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はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

お茶の稽古だった。

もう一週間がたった。日が過ぎるのがはやい。

先週のお茶の稽古は釣り釜の用意が出来なかった。
四月になったが釣り釜の用意をした。
稽古相手の従兄弟は上達が早い、、


昨日はエッセイ教室だった。
アテナの銀貨は完結したが、前篇のあらすじを書いた。
出版社の小説募集の応募に必要らしい。入選したらどうしよう…


アテナの銀貨、あらすじ

平安時代が終わり鎌倉の時代に移るころ、博多では聖福寺の創建(1195年)がすすんでいた。正月が明けた寒い朝英彦山の麓にある僧定秀の屋形に栄西がおとずれた。英彦山は古くから修験道の山として知られていた。宿坊八百をかぞえ三千の僧兵を擁して武芸の鍛錬も盛んであった。僧定秀はそこの学頭をつとめていた。

四十年ほど前、僧定秀は紀の姓を名のり、代々筑前国嘉麻郡穂波郡鞍手郡それに豊前国の田川郡を支配する豪族であった。そのころ九州は源為朝が平定していた。朝廷の内紛で、崇徳上皇の求めに応じた為朝は二十八騎の精鋭とともに保元の乱(保元元年1156年)に参戦したが多勢に無勢、為朝配下の二十八騎は二十三騎騎が討ち死にしてしまった。崇徳上皇の白川北殿が落ち、主従は散りぢりに逃げる。為朝は近江国坂田の湯治場の湯屋で素っ裸のまま佐渡重貞の手勢に捕えられる。京で首をさらされるところ伊豆の大島に流刑となった。定秀は右肩に深手を受け、どこをどう逃げたか気が付けば奈良の東大寺にかくまわれていた。仏門に帰依し、千手院の鍛冶場で刀剣の鍛造を十年ほど学んだ。平家が全盛のころ世が落ち着くと英彦山に帰っていた。
為朝は伊豆大島で死んだとの説もあるが、この物語では生存説をとる。紀伊の国熊野には為朝の姉がいた。十九代熊野別当行範の妻であり、承安三年(1173年)に行範が死去すると鳥居禅尼と名乗り義弟の二十代別当範智それに娘婿の二十一代別当湛増を通じて熊野三山にその影響力を与えた。熊野別当南房総に知行地もあり相模灘遠州灘熊野灘熊野水軍の勢力圏であった。伊豆大島はその中にある。為朝は鳥居禅尼のはからいで熊野に移り住んでいた。
為朝は熊野に二〇年ほど潜んでいた。山で修験をかさね、熊野灘を小早船で帆走する日々を過ごしていた。模擬戦に参加し海戦の機微を身につけ水軍の将としての技量をたかめていた。平氏が滅んだのち鎌倉の源頼朝は、叔父の源行家、弟の義経、さらに弟の範頼を殺害する。行家は鳥居禅尼実弟、為朝の兄弟でもあった。後顧の憂をなくすためであろうが執拗であった。為朝は熊野を去る。

甥の源新宮行忠とわずかな郎党を伴い英彦山に隠れて五年がすぎていた。栄西英彦山を訪ねたのはこのころであった。英彦山で為朝は栄西と初めて出会うのだが話をする間もなく刺客の一団に襲われる。豊後には鎌倉から大友能直の軍が進駐していたが地元豪族、大神一族の激しい抵抗にはばまれ英彦山の為朝の存在は脅威であった。春の始め為朝は栄西のはからいで英彦山を去り、香椎の浦から壱岐島玄界灘を渡る。

壇ノ浦の戦い(1185年)で平家が滅んで十年、九州では椎葉や五家荘などの山間僻地や対馬、五島、島原などの島々には平家方の女子供を含む大勢の難民と残存兵力が息をひそめていた。平家が全盛のころ九州は平家の基盤が強く、また地元の有力な豪族は独立の気概が旺盛であった。豊後には大神一族が、北部九州には原田、秋月、高橋、三池、松浦党が割拠し、南九州では阿多忠景が薩摩一国をさらに配下の豪族たちを通じて大隅・日向を支配していた。

栄西は九州の平家残存勢力を琉球に移住させる計画をたてる。遠征軍の総帥は為朝とし、聖福寺船、博多の網首丁国安の交易船、南宋の外洋戦艦からなる混成艦隊十一隻を編成する。副官に英彦山で為朝を襲った刺客団の頭目、戸次惟唯がいた。船団の集結地は宇久島、為朝たちは二艘の小早船に分乗して壱岐を出たが海は嵐になった。平戸の薄香の浦に避難したが夜が明けると平戸松浦の水軍が浦の入口を大小の船で封鎖し船戦が始まった。

