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はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

放下着

エッセイ教室で、目がさめた。

午前中はエッセイ教室だった。
ある高齢の生徒さんが「放下着」との題で書いていた。


  放下着         山下和子
 放下着はお茶のとき、よく聞く言葉ですが、お茶の宗匠は家元になられるまえに寺院に入られ修業されるので仏教のことばだと思います。
 みんなきれいにさっぱり捨ててしまえ、ということで心の涼しさ清がしさで我欲、執着すべて捨ててしまえだと思います。


 でも私は身のまわりの、どんながらくたも捨てることができません。戦後ものがないときに育ったものには捨てるのに忍びなくて今でもずっとであります。
 子供の洋服など着られなくなっているものまでとっていて整理するときみると当時のことが思い出されます。
 無理して買った自分の着物なども派手になっていて、とても着る機会はないのに捨てられない。
 里の父が亡くなったときは涙もでなかったのに、衣類の整理をしていると、一枚一枚に思い出があり涙が止まりませんでした。
 この前「影を慕いて」の曲を聞いていると小学校のころに友達の家で針を落としてまわるレコードをかけて遊んだときのことが思い出され、あの人はどうしているだろう。
 音楽も歳をとられた人は最近の歌を聞くより自分の若かりしころの音楽を聴いて心が癒されます。
 古美術や貴重品でなくても、普段使っていたものは回想のよりどころで捨てないで大切にしたいと思いました。お茶のことは余分なものはそぎ落としてと利休のお茶がそうですが、お茶のことから思いだしました。

 
 エッセイ教室では生徒が、それぞれ作品を自分で朗読して発表するのだが、僕は山下さんの朴訥な朗読を聞きながら、聞き入って、はたと思い当たって、頭か胸か背中かに衝撃を受けた。年取った母が昔の物を捨てないのは、僕が見るとガラクタかゴミのような物を捨てないで部屋中に置いているのは、あれは思い出なんだと気づいた。僕が車の中で昔の、若かったころに聞いた歌を聞いて歌うのと同じようなことなんだと教えてもらった。母に、これまで申し訳ないことをしたり思ったりしていた。

 

