ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

午前中、エッセー教室だった。

栄西と為朝と定秀、ひょんなことから書きはじめ、
調べては書き、調べては書き、していたら、物語はあらぬ方向へ、
もともと、この時代の歴史は知らないから、書くにあたって構想などないのだが、
それにしても、調べれば、調べるほど、知らなかった意外なことがでてきた。
書く時間より調べる時間の方が数倍も多いが、創作することが面白くなった。
ただ、調べたことに沿って物語が進むので、どこへ行くやら自分で皆目わからない。


夕方から居合の稽古だった。

マイク師範がスカンジナビアンに左右突きの指導をしていた。

女性剣客と老熟剣士との組太刀稽古はいいもんだ。

清水師範の親子鷹もいいもんだ。身長は親より高くなったようだ。




今日の物語はいつもより長くなった。
それでも、教室の仲間はつきあってくれる。先生はやる気の出る指導をしてくれる。


栄西と為朝と定秀                 中村克博


 正午まえに宇久を出た船団は南東に向かっていた。
北西の追い風がほどよく筵帆をはらませて波はおだやかだった。
丁国安の宋船五隻が先導していた。そのうしろには南宋の軍船が二隻、その後に聖福寺船を含む博多の船四隻が続いていた。
船団は丁国安が乗る宋船を先頭に、あとの十隻は二隻縦隊で進んだ。
船足を、兵と海戦の装備を満載している宋の軍船にあわせて、先導する五隻の空船は主帆の風を逃がしながら船の速度を調整していた。
長崎半島をまわったのは夜半過ぎだった。天草灘から島原の内海に入る頃、日の出にはまだ間があるが遠く阿蘇の山なみが輝いて海は明るくなっていた。左舷から吹く北風はよわいが舵が利きにくいほどではなかった。惟唯は船べりの欄干に両腕をのせて目の前の海を見ていた。顔に当たる風が心地よかった。
左にいる仲間の武士が、
「先ほどから勇魚(いさな)が数頭たわむれながら、ついてきていますね」
「かわいい顔をしていますね。笑っているようだ。入鹿魚(いるか)ですね」
 仲間の武士の、その左に聖福寺の若い僧がいた。
万葉集に、鯨魚とり海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干て山は枯れすれ、という歌があります」
「そうですか・・・」
惟唯には歌の深い意味は分からなかったが、遠くの海に目をうつした。

 八代の海にはいるまえ、風が少し出てきたのは幸いだった。
永浦島を右舷に見ながら狭い瀬戸を一列になって通り抜けると、球磨川の河口に開いた港には南宋の外洋船が二隻、琉球の外洋船一隻が碇を降ろしていた。
漁に出る小舟が帆を上げて沖に出ている。
船団はゆっくり進んだ。
だんだんに陸が近づいて人の動きが見えてきた。人家のある方角からは、いくつもの釜戸の煙がたなびいて靄のようになっていた。
丁国安の五隻が陸に近く投錨した。
それを取り囲むようにして六隻の船が次々に碇を入れた。
一艘の小早船が丁国安の乗る宋船に向かっている。
為朝は船尾楼の甲板で様子を見ていた。次郎が横にいた。
「三つ鱗の旗印がみえます。鎌倉、北条のものですね」
「平家の時代は平清盛の直轄領だったが、いま八代は鎌倉がおさえている」
「博多は、頼朝公より栄西禅師が方八町(約九〇〇メートル四方)の土地を賜て、今は聖福寺の差配ですが、うしろに鎌倉がひかえておりますね」
「博多も平家の時代には平頼盛の所領であった」
「交易の港はいずれも権門が支配するのですね」
「博多に八代、あと、鎮西で大きな港は坊津だな」
「坊津は京都が、近衛家が今も所有しておるのですね」

