ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

明日のエッセイ教室に提出する原稿ができた。

最近読んでいる本を題材にしようと思ったら、なかなか書けなかった。

先日、娘に借りた「永遠のゼロ」を読み終えて、いたく感銘していた。
借りた本なので返したが、手元に置きたくてネットで古書を注文した。
二三日前に届いていた。読み返しながらエッセイの構想を練るがまとまらないでいた。
とにかく書き出してみようと、はじめの数行をキーボードで打つと文章になってきた。
 

  「永遠のゼロ」                     中村克博


 福岡市内に住んでいる娘が先日、八木山に帰宅したとき厚めの文庫本を持っていた。お父さん、この本は面白いよ、読んでみたらという。ほう、と手にして、かかっていた紙のブックカバーをめくると表紙に永遠のゼロと書いてあった。どんな内容か問うと読んだらわかると言う。そりゃそうだが、僕はその時に読みかけの本が二冊あった。娘は本を手渡しても本から離れないでじっと本を見ている。まあ、読んでみることにして「ありがとう」と言った。友達に借りた本なので返してよ、という。いそいで読まんでもいいよ、ゆっくり読んでいいよと言う。
 これで読みかけの本が三冊になったが、この永遠のゼロから先に読むことにした。ノンフィクション作家をめざすフリーライターの姉と、いつまでも仕事をしないでブラブラしている司法試験浪人の弟が、戦死したおじいちゃんの足跡をさがす旅に出る話のようだ。きょうだいのおじいちゃんは零戦パイロットで最後は鹿屋からの特別攻撃で戦死したようだ。読み始めてまもなく、これは若い頃よく読んだ反戦をうたう話のたぐいなのか、と少し気落ちした。それでも、六〇〇ページほどの長い小説なので、もう少し読まないとわからないが、と読んでいった。零戦の戦闘の様子や、太平洋での日米の機動部隊が展開する航空戦の記述はたんたんとしている。それがかえって、経験していないことを想像させることへの配慮があるように思えた。
 本の一二五ページに、高山という新聞社の記者が、「世界史的に見ても、組織だった自爆攻撃は非常に稀有なもので、かっての神風アタックと現在のイスラム原理主義による自爆テロの二つがその代表です。この両者に何らかの共通項があると考えるのは自然な考え方だと思います。現にアメリカの新聞では自爆テロのことを神風アタックと呼んでいます」という、くだりがある。 なるほど、そんな見方があるのかと思った。そのあと、何だか頭がモヤモヤしてきて少し腹立たしく思えてきた。もう読むのをやめようかと思ったが、真珠湾から始まった作戦の場面はラバウルからガダルカナルに移っていて、もはや引き返すことはできない状況だった。
ミッドウェー、珊瑚海、マリアナ沖海戦とページをめくるあいだ僕は夢中だった。世界の戦史で未だにこれほどの航空決戦はない。その幾つかで、日本とアメリカは互いに航空母艦を多いときは一つの海域に四隻も五隻も出動させた。数時間に戦闘機や爆撃機を数百機も投入した。そして敵味方に多くの若者が死んでいった。それらの作戦のほとんどに宮部久蔵は零戦の小隊長として戦っていた事を姉と弟はいくつものインタビューから知った。空や海だけでなく、同じ時期に大小いくつもの南太平洋の島々で死闘が執拗に繰り広げられた。一つの島で数万人の日本兵が殺されて、数千人のアメリカ兵を殺して、その何倍ものアメリカの若者が怪我を負いさらに不具者になった。すでに僕の読む本は中盤を過ぎて四一九ページに差し掛かっていた。
 物語は、姉と弟が新聞記者の高山をまじえて、武田という元特攻要員のインタビューをしている場面になっていた。彼は東大在学中に飛行予備学生となったが、戦後は大学に戻り、大学院を出たあと、企業に入り、戦後の経済復興の第一線で働いていた男だった。有名な一部上場企業の社長を務め、今では日本経済界の大物になっていた。