 それで、こんどは今日提出した僕のエッセイは、


  遠くの友人がやってきた。                 中村克博
 
 なつかしい友人が軽自動車のワゴンに犬を乗せてやって来た。1,000kmの遠くから十数時間走り続けて昨日は福岡の従兄弟の家に泊まったそうだ。その従兄弟が東京に用事があった帰りに群馬の家に立ち寄ったのでそのまま犬を乗せて車を出したらしい。七十歳をとっくに過ぎている男たちが交代で運転しながらノンストップで福岡まで走ったそうだ。なんとも、日本の軽自動車の性能には驚かされる。今朝の十時過ぎ、そろそろやって来る時刻だとおもっていたら外から話し声が聞こえる。福岡に出かける妻と行き違いに出会ったようだ。
 座敷に上がる前に犬を放してやった。狙いすました獲物でも追うように一目散に山に向かって走っていった。この犬は友人が二年ほどマレーシアに住んでいたときからいつもそばにいるようだ。野良犬が生んだ子犬をもらって育てたらしい。白い毛並みに黒の斑点が見えるのでダルメシアンの血が入っているのかもしれない。顔が半分は白で半分は黒い。仮面をかぶっているようだ。話をしながら犬の後を追って丘の上に出た。犬が尻尾を振りながら待っていた。丘の上には空き家がある。この空き家は毎週火曜日にやっている僕のヨガ教室に使っている。もう足掛け十年にもなるだろうか、この空き家に友人は二ヶ月ほど逗留したことがあった。そのときのことを思いだしているようだ。懐かしそうに眺めている。そのころ友人は頭髪も髭も切らない靴も履かないで裸足だった。四年も南太平洋を裸でうろついていたので日焼けして肌は褐色だった。八木山でならまだしも天神の街もそのように歩くので一緒にいて少し困った。
 友人は航空自衛隊を退官して、青森から四一フイートほどのヨットに乗って太平洋を横断して世界一周の航海に出た。このときにはまだクルーも四、五人は乗っていたようだ。太平洋の真ん中で故障してミッドウエーに寄港して修理したらしい。ミッドウエーは軍事基地なので普通なら入港できないが、できたようだ。ハワイのパールハーバーでは軍司令官が戦友として軍の歓迎パーティで迎えてくれたらしい。友人が三沢基地の司令をしていた当時、アメリカ側の司令だったようだ。それからアメリカの西海岸に着くまではどうにか予定通りの航海だったようだが、それからはクルーが一人もいなくなった。もうこれ以上の船旅は嫌になったようだ。仕方ないのでヨットでの一人旅が始まったらしい。パナマ運河の入口まで行ったようだが、世界一周はやめにして、一人、南太平洋に向けて舵を切ったようだ。それから四年ほど南の島をあちこちチョロチョロしたようだ。そういえば彼の犬の名はたしか「チョロ」だった。この間のことは後日、友人は航海記録として文章にしたものをコピーして僕もいただいたのだが、パラパラめくってるうちに、ヨット乗りの友人が、これは大切な資料になるから、ちょっと読ませてくれと言って持っていった。引っ張りだこで回し読みされて、どこに行ったか、それきり帰ってこない。だから僕はパラパラめくっただけで読んでいない。友人の太平洋一人旅の記録は題名が、たしか、「一人ぽっちの太平洋戦争」だった。一か所だけ記憶している。太平洋ではヨーロッパやアメリカのヨットと出会うこともたびたびらしいが退役軍人もその中に多いようだ。海ではすぐに友達になる。ヨットでの食事は簡単料理だが話ははずむ、仲良くなると遠慮もなくなる。
「お前らの船や飛行機はこの辺りにたくさん沈んでいる」と誇らしげにいったようだ。この男、たまたまイギリス人だった。
 数年前まで三沢基地の司令をしていたヨットマンは「チャーチルが虎の子のプリンスオブウェールズとレパルスを沈められて泣いたのを知っているか」とやり返したらしい。
 この二隻はイギリス海軍のシンボル的な新鋭戦艦でドイツの戦艦ビスマルクを撃沈したことで有名だった。海軍大臣兼首相として第二次世界大戦中のイギリスを主導したウィンストン・チャーチルによってシンガポールに向けて送り込まれたが、初戦で日本海軍の陸上攻撃機の魚雷で二隻とも撃沈された。
 その友人が四年間の航海を終えてマレーシアを最後の寄港地にして日本に帰ってきた。博多に入って来た時には僕はヨットを出して玄界島の近くまで迎えに行った。クルーが一人乗っていた。ハーバーに入ってあらためてお帰りなさいと再会を喜んだ。日本を出る前に僕がプレゼントしたフォグホーンが舵の横にあった。ワッチ交代のときに鳴らしたそうだ。四年間、身近に置いてくれたようだ。キャビンの中には本があふれるようにこずんで見えた。一人いたクルーは小太りだがどこかで見たような顔をしていた。橋本龍太郎が日焼して太ったようだ。龍太郎は死んだが彼の従兄弟だった。若いころは同じ敷地に住んでいたらしい。三人で、いろいろ話しているうちに博多から青森までの回航に同乗することになった。その間の航海はおもしろいことがたくさんあったが長くなる。
 太平洋をウロウロした友人は、日本に上陸しても家に帰れなかった。四年の間、奥さんも家庭もほったらかして遊んでいたので奥さんが家に帰ってこなくていいと言うらしい。子供たちもお母さんと同じ気持ちだそうだ。それはそうだろうと思った。それで、八木山に来ることになった。丘の上の空き家で二ヶ月ほど逗留することになった。二ヶ月してこんどはシンガポールに飛んでいった。二年そこで暮らした。犬が唯一の家族だった。ヨガの先生が近くにいたのでヨガの勉強をしたようだ。ヨガの瞑想を経験するためにタイのお寺に籠って修業したりもしていたようだ。
 そのうち奥さんが体を悪くしたので介護のために犬と帰国した。田舎に住まいを移して今は田園生活で奥さんの介護の日々ようだ。本が読むことができない奥さんに毎日一時間ほど朗読して聞かせているそうだ。奥さんの書棚にあった本を朗読しているうちに、自分は読んだことがないジャンルの小説などに興味がでてきて、いつの間にか自分が楽しみで読むようになったらしい。声を出して読む経験をして黙読とは本の理解が全く違うことにも気づいたそうだ。
十時ごろ訪ねてきたのだが、お昼の時間になっても話が尽きない。昼を食べに出かけるのはやめにした。近所の農家の人からもらった甜瓜が冷えていたのでそれで済ました。話の途中で、僕に志賀直哉を読むように言いだした。この作家のはいい。山崎豊子のがあったけど、あれはくだらん。志賀直哉は読んだ方がいい。彼は朗読して初めて読んだらしい。なぜ勧めるのか分からないが、我々に欠落している何かを気づかせてくれるのかもしれない。彼から勧められた本はW・S チャーチル著「第二次世界大戦」いらい二度目だ。昨日さっそくインターネットで注文した。志賀直哉随筆集 (岩波文庫) 小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)送料含めて七六〇円、中古でも新品のようなのが送られてくる。楽しみだ。
平成三十年九月六日