ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

エッセイ教室にいった。

晴れているが風が強い一日だった。昨日より気温が10度くらい低かった。
今日のエッセイはこんなだった。


想像で書くのは大変だ              中村克博



住まいの近くに英彦山がある。近くといっても、飯塚市の北西の端にある八木山と隣町の田川市の南東の端にある英彦山は、地図で見るとここから南東に三五キロメートルほど、四五度の対角線上にある。英彦山は子供の頃からのなじみの山だが昨年は英彦山神宮の境内で黒田藩伝柳生新影流の居合の奉納があったので僕も参加した。今年の新年には凍てついた参道を恐る恐る車で登ってお参りにも出かけた。
このことと脈絡はないのだが、以前にエッセイ教室の先輩からお借りした本で井伏鱒二訳の保元物語を読んだことがある。そのときに鎮西八郎為朝が豊前にいたことがわかった。現在の田川市添田町あたり、英彦山まで八キロメートルほどのところに館があったらしい。朝廷から出頭の宣旨によって帰参するときに従った二八騎のなかに豊後の国の豪族で紀太夫という後の英彦山の修験僧で定秀なる者がいたことがわかった。定秀は帰郷して刀を鍛刀するが豊後の名工行平の師匠でもある。
さらに脈略はない話だが僕は母に茶道を習い始めて三年ほどになる。いっしょに習い始めた従兄弟は習得が早いが僕は今だに薄茶がろくにできない。それでも茶道がどんなものか少しは分かってきている。栄西が宋の国から茶の実を持ち帰って背振山に植えたことや博多に聖福寺を建立して日本で最初の禅を伝えたことなどがわかった。栄西は永治元年四月二〇日(一一四一年五月二七日)の生まれ、為朝は保延五年(一一三九年)の生まれで、二人は同じ世代を生きていたことがわかった。
恐縮だがさらに脈絡のない話がつづく。二月のエッセイ教室で「茶道 そろりあるき」という題の作品が提出されていた。僕はこの日「鎮西八郎為朝と二八騎」という題で提出していた。それで思いついた。「茶道 そろりあるき」での茶事の様子を「鎮西八郎為朝と二八騎」の時代におきかえて書いてみようと考えた。このような脈絡のない話が個人的な背景になって、少し前、エッセイ教室に空想で書いた一文を提出したことがある。エッセイは自分のまわりで日常におきる出来事や思いついた感想や意見を気軽に書いた個人的な散文だと理解しているが、このようなひょんな思いつきで物語を想像で書いてみたくなった。
ところが書き始めて想像で書くことの大変さがわかった。栄西に下女が話しかけるときになんと呼んだのだろう。名前がいくつもある。号は明庵、房号は葉上房、諡号は千光国師。諡、この字の読み方がわからない。「オクリナ」と読み死んでから贈られる称号らしい。諡号で「シゴウ」と読むらしい。諱「イミナ」というのがあるがこれとどう違うのか、尊称は栄西禅師という。それに「下女」などと書いていいのだろうか、書き始めてから筆は進まなくなってしまった。
僕の物語では栄西がお茶のもてなしを英彦山のふもとで受けるようになるのだが、そこの場所に栄西はどこから来たことにしようかと思った。時期は、栄西が博多に聖福寺を建立したのが一一九五年だがそれよりも前にしようと思った。それでその間の逗留場所を香椎宮に決めた。香椎宮は黒田藩伝柳生新影流の奉納が年に二度ほど行われるので由緒などを少し調べたことがある。
平清盛の弟の平頼盛は太宰の大弐であり筑前の国香椎庄を家門の領地としていた。平家滅亡の後も源頼朝から本領を安堵され熊野のある紀伊の国を含む荘園三三箇所を返還されていた。香椎庄もその中にある。香椎B遺跡は平成七年から平成九年にかけて福岡市が行った調査で平安時代から戦国時代の香椎地区の歴史的変遷が明らかになった。それによると、香椎宮日宋貿易の一大拠点でありその接点は平頼盛にあったとしている。また香椎宮と宋との関係を考えれば栄西を抜きにできないようだ。「元亨釈書」によれば平頼盛栄西の入宋に際し資金などの援助をしていたといわれる。香椎B遺跡の寺熊地区には宋の人たちが多く居住して貿易活動に従事していた。との報告がある。こうなるともう安易に物語など書けなくなる。
そんなわけで栄西香椎宮をたって英彦山まで来ることになるが、歩いてくるのか、馬は使うのか、水やお昼のお弁当は、みやげ物や荷物をどう運ぶのか、護衛の武士は宿泊先は、そもそも通ったと思われる道はどんなだったのか、寒い冬の朝を何を着てワラジをはいたのか、などを考えると歩くに歩けない。どうにか英彦山について旅装をといて、最初に迎えてくれた人は女にした。年齢を一四にした。書いている下書きを娘が読んでいて「お父さんはロリコン趣味か」といぶかしがった。失礼な冗談ではない。この時代、女はこの歳で立派にお嫁にもいってもおかしくない、と言いたかった。物語のすぐあとに登場する為朝は一五、六で肥後の国から嫁をもらっている。
朝日が玄関の土間の奥まで差し込んで、と書いたら、家の間取りが必要になるのに気がついた。どんな地形にどんな家が建っていたことにするのか、さっそく平安末期の民家や武家屋敷や豪族の館の様子を調べなければ書けない。天井や欄間、鴨居の高さや飾り床、冬の暖はどうしてとったのか、部屋の明かりはどうだったのか、中の部屋は昼間でも暗かったはずだ。掛け軸や飾られた花は自然の明かりの中で影はどのように見えるのか、二行ほど書くのに半日も考えてまだわからない。できるだけ実際にやってみて体験するしかないこともある。
山の木々や川の流れなどは八〇〇年まえと変わらないことにして自分の記憶にある通りに書けばいいので気楽なもんだが、それでも実際には川の流れが変わっていないはずはないし、気候に変動があれば植物の植生は変わっているかもしれない。
やっとのことで前座の食事を終わってお茶を点てる段になった。この時代すでに抹茶が茶筅を使って点てられていたことは読んでいた。茶の葉も栄西背振山に植える前から各地で自生していたし、遣唐使や遣隋使たちも中国の茶の実を持ち帰っていた記録がある。唐の時代には長安や洛陽では庶民のあいだに茶の嗜好は広まり喫茶店が立ち並んでいたという記録がある。定秀が栄西に茶を点てるようすを書いたが、ただ点てるだけを読めるよに書くのは難しかったので、定秀がそそうしてコロンと茶碗をひっくり返すことにした。この時代、宋の禅寺で使われていたという天目茶碗は高台が小さいのでひっくり返るのに都合がいい。ところが茶道ではこの茶碗を使うときには天目台を使って安定させるようだ。しかし、それではひっくり返らない。
濃茶のあとは場所を変えて薄茶を喫するが、そこに源為朝が待っていて栄西が出会う場面になるのだがそこまで行くのは大変だ。

平成二五年四月十八日