ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

先日の金曜日は、エッセイ教室だった。

栄西と為朝と定秀、書きはじめて、すでに114.302文字になった。
400文字で割ると285.75になる。原稿用紙にすれば空白があるので
300枚を超えるだろう。いつまで続くか、区切りをつけたいが、


栄西と為朝と定秀                  中村克博


 平教経は退出するため為朝に一礼し、二人の平家武者に向き直って何か言おうとしたが、武者二人の前には丁国安の憮然とした顔があった。
 丁国安は平教経の動きに気づかないようで、
「フィフィは、このような東の果てにまで来て硫黄を求めなくとも、近くに硫黄の産地はあるでしょうに」と、聖福寺の僧を見て言った。
 二人の僧のうち一人が、
「フィフィ(回回)とは南宋に土着する西域からきたイスラムのこと、鬼界ヶ島に来たイスラームはフィフィとは仔細がことなります」と、前置きしたあと、もう一人の僧が、
イスラームの国にも硫黄は産出します。それを南宋に売りにも来ます」
僧はイスラムイスラームとことさら長く伸ばてこたえた。
「異なことを言われる。なら、なぜ鬼界ヶ島にまで来て硫黄を求めるのですか」
「交易とは利を求めるのではありませんか、利があるのでしょう」
 僧の言葉が丁国安には当て擦りのように聞こえたが、
「そう言えば、国の外交は自国で余るものを他国から買ったり、足りない物を売ったりもしますな」となにげないふうに言った。
「しかし、今回イスラムは、賊が占拠しておる鬼界ヶ島の硫黄を買い付け南宋に売ろうとしており、これが我が国への利敵行為になります」と、もう一人の僧が言った。
「そうです。そうです。それでは博多の日宋貿易は上がったりですからな」
 丁国安は満足した顔に戻った。
 平敬敦は平教経と目をあわせ、待ちかねたように、
「出撃の手筈が整っております。我々は陣所にまいります」と、為朝に言った。

聖福寺船の船尾楼の甲板には為朝、高木次郎、丁国安、船長が残った。熱い煎じ茶が運ばれたが、食べ物は昨日から誰も口にしていなかった。
 先発した本隊の伊勢平氏六百は平教経が率いて、昨日戦いがあった丘陵への道を登っていた。しばらく間をおいて出発した島津の兵百は、左側の断崖の細い小道を右に左に折れ曲がりながら登っていた。その後を阿多平氏の隼人二百が平敬敦に率いられ一列につながって、うごめくように遅々と進むのが見える。
聖福寺船の船尾楼の甲板から丁国安が断崖の方を見ながら、
「進軍中の九百人の兵は出撃前に炒米、干飯、焼味噌、梅干し、など携行糧食で済ませておるし、船の水夫はそれぞれの船で火を使って食事は準備しますが、我らも腹が減りましたな。それにしても、崖下の細い道を登るのは上からの攻撃に無防備で、気がかりですな」
 次郎は浜での炊き出しの様子を見ていたが、目を断崖に移して、
「細い道の上は夜のうちに確保しておりますが、やはり、そうですね」
 次郎はそう言って、すぐにまた浜の方に顔を向けた。
浜辺の方が心配なのである。

 浜では炊き出し作業の最中で、土鍋や釜がかけられた火の煙が数えきれないほど多く立ち昇っていた。なにしろ敵味方あわせて六百人をこえる兵士への炊き出しで、作業はてんやわんやだった。慌ただしく働くその人混みの中に、水を運んだり薪を運んだりするのは投降した三百人近い琉球の反乱軍の兵士だった。 
玄米に小豆や粟を炊き込んだ飯ができあがると、土鍋や釜から桶や板の上にかえされ、その熱々の飯を大勢がかかって卵型に握りしめる。空になった土鍋や釜には再び飯の材料が仕込まれて火にかけられた。

「惟唯殿の加減はいかがでしょうか」と次郎が為朝にたずねた。
 船室の惟唯の様子を見舞って戻ってきたばかりの為朝が、
「傷が化膿しなければいいが、うすい粥は食べておった」
「私が明け方見舞ったときには気持ちよさそうに眠っておいででした。食があれば大丈夫、いい薬もあります」と、丁国安が言った。
「炊き出しの飯が配られておるようだな」
「はい、イスラムの捕虜から順に食べるように手配しております。甑(こしき)で蒸しては間にあいませんので、船中の土鍋、鉄鍋、茶釜までを使って煮込んみ、固粥にして強く握っております」
「船は火攻めを警戒し、距離をおき碇を入れております。水夫たちは船ごとに朝餉は済ましたもようです」と、船長が言った。
南宋の軍船が見あたりませんが、岬の沖を警戒しておるようですな」と丁国安が船長に確認した。
「はい、昨日、夕日のあるうちに出て行っております」

