけませんか」
老いた武士は、二人からはなれて刀の荷造り作業の中に入っていった。沙羅が声をかけた。
「いえ、叔父上にもお聞きいただきたいのです」


 三人は河原のほうに歩いていた。年老いた武士が沙羅の後ろから声をかけた。
「先ほど、叔父上と呼ばれたのはうかつでしたな」
「申し訳ございません。心が散乱しておりました」
 それを聞いていた行忠が振り返ってとりなすように、
「屋敷の者もみんな知っておること、鎌倉も承知しており、案ずることはありますまい」

老いた武士は定秀の弟で紀友長といい、平家が滅ぶころ、ゆえあって上野国(こうずけのくに)に流罪になったが、それがいまだ解けていなかった。流刑の地でも刀を打ち続けて十年になる。これまでにも何度か英彦山に帰郷して数日を過ごしたことはあったが、それがそのまま上野国に帰らず英彦山にいて二年ほどになった。いまでは鍛冶場の刀工集団を取り仕切っている。定秀を鍛刀の師としていたが今では兄をはるかにしのぐ技量をもっていた。


「かたじけないお言葉ですが、沙羅の粗相でございました」
「しかし、沙羅殿に叔父上と呼ばれたのは正直うれしゅうござった。はっ、はっ、は」
 川面が光って流れはおだやかだった。三人は河原の石に座った。適当な石がうまい具合に配置してある。午後の日差しは和らいで風はひんやりしていたが座る石はあたたかかった。 
「兄者はあわただしい一日であったでしょうな」
「豊後からあれほどの人数が来るとは、定秀様は阿南惟親様とも久々にお会いになった。大神の者だけでなく、大友の幕僚が十騎も供回りもつけずにおとずれるなど途轍もない。定秀様は栄西様からお聞きになったのは昨日です」
「人伝にはできませぬからな。豊前、豊後の情勢はこれで落ち着くのかもしれませんな」
「私は為朝様に従い、壱岐から博多を栄西様のお傍でみてまいりましたが、豊国だけでなく筑前も、いや九州が、鎮西のすべてが治まりをつけるような気がいたします」


 沙羅は二人の話をきいていた。話に切れ目ができて、
「父上は、いまは栄西様とお話をされているのでしょうね」
「定秀様と大友の人たちとの面談が終わると、間もなく栄西様が離れからお移りになられたようです。それまで開かれていた障子が閉められましたので表の座敷のようすはうかがえませんが、これまでの経過をたしかめ、これからのあらましごとを打ち合わせておられるかと」
「これから、どうなるのでしょうか、女の私にはわかりません」
「先のことは、だれにも、人知で、測れはしませんよ」
「すぎたことでも、わかりはしませんぞ。為朝様は保元の乱のあと伊豆の大島に流された。そこで工藤茂光の追討を受け自害されたことになっておるが、どっこい、英彦山にひそんでおられた」


 行忠はふと目を覚ましたような顔をした。川の流れが照り返してまぶしかった。
英彦山に来られる前は、紀伊国、熊野におられました。まだ平家が全盛のころです。熊野別当である行範(ゆきのり)様、その妻鳥居禅尼は為朝様の姉上、私の母でもあります」
「為朝様のお父上、為義様には四十二人ものお子があられたからな」と友長が相鎚をうった。
熊野灘から遠州灘上総国(かずさのくに)の相模灘さがみなだ)一帯は熊野水軍の勢力下で、その中に伊豆の大島は位置します。」  
「それで、姉上さまに助け出された為朝様は修験道にいそしまれますね」
「ふ、ふっ、お姉さま、か」と行忠は笑って、
「そのころ、私は、為朝様から弓術と剣法を教わりましたよ。それに小早船をくりだして海戦の演習をよくやっておった。あのころは楽しかった」
「そのころはもう、父上は英彦山におられたのですね」


 沙羅の、その言葉でこんどは、紀友長が目を覚ましたような顔をした。
「そう、そのころはもう兄者はとっくに帰っていて、わしらに刀造りを教えておられた」
「父は、英彦山、三千坊の学頭をつとめながら千手院の技法を伝えたのですね」
「もともと、我ら一族は紀貫之を祖先に持ち豊後の豪族として代々の郡司をつとめておった。兄は為朝様に従って保元の乱で敗れた。それで、奈良の東大寺から英彦山に。平氏にあらずんば人にあらず、大宰府も博多も宇佐神宮もこのあたりも平家だった」
「為朝様をそっと英彦山にお迎えしたのは、そのころですね」
「いや、まだだ。驕る平家は久しからず。しばらくして平家の没落がはじまり、源平合戦のあと鎌倉の時代がはじまる。忍びやかに為朝様を英彦山にお迎えしたのはそのころだ。わしは英彦山を追われて上野国(こうずけのくに)に島流し
「なんと、叔父上は、どんな悪さをして流罪になったのですか」とおもしろがった。
「なにも悪いことはしておらぬが鎌倉の意向にはさからえぬ。かの地でも刀を打っておったよ」


日が西にかたむいて風が出てきた。河原の上の道に警固の武士が二人見える。
「父は、奈良の東大寺で刀鍛冶の修業をされたのですね」
「兄者は保元の乱で敗れ、為朝様とはぐれ、深手をおって奈良の東大寺に逃げ込んだ。東大寺の千手谷には刀をつくる鍛冶場がありましてな」
「父は、二十年近くも東大寺で、どんな刀を打っておられたのでしょう」
東大寺の千手院はもっぱら僧兵のために鍛刀しておりました。造り込みは、腰反りで踏ん張りが強く、小鋒(こぎっさき)でこころもち猪首(いくび)ふうとなる。地鉄は板目に流れ柾が混じり細かな地沸がつき、刃文は焼幅の狭い直刃調に小乱れが混じる。といったところですかな」
「沙羅には刀については言葉の意味がわかりません」
「わしも行忠殿も僧定秀が師匠でな。わしらが打つ刀を見れば意味がわかります」


行忠は西の空を見た。まだ明るいが夕焼けが近いようだ。背なの日差しが心地よかった。 
「ところで、沙羅殿は何か話があったのでは」
「はい、でも、行忠様とこのようなお話がしたかったのです」
「行忠殿が英彦山に為朝様をたずねてこられたのは、沙羅殿がまだ五つだったな」
「為朝様はもっぱら山で修業しておられたが、私は定秀様に刀の打ち方を教わっていました」
「鍛冶場に女は入れないのですが、私がせがむと行忠様はつれていってくださいました」
「は、はっ、あのときは、あとで友長殿にしかと、しかられた」
「そういえば、そのようなこともござったな」


「風が冷たくなりましたな」と言って行忠が腰を上げた。三人は屋敷に歩き始めた。
「たまには、竹取物語や、宇津保物語なども読んでくださいました」
「読んで聞かせる私のほうが、つい昔話に夢中になっておりましたな」
「そうですよ。いつのまにか無言で読んでおられ、私は、もう、と言いましたね」
「沙羅殿は物語よりも、孫子呉子などの兵法書に心がひかれておりましたぞ」
「雪が降ってつもると、庭で雪合戦をしてくださいました」
「沙羅殿の勝気には、おそれいりましたな」
「そんなことはありません。いつも行忠様が手加減してくださいません」
 河原の、のりをのぼるとき行忠はうしろの沙羅に手を貸した。沙羅がその手を取って、
「行忠様、沙羅に小太刀を打っていただけませんか」と言った。
「小太刀、小太刀を、どうなさる」
沙羅は、ほほえんで「心の休めどころにいたします」と小さく言った。 
                                 平成二六年二月六日