ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

きのう、宗像大社にお参りに行った。

これまでは、福岡まわりで一時間半かかっていたが、
八木山から宮田経由で山の中を北へ一直線だと50分ほどで着いた。

いい天気だった。道も整備されて運転もしやすい。

一月も中旬をすぎて、参拝者は少なかった。    古いお札を返して、新しいお札を買った。

帰りに近くの護国寺に立ち寄った。空海が開いたお寺だそうだ。

梅の花のいい匂いが、ただよっていた。


先週の金曜日は今年初めてのエッセイ教室だった。

昨年で前篇が終了していたので、続編の始まりになる。
題名を「アテナの銀貨」に改題した。


「アテナの銀貨」あらすじ

平安時代の終わりころ、九州総追捕使を自称していた為朝は崇徳上皇方の要請を断り切れず、わずか二八騎を従え京に上る。その中に紀の姓を名乗る定秀がいた。
そのまま保元の乱に参戦したが為朝は敗れ伊豆の大島に流された。定秀は深手を負い奈良東大寺に隠れ、ここで千手院派の鍛刀技術を十年あまり習得し、豊前英彦山に迎えられ三千坊の学頭を務める。
南房総から伊豆大島遠州灘熊野灘熊野水軍の勢力圏である。十九代熊野別当行範の妻、鳥居禅尼は夫の菩提を弔いつつ熊野三山熊野水軍の要の地位にいた。鳥居禅尼は為朝の実の姉である。為朝は伊豆の大島を逃れ、平家全盛の二〇年ほどを紀伊の熊野に潜んでいた。
平氏が滅んだのち頼朝は、叔父の源行家、弟の義経、さらに弟の範頼を殺害する。為朝は熊野を去らねばと思った。英彦山の定秀のもとに身を隠すことになる。
鎌倉時代が始まり、頼朝は博多の戦後復興を栄西に任せ、聖福寺建立のために方八町(九百メーター)四方を封じる。栄西は七堂伽藍、塔頭三八院を建立し、境内の一部は寺中町を形成し、博多を南宋貿易の一大拠点とした。

この物語は、聖福寺が落成した翌年の正月、栄西が為朝と会うために英彦山の定秀屋敷を訪ねることから始まる。この日、為朝を豊後の緒方惟榮の放った二十一人の刺客が襲う。為朝の存在を鎌倉は恐れていた。
春になって栄西は為朝を海に誘い壱岐の島に移す。その年の秋に、為朝の琉球に向けての航海がはじまる。
平戸の薄香の浦で松浦の水軍と戦う。五島で博多綱首の丁国安、宇久平氏南宋の軍船と合流して十一隻の外洋船で八代に向かい平家の残党を乗せる。どの船も船底に宋銭が満載されていた。
琉球の反乱軍に占拠されていた鬼界ヶ島に向かう途中で硫黄を満載したイスラムの貿易船と出会う。鬼界ヶ島での陸戦、奄美大島近くでのイスラムとの海戦に続く琉球の反乱軍との海戦と琉球の運天の湊に着くまでの物語。

                         


前篇のあとがき
 
むかし、法隆寺が創建され奈良に都があったころからの律令制は平家全盛の時代にはすでに機能しなくなって、貴族や寺社による私的な大土地所有の荘園が飛躍的に広まっていた。
社会は自給自足の生活から日用品さらに工芸品の生産が専業で行われ、日宋貿易による宋銭の大量流入によって貨幣を介在しての流通が始まろうとしていた。
平家が滅びた後、鎌倉の支配のもとで栄西による博多の貿易の発展は聖福寺によって膨大な宋銭の流入を喚起させる。これは鎌倉が聖福寺を通じて国内の通貨の供給と流通量を調整することを意味し、国中の物の移動が活発になり国家財政をも巻き込んだ貨幣経済が起動を始める。
中東ではキリスト教国による十字軍の遠征が十一世紀の末から始まっていたが、日本で鎌倉時代が始まるこの時期は第三回の十字軍の遠征が終了したころだった。
リチャード一世サラーフッディーンとの休戦協定によって聖地エルサレムイスラムが守り通し、キリスト軍は北へ帰っていくが、百年もの長期間にわたる物資や人の大量移動は広大な地域の貨幣経済を促進させていた。 
この地域での広域貨幣の歴史はこれよりさらに一千年以上もむかし、アレキサンダーペルシャ遠征にさかのぼる。
この物語の終盤、アレキサンダーに従軍した武将の子孫と為朝が琉球を間近にしたトカラの海で出会う。そのイスラムの海商の首にはアレキサンダーが造幣したアテナの銀貨がかけられていた。
                            中村克博