 丁国安の船に接舷していた北条の小早船からは武士が数人乗船していたが、その役目を終えて今また北条の船は船着き場へ帰っていった。
 間もなく、たくさんの艀が丁国安の五隻の宋船に向かって櫓を漕いでいた。
艀には吃水が時おり波間にかくれるほど米俵が積んであった。
 為朝の乗る聖福寺船と四隻の博多の船それぞれにも艀が近づいてきた。
為朝の乗る聖福寺船と丁国安の乗る宋船、この二隻には、これから船倉に米が満載され、南宋の軍船二隻をのぞく、ほかの七隻には底荷としての米が積み込まれる。
惟唯がうれしそうに、
「やや、米のほかにも果実がたくさん積まれます。どんな味でしょう」
 聖福寺の若い僧がこたえた。
「高田(こうだ)みかんです。これまで肥後国司より朝廷に献上されていたそうです」
「どんな味ですか」
聖福寺でお供え物に見たことはありますが、食べたことはありません」

 米の積み込みには帆柱を利用して、大きな丸太を支柱にした巻き上げ装置を使って艀から甲板に積み込まれた。それを船倉に人手で運ぶのだが、丁国安と聖福寺の船には何度も艀が往復して積み終えるのに昼過ぎまでかかった。
 米の積み込みが終わると、丁国安の宋船五隻のうち四隻に平家の武者が乗り込む手はずだが、その前に平家の幕僚たち五人が北条の旗印を掲げた小早船で聖福寺船の為朝のところにやってきた。
 聖福寺の船は武士をはじめ壱岐の水夫たちも、みんな整然と出迎えた。
 真新しい狩衣に立烏帽子、それに腰につけた太刀の見事な拵えの武者が甲板に降り立つと為朝に深々とお辞儀をした。
随行した四人の武者は直垂に侍烏帽子をかぶって実用的な拵えの太刀を佩いていた。五人の武者は正装であった。
為朝は海の上ではいつもそうだが、この日も動きやすい腹巻をつけて揉烏帽子をかぶっていた。
 おとずれた武者も、迎えた為朝も互いに丁寧なお辞儀をしただけで言葉は交わさず、そのまま連れ立って船尾楼の船室にはいった。
 為朝と次郎と惟唯、それに聖福寺の若い僧が二人、正装した五人の平家の武者たちと四角い卓を囲んで椅子に座った。
 為朝が口を開いた。
「平教経(のりつね)殿ですね。教盛殿のご次男、清盛殿は伯父ですね」
「申し遅れました。平教経です。このたびのことは鎌倉の意向として、栄西禅師が八代の北条方へお伝えになったと聞いております」 
 ここで、次郎や惟唯、若い二人の僧がそれぞれ名のりをした。
 為朝が話をつづけた。
「八代は清盛殿の直轄領であったところ、このたび主がかわり、清盛殿の平家武者が大挙してこの地から離れることは、鎌倉殿も願うことでしょう」
「はい、わたくし共にとってもありがたいことです。壇ノ浦から逃れてきた平家の武者だけでなく八代の平家も大勢くわわって安堵しております」 
 惟唯が口を開いた。
「伊豆の北条は平氏で、鎌倉は源氏、八代の地は昔、平氏の総帥清盛様の所領、それを今は北条が治めて鎌倉の勢力下、実にややこしい」
 若い僧の一人が、
「なるほど、源平でとらえるとむつかしい」
「清盛様と頼朝様の戦い、源氏と平氏の戦ではないのですか」
「いや、それでは全体の成り行きを見損なうかもしれない」
 もう一人の、聖福寺の僧が話を引き継いだ。
「京から見て西と東のいくさ、海と陸、交易と農業のいくさでもあります」
 若い僧がこたえた。
「西国では宋銭が大量に流入して銭貨での取引が一気にすすみました」
「そうか、豊後でも宋銭での物や使役の交換ができていました」
「そうなると銭貨の根幹をにぎる勢力が世の中を支配するようになります」
 聖福寺の僧と惟唯のやりとりをみんな面白そうに聞いていた。
 抹茶がふるまわれた。先ほどの高田ミカンが籠に盛られてきた。
 平の教経が茶碗を押しいただくようにして、
「これから琉球までの航海、いろんな話が聞けそうだ。楽しみです」と笑った。
 丁国安の持ち船四隻には、すでに大半の平家の武者が兵装で乗り込んでいた。
たくさんの艀が行き交っていたが、陸ではまだ艀を待つ大勢の武者たちが昼下がりの日差しの中で静かに隊列を組んでいた。