この時期、琉球は王族の内輪もめから国が乱れていた。反乱軍は薩摩の鬼界ヶ島を占拠して産出する硫黄をアラビアや南宋の交易船に売り渡し軍費の調達にあてていた。為朝の軍はまず鬼界ヶ島の奪還をおこなう。この戦で惟唯は負傷して島に残る。琉球までの航海でイスラムの密航船二隻を沈めるがイスラムの戦艦四隻に待ち伏せされ炸裂弾の攻撃で痛手を受ける。それでも計画通りに琉球の運天の湊に到着して平家の軍勢を上陸させ聖福寺船の船底いっぱいの宋銭と少々潮をかぶった膨大な量の米俵が陸揚げされた。この作戦で琉球王朝は平穏を回復した。南宋と博多は硫黄の確保ができた。

奈良に都があったころからの律令制は平家全盛の時代にはすでに機能しなくなって、貴族や寺社が直接支配する大規模な荘園が飛躍的に広まっていた。日用品や工芸品の生産が専業で行われ、日宋貿易による宋銭の大量流入は貨幣を介在して物資の流通が始まろうとしていた。博多の発展は膨大な宋銭の流入を喚起させる。これは鎌倉が栄西聖福寺を通じて国内の通貨供給と流通量を調整することを意味し、国中の物の移動が活発になり国家財政をもとにした貨幣経済が始まることを意味する。

そのころ中東ではキリスト教国による十字軍の遠征が十一世紀の末から始まっていたが、日本で鎌倉時代が始まるこの時期は第三回の十字軍の遠征が終了したころだった。一度奪われていた聖地エルサレムイスラムが守り通し、リチャード一世とサラディーンとの休戦協定によってキリスト軍は北へ帰った。十字軍による百年もの長期間にわたる物資や人の大量移動は広大な地域の貨幣経済を促進させていた。この地域での広域貨幣の歴史はこれよりさらに一千年以上もむかし、アレキサンダーペルシャ遠征にさかのぼる。

この物語のなかごろ、アレキサンダーに従軍した武将の子孫と為朝が琉球を間近にしたトカラの海で出会う。そのイスラムの海商の首にはアレキサンダーが造幣したアテナの銀貨がかけられていた。このイスラムの海商はマンスールといい琉球那覇を拠点に十隻ほどのアラビアの大型船を運航していた。鬼界ヶ島の硫黄を買い付け、那覇南宋の炸裂弾などの武器弾薬を手配して中東のイスラム兵站に輸送するのが主な仕事だった。また、アラビアからはガラスの器や医薬品、穀物など、南アジアの香料や木材などを運んでいたが十字軍との戦いが中断し、本国への使命が終了していた。マンスールには目もくらむような美しい女奴隷の許嫁が二人いたが、それをおいて為朝に従って壱岐に行くことにした。

壱岐でのマンスールは負傷していた体を治し、その地の風土になじんで言葉の習得もはやかった。栄西の依頼を受け、マンスールはアラビアの交易船三隻に硫黄や刀剣や木材などを満載して南宋に敵対する北の金国に向かう。途中で高麗の海賊に襲われるが無事に金の国、威海に到着する。硫黄などの積み荷を降ろし、金国からは一万貫、一千万枚もの宋銭を積み込んだが帰りの航海で七隻もの南宋の戦艦が待ち伏せされた。長時間の海戦が繰り広げられ、積荷の半分を輸送船ごと奪われたが壱岐に帰り着いた。
マンスール壱岐の芦辺の豪族、西文慶の娘を見染めていたが許されて婿入りすることになった。鬼界ヶ島で負傷した戸次惟唯は平戸の二の姫と夫婦になり松浦に姓が変わる。
金から持ち帰った宋銭を博多の船に積み替え朝廷に届ける航海には為朝が同行した。不足する五千貫の宋銭は為朝が預かる宋銭からまかなっていた。博多の船に宋銭一万貫を乗せ、聖福寺船には鎌倉の軍兵が百人ほど乗っていた。為朝はマンスールから進呈された優美なアラビア船で月読宮の女宮司敦賀まで出かける。のどかな航海で順調に敦賀の浦に碇を入れた。積荷の受け取りに警固の軍勢が待機していた。為朝の船に後鳥羽上皇の密使がおとずれ綸旨を届けてきた。それには為朝にすぐさま京に出向くようにとあった。月読の女宮司は一緒に京で暮らそうと為朝に言う。
                              おわり