     アテナの銀貨                 中村克博


 鬼界ヶ島の湊は日の出がおそい。硫黄岳の上に朝日が出たのは空が白んでから、ふた時ちかく(四時間)たっていた。
青い空に雲が高かった。
桟橋に大型のジャンク船が左舷を接岸して、その右舷には南宋の軍船が接舷していた。高い断崖にかこまれているので風はおだやかだった。
大型のジャンク船は朝食前に硫黄の積み込み作業をしている。
軍船には武将たちと四十人ほどの水夫がいて、残り、百人ほどの水夫と同数の兵が積み荷作業や食事のしたくに立ち働いていた。浜には飯を炊く煙が幾筋も立ち上り大勢の人たちの動きが見える。

桟橋から五丈ほど(十五メーター)離れて為朝が乗る聖福寺の船が錨泊していた。船には水夫が二十人、武士が十人、聖福寺の僧が二人、それに船尾楼の船室には、肩の矢傷を治療中の次郎と尻から背中の刀傷を無数に縫い合わせた重傷のイスラムの海商がいた。上甲板で水夫や武士たちがくつろいでいた。こちらは朝餉はすんで、あちこちで談笑が聞こえる。為朝は水夫たち七人ほどの輪の中で白湯の茶碗を手にしていた。
水夫の一人が為朝に、
「惟唯様のご様子はいかがでございますか」
「昨日、使いの者の話では昼過ぎには船に戻るようだな」
「そうですか、それはよかった」と笑顔で喜んだ。
 別の水夫が、
「それでは、今日明日にも、壱岐から博多へ向かえますね」
「そうだな、ただ、イスラムの怪我人の容態が、どうだかな」
 また別の水夫が船尾楼の方を見て、
「あやつは…、水夫頭を刺殺した咎人が…、なんで、おめおめと」
為朝は白湯を口に運んだ。
船尾楼から船長が下りてくるのが見える。

為朝が率いる十一隻の船団が琉球の運天の湊に着いたのは、この日から六日前の夜だった。その日のうちに平敬敦、平教経とその将兵八〇〇、宇久平氏将兵二八〇を降ろし、さらに投降した琉球の反乱兵四〇〇とイスラムの捕虜三〇を降ろした。聖福寺船は人と積み荷を降ろすと湊の外に出て投錨していた。
上陸した平敬敦、平教経たちは、琉球側との事前の打ち合わせ通り今帰仁(なきじ)の丘に築かれた城郭に八〇〇の将兵と、投降した琉球の反乱軍の将兵四〇〇、イスラムの捕虜三〇を率いて入城した。あくる日の朝から始まった宋銭や米などの積み荷の陸揚げ作業に二日かかった。
平敬敦から上陸後の状況報告を待つため湊の外で待機する聖福寺船の為朝に、琉球の王朝から拝謁を求める使者が二度も訪れたが礼を尽くして応じなかった。反乱軍の帰順が続いている報告があった。為朝は作戦の見通しを確信して南宋の軍船と大型のジャンク一隻とで琉球を後にした。
先に出航する為朝たちを見送った丁国安は、船倉が空いた五隻の自分の船と博多の船三隻に琉球や南方の交易物資を満載した。その作業に数日かり、その後は一路、博多を目指す手はずになっていた。