 聖福寺の僧が一人、水夫三人をつれて船尾楼に向かって来るのが見える。水夫は炊き上がった握り飯を運んでいた。
「朝飯がやって来たようですな」と、丁国安が笑顔で言った。
 船尾楼を上って来ると僧は為朝に向かって、
琉球の捕虜から願いがでております。食事を終えた後、仲間の戦死者の埋葬をさせてほしいそうです。いかがいたしますか」と言って返事をまった。
「次郎、いかがいたす」
「はっ…、そうですね…。五十人ずつ何度かに分けて、我が方の兵を百人ずつ同行させます。半数には弓を持たせます」
「うㇺ、そうだな」と為朝はうなずいた。
「かしこまりました。それと、イスラムの捕虜が、陸に上がって作業の手伝いをしたいと申しでておりますが」
「次郎、これは、いかがいたす」
「はい、いいでしょう。それに彼らの礼拝は朝夕の二回だけ許します」
「かしこまりました。みな喜びます」と僧は為朝に一礼した。
 聖福寺の僧は食事を当番兵にわたし、水夫を伴って帰っていった。

 戻っていく聖福寺の僧と水夫たちをみながら次郎が、
「今朝がた為朝様の意向で琉球の反乱軍捕虜の幹部たちをここに呼びましたが、聖福寺の二人の僧が我ら遠征の趣旨を説きましたときに、捕虜には腹のすわった高潔な武人がおったようです。琉球の内乱は我ら日本の軍が王朝に加勢して鎮まる。その後、王朝内部の粛清がなされ琉球は再建され善政がしかれる。このたびの国軍からの離脱は権門である按司の堕落に対する義憤であったと認め、投降した将兵は不問に付し原隊に復帰させる。そのように聖福寺の僧が説いた意味を彼らが後ほど皆で話し合い判断した今、極めて協力的になっております」
話が少し長くなったが、今朝早く反乱軍の幹部たちと談判したいきさつを次郎は為朝に報告した。
「だろうな、聖福寺僧たちの説伏は道理がわかりやすい」
「ときとして言葉は武力以上ですね」
「だろうな。次郎…、浜の警固は抜かりないか」
「はい、宇久平氏の軍兵が桟橋の外洋船の上に百人、浜には十か所に分かれて百人、さらに林の中に散開して百人、それぞれ弓を持って備えております」

 浜では炊き出しが一段落ついていた。琉球の反乱兵も、イスラムの船乗りたちも、宇久の平氏の武者たちも、壱岐からの武士たちも、敵味方が入り混じって熱々の握り飯を頬張っている。おかずは不足だが飯は食べきれないほどあった。
 談笑する者、飯を配って歩く者、寝転ぶ者が浜一面に広がっている。
「おなじ作業で汗を流した者どうしは、すぐに気心が知れたようになりますな」
 船長が二つめの握り飯を手にして言った。
イスラム琉球に宇久の平氏、それに南宋や博多の水夫がまじって、言葉は通じておるのでしょうかな。何を話しておるのやら」
 丁国安がまじめな顔で三つめの握り飯を口に入れた。
「みんな楽しそうに見えます。ともに同じ釜の飯を食えば、すでに仲間ですね」
 次郎は新鮮な光景を体験して心を打たれたようにつぶやいた。

 日差しが高くなっていた。琉球の反乱兵たちが手に手に鋤や鍬を持って丘陵の坂道を下りてくるのが見える。仲間の戦死者を埋葬するために出かけた第二陣五十人と監視役の宇久の兵百人だった。日本の戦死者は浜で荼毘に付されていた。
 聖福寺船の船尾櫓の甲板で為朝が伝令の報告を受けていた。
「阿多隼人と島津の軍は難なく崖を登って村を制圧しました。本隊の伊勢平氏は丘陵の道を上って、村で二つの軍は合流しました。敵は見かけず村人は好意的です」
「そうか、敵はどこに行ったのかな」
「はっ、おそらく、北の奥深い林の中にいるものと思います」
それを聞いていた丁国安が思案気に口をはさんだ。
「北の山は樹木が鬱蒼として水もある。討伐には手間がかかりますな」
 伝令の若い武士は額の汗をぬぐって、
「山狩りは明朝、夜明けとともに、布陣は今日、日のあるうちに行います」
 為朝が何度もうなずいて、
「戦がないとなれば、みな腹がすいておろうな」
 次郎が伝令兵を見てこたえた。
「飯は炊き上がり、握り飯にしております。琉球イスラムの捕虜たちが現地への運搬を申し出ております」
                           平成二六年九月一九日