 
 武田の言葉に、高山は表情を変えた。
    しばしの重苦しい沈黙の後、高山は言った。
 「ひとつ質問させてください。特攻隊員は特攻要員から選ばれるのですか?」
  「そうだ」
  「特攻要員は志願ですね?」
 「そういう形をとっていた」
 「すると、武田さんも志願されたのですね?」
  武田はそれにこたえず、紅茶のカップを口に運んだ。
 「ということは、あなたも、熱烈な愛国者だった時代があったということですね?」
  武田のカップを持つ手が止まった。高山はかまわず続けた。
 「あなたは戦後立派な企業戦士となられましたが、そんなあなたでさえ、愛国者であった時代が
  あったということが、私には大変興味があります。あの時代は、あなたのような人でさえそう
  だったように、すべての国民が洗脳されていたのですね」
  武田はカップを皿に戻した。スプーンとぶつかって派手な音を立てた。
 「私は愛国者だったが、洗脳はされていない。死んでいった仲間たちもそうだ」
 「私は特攻隊員が一時的な洗脳を受けていたと思っています。それは彼らのせいではなく、
  あの時代のせいであり、軍部のせいです。しかし戦後、その洗脳は解けたとおもっています。
  だからこそ、戦後日本は民主主義になり、あれだけの復興を遂げたと思っています」
    武田は小さな声で「何と言うことだ」と咳いた。
    高山は畳みかけるように言った。
 「私は、特攻はテロだと思っています。あえて言うなら、特攻隊員は一種のテロリストだった
 のです。それは彼らの残した遺書を読めばわかります。彼らは国のために命を捨てることを嘆く
 よりも、むしろ誇りに思っていたのです。国のために尽くし、国のために散ることを。そこには、
  一種のヒロイズムさえ読みとれました」
 「黙れ!」
    いきなり武田は怒鳴った。ウエイターが驚いて振り返った。


 僕はこのページの登場人物、武田氏に共感を覚えた。読み始めた頃の、頭のモヤモヤはもう残っていなかった。これから先を読んでいくのが楽しみになっていた。残りの二〇〇ページほどを読むうちに何度か本を閉じて天井を向いた。それでも、不覚にページを濡らすことがあった。

 この「永遠のゼロ」を娘が置いて帰る前に、長男から面白いから読むように勧められて、読みかけていた本がすでに一冊あった。「武士の家計簿」という。これは映画にもなっていた。映画は見ていないが本の方は僕には退屈な内容で思いついたようにしか手に取らないでいた。それが、「永遠のゼロ」を読み終えてから急に読みたくなった。初めから読み直して一日あまりで読んでしまった。武士の家計をとおして武士の家庭の日常が見えるかもしれない。日々の営みから当時の社会の様子や生き方が覗けるかもしれない。と思ったのかもしれない。
 もう一冊、読みかけの本がある。本の背には平家物語とある。そう思って読み始めたのだが中は保元物語平治物語平家物語の三編がとじられていた。保元物語井伏鱒二訳で読みやすいし面白かった。平治物語まで読んでいて、あとの平家物語を読むのを楽しみにしていた。
三冊のうちで後から来た「永遠のゼロ」を読んで、「武士の家計簿」を次に読んで、初めに読もうと思っていた平家物語がまだ読まずに残っている。保元の乱が起きた平安末期から大東亜戦争まで、この間の日本の歴史は八〇〇年ほどにもなる。歴史とは何だろうかと大層なことを思った。政治が都合よく書いたのも歴史に違いないだろうが、案外に、世間に語り継がれる伝説がそうなるのかもしれない。いや伝説は伝説で歴史ではない。歴史はやはり、親が子を、子が親や兄弟を、夫が妻や家族を守ろうとするひたむきな意気地が素晴らしい物語になったときに、それが読む人の誇りを自覚させるなら、それが滅びの物語でも慰霊の文章でも、次代を再生へ向かわせる原動力になるのかもしれない。思いがない言葉は残らない。読む人の心を打つ物書きが、しまいには歴史を作っているのかも知れない、と思った。                  平成二四年五月三一日