 日暮れまでには乗船を終えて、船団はそのまま八代で一泊した。
四隻の宋船に分乗した平家の武者たちは北条方から差し入れられた簡単な夕餉をすますと、思い思いに甲板ですごしていた。
甲板は人でいっぱいだが静かだった。
平家の人は戦に敗れて追われ、住む場所のない不安の影のなかで十年余りが過ぎていた。今は新天地を求めていくが、そこが、どのようなところなのか誰も知らなかった。琉球というらしい。
寒い冬のないところで一年中美しい花が咲いて、おいしい果実が自然になるという。宋の船はもとより、南の国や遠く天竺や大食(アラビア)からも貿易船がやってきて街にはいろんな国の人が行き交うという。
いま琉球は国が乱れている。豪族同士が争い、あるいは結託して王家に謀反している。反乱軍は琉球本島だけでなく奄美種子島にも出没している。そのため交易船の往来もままならずに大食などは自国民の居住地をまもるために武装した船を派遣しているという。硫黄の産出する鬼界ヶ島はすでに反乱軍に占領され、南宋は火薬の原料の硫黄が入手できなくなってこのたびの派兵になった。 

 八代を夜明けとともに出た船団は昼前には水俣に到着した。
波風はおだやかだった。陸に向かって二列横隊で投錨した。
為朝の乗る聖福寺の船だけが一隻、陸に近づいて列から離れて碇を入れた。
間もなく一艘の小早船が漕ぎ出してきて聖福寺船に横付けした。
すぐに二十人ほどの兵装の武者たちが乗り込んだ。それを見さだめるように数十艘の艀船が漕ぎ出してきた。小早船に入れ替わって艀は二艘ずつ聖福寺船に横付けして、次々と米俵を降ろす作業がはじめられた。

先に聖福寺船に乗り組んでいた二十人ほどの武者の中に為朝の息子がいた。
為朝は十三歳で鎮西におもむくが、数年のうちに鎮西をおさめて薩摩平氏の棟梁、阿多平忠影の娘を嫁にしていた。十七歳のときに京に呼び戻され保元の乱に遭遇する。敗れて伊豆大島に流されるが三十一歳をすぎるころ大島を脱出して熊野に身を寄せるまで、しばらく薩摩の阿多平忠影のところに五、六年潜伏していた。そのときから二十年ほどの年月が過ぎていた。
息子は薩摩平氏の姓を名のり平尊敦(たいらのたかあつ)という。
年齢は四十にちかかった。
このたび聖福寺の船で顔を合わすことになる伊勢平氏の平教経(のりつね)とは四つか五つ多い年配になる。
為朝は息子を船尾楼の船室で迎えた。戸次惟唯、高木次郎、平教経と幕僚二人それに聖福寺の僧が二人いた。
それぞれが名のりあい、すこしたつと話が和んでいた。抹茶が薄く点てられ振る舞われると為朝は笑顔で一人、席を立った。
「明日は坊津、坊津を出れば戦場(いくさば)です。今日はまだ日も高い。陸では薩摩平氏が布陣して警戒しております。ゆっくりくつろがれよ」
 為朝は階段を下りて行った。次郎がついて来たが、話の席に戻るように言った。
 為朝は一人で甲板を歩いた。人夫と一緒に武士も水夫も汗だくで米の運びだしが続いていた。すでに戦は始まっている。
 尊敦は、とおもう。なんだかわからんが、よかった、ありがたい、と思った。思いと頭の中は別だった。博多の船三隻に乗っている宇久の武者たちのことが気がかりだった。狭い船に五百人もの武装兵が満載されている。指揮官たちとさえ、いまだ面識がなかった。
尊敦は、少し太りすぎだと思った。しかし頭の中は、海戦になったら南宋の軍船はどう展開するのか、打ち合わせはない。
艀の作業が終わると、ふたたび先ほどの小早船が入れ替わって横付けした。
聖福寺の若い僧二人が小早船に乗りこんで銭俵の搬入がはじめられた。
銭俵には宋銭九七枚を一区切りに紐をとおして、さし銭百文とみなし、千文を一貫文として、五貫文を一つの銭俵にしてあった。
平成二六年七月十八日