 船尾楼から下りてきた船長は為朝の輪に近づいて腰をおろした。
「次郎様の傷はもう安心ですね。イスラムの商人はまだ動けませんが次郎様と話は、よくしております」
「ほう、異国の言葉が通じるもんだな」
「大和の言葉、イスラムの言葉、身振り手振りに、文字や絵までつかって楽しそうです。それに、琉球の王朝からつかわされた初老の女がイスラムの言葉を解します」
 水夫の一人が、
「あやつは咎人なのに、なぜ女の介護人までつけて特別ですか」と不満げに船長と為朝を交互に見た。
「これ、出すぎたことを、控えぬか」と船長が叱った。
「よい、よい、思うことを申すがよい」と為朝が言いかけたとき別の水夫が口を開いた。
「長者の息子のようですな。身代金を踏んだくらねばなりまっせん」
「こら、卑しいことを言うな」と船長がたしなめた。
「は、は、はっ、身代金をな、そうだな」と為朝は笑った。
「そうです。武士が敵将の首をとって褒美をもろうのとおんなじこっです」
「こら、黙れちいいよろうが、だまれ」と船長は一人で怒りだした。
 すると、黙って聞いていた水夫の一人が、
「あのとき、あのイスラムは水夫頭に飛びかかり侍に抜き打ちで斬られました。すると、もう一人のイスラムが飛び出して二の太刀を受け、そいつは即死でした。斬られるのを分かっていながら」
 するとまた、あの水夫が、
「わしも、船長が斬られそうなら飛び出すばい」と声を立てて笑った。    

為朝は船長と船内を見回ったあと船尾楼の船室にいた。次郎は右腕を布で肩から吊っていた。三人は椅子に座って煎じ茶を飲んでいた。午の刻(お昼の一二時)をすぎていた。
奥の部屋にイスラム商人が寝かされて聖福寺の僧侶が二人で治療をしているのが見える。初老の琉球の女がたらいにお湯を注いでいた。
うつ伏して治療を受けているイスラムの商人が次郎に何やら話しかけた。
次郎はその言葉を為朝に、
イスラムの商人が感謝の念を伝えてくれと言っております」
「そうか、お前はイスラムの言葉がわかるのか」
「いえ、ここ数日、おなじ感謝の言葉を何度も聞いておりますので」
「名前はなんと言ったかな」 
マンスールというようです」
「そうだったな。まんするう、か、一両日中には出航しようと思うが、まんする、をどうするかな」
「まだ動くのはむりですが」と僧の一人が不安げに言った。
「ここ鬼界ヶ島に残して治療ができればいいが、でなければ博多まで連れていくことになるかな」

 惟唯が手はず通りに戻って来た。島津の小早船が、錨泊する聖福寺船まで傷病者二十人と警固の武士十人を一緒に届けてくれた。  
惟唯の左の額にはまだ白い布が巻かれていたが元気そうだった。少し太ったようだ。
為朝は惟唯との積もる話はあとにして、上甲板に下りて行って傷病者の様子を見てまわった。惟唯は次郎の負傷を初めて知ったが、それよりイスラム人が尻を出して治療を受けているのに驚いていた。次郎が事のいきさつを話しているときだった。
断崖の上の見張り番が吹き鳴らす法螺の音が聞こえてきた。みんな部屋から出て海の方を見た。イスラム人のむき出しの尻に女が布をかけた。
沖にイスラムの帆型の外洋船が三隻、小さくみえる。
二隻が港の外で風を抜いて漂いながらとどまり、一隻が静かに湊に入って来た。沖の二隻より少し小ぶりだが真っ白な三角の帆で船べりや甲板は茶褐色のべっ甲を張ったように艶やかだった。船尾に黄色い旗が掲げてあった。
「うつくしい船ですな」と誰かが言った。
「船乗りたちも頭から足先まで真っ白ないでたちだ」
 船の帆が降ろされ手際よく仕舞われると両舷から十本ずつの櫂が出て同じ動きで漕ぎはじめた。
                       平成二七年一月一五日