ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

きのう居合の道場で来年の干支人形をいただいた。

道場に通っている門弟の人形師、中村信喬さんの工房から提供されたようだ。

今年の干支、申の横に来年の酉がひかえている。古備前の船虫花瓶に、朝早く咲きはじめたスイセンと撮った。

白い花をとって来るように、たのまれたのでツバキを切ってきたら
窓からスイセンが見えたようで、スイセンになった。


きのう、午前中はエッセイ教室だった。
原稿は、先日のコメントにあった「赤ずきん」さんへの返事とした。


     「赤ずきん」さんへの返事             中村克博


先日の僕のブログにコメントがついていた。その文は「瀬戸焼のインク瓶」との題で、江戸末期の剣術道場の様子を小話風に書いたものだ。
題目のあと見出しには、
「いつの時代にも同じようなことがあるもんだ。話しの導入部分に苦労した。本題は後半からになる。途中、新影流の影目録の原文は読みづらい、意味も解らんので読み飛ばすしかない」として、インク壺にいけられた花の話から始まる。そして、いきなり話が戦国時代の上泉秀綱の新影流が形成される段にとんで、すぐに難解な文章の引用がつづく。このブログの主題は、「柳生石舟斎の時代から二百年ほど、徳川幕藩体制のもとで平和な時代がつづいた西国のとある外様大名の城下でのできごと」であるのでこれ以降が筆者の言わんとするとことであった。
                     
コメントはこのようだった。
赤ずきん 2016/12/12 00:22
一律決めつけ&一方的な公開メッセージはアンフェアと考えますし、内部の方が披露するには、聞かされる者は少々不愉快です。何故、これに至ったかの経緯と考え方も公開すべきと思います。

 コメントを読むと、僕の一文を三〇〇年前の江戸時代、ある西国雄藩の剣術道場でおきたできごと、とはとらえていない。もちろん僕も現実に自分の道場で起きたことを筆者の視点から江戸時代の小話風に書いている訳だが、それを読んだ人が少々不愉快に思ったのであれば、申し訳ないし、謝らねばならない。自分の所属する道場を貶める目的はさらさらないのだし、書いた趣旨に反するからです。

 それにしても、三〇〇年前の江戸時代と言えば西暦一七一六年ころですが、ちょうど佐賀鍋島藩の山本常朝が「葉隠」を口述した時期になります。さらに室鳩巣が「名君家訓」を著したのが西暦一七一五年で、この本は正徳五年に刊行されるや武家社会に好評で、翌年から享保の改革に取り組んでいた徳川吉宗が側近の者たちに同書を推奨してから爆発的に読まれることになり、江戸城に登城する幕臣たちは皆、これを懐中にしていたそうです。
 いったいこれらの本にはどんなことが書かれていたのだろうと思うのですが、「葉隠」は「武士道とは死ぬことと見つけたり」というフレーズが有名ですね …
僕は、同書の原文は見たことはないし読めもしないので、ある研究者が解釈したものを引用することにします。

すなわち同書は主君の命令に対する恭順を説いたのち、「さて気にかなわざることは、いつまでも、いつまでも追訴すべし」、すなわちどうしても自己の信念に照らして納得できない命令であったなら、主君に向かってどこまでも「諫言」を呈して再考を求めるべきであるとする。
そして「主君の御心を入れ直し、御国家を固め申すが大忠節」と、たとえ主命であっても悪しき主命に対し無批判に従ってはならず、主君の間違った心構えを正しく直し、一藩を堅固に建設するように努力することこそ大忠節と言うべきものだとしている。

ここで引用した研究者とは笠谷和比古、一九四九年生まれの日本の歴史学者国際日本文化研究センター名誉教授。専攻は日本近世史・武家社会論。文学博士(学位論文「近世武家社会の政治構造」京都大学、一九九四年)。
彼によると、「武士道とは死ぬことと見つけたり」の一句は、実は逆説である。なぜなら同書はそれに引き続いてこう述べているからである。というのがあった。以下それをそのまま引用します。

   武士はそのような心構えを堅持することによって、はじめて「武道に自由を得、一生落度なく家職を仕おおすべきなり」と。すなわち武士は生への未練を断って徹底的に死に身になりきるならば、そのとき生死を超越した自由の境地に到達することになる。そしてこの自由の境地を得たとき、もはや武士は何ものをも恐れることなく一生落度なく自己の家の業(奉公の勤め)を成し遂げることができるということである。武士道とは無意味に死を強要するものではなく、武士としての一生を、いかに理想的な形で無事に生き抜くことができるかということを、本質的な課題としていたのである。

原文はおろか、このような解説書でも僕には理解するにむつかしいが、要するに、主君に対し議論するとか反論する訳ではない、言いにくくても自分が正しいと信ずることを、いつまでもいつまでも追訴すべし、それが大忠節とあるようです。しかし、よほど大人物の主君でないと、それこそ切腹もんで「死ぬことと見つけたり」になるかもしれませんね。

それでは、徳川吉宗の推奨したという室鳩巣の名君家訓には君臣の関係をどのように説いてあるのか、これも同じ著者の本から引用します。

    すなわち、君臣ともに「善に進み、悪を改」めることを第一義とし、
そのための手段としての「異見」「諫言」の必要を冒頭に掲げる。「君たるの道にたがい、各々の心にそむかんことを朝夕おそれ候。某の身の行い、領国の政、諸事大小によらず少しもよろしからぬ儀、又は各々の存じよりたる儀、遠慮なくそのまま申し聞かせらるべく候」と。
次に同書は臣下に対して節義の士たるべきことを求める。室鳩巣は 理想の武士像を次のように描き出すのである。
 節義の嗜みともうすは、口に偽りを言わず、身に私をかまえず、心をすなおにして外に飾りなく、作法を乱さず、礼儀正しく、上にへつらわず、下をあなどらず、己が約諾を違えず、人の艱難をみすてず(中略)さて恥を知りて首を刎ねらるとも、己がすまじき事はせず、死すべき場をば一足も引かず、常に義理を重んじて、その心は鉄石のごとくなるものから、また温和慈愛にして物のあはれを知り、人に情けあるを節義の士とは申し候
 そこからさらに進んで、主命と臣下たる個々の武士の判断が背反した場合について、次のように論断する。
 惣じて某が心底、各々のたてらるる義理をもまげ候ても某一人に忠節を致され候へとはゆめゆめ存ぜず候、某に背かれ候ても、各々の義理さへたがへられず候へば某において珍重に存じ候
すなわち私の真意は、各自が堅持している心情を曲げてまで、私一人に忠節を尽くさねばならないとは少しもおもってはいない。たとえ私の命令に背くようなことになろうとも、各自が自己の信念を踏み外すことがないのであれば、それは私にとっても誠に珍重であると思うのであるとして、ぶし個々人がおのれの抱く信条に則って行動することを尊重し、それに基づく抗命を肯定するのであった。
    近世の大名家の組織は、タテ型の統合秩序であるにもかかわらず、その内部に成員「個」としての自立性を独特の仕方で内包していた。この「個」としての自立性に基づく主体性、能動性を個々の成員が有しているがゆえに、この組織は強力なのであり、そのことはとくに危機的な状況に遭遇したときに、その対応能力の高さとして現れることになる。

以上、とても長い引用になりましたが、僕のブログへ「赤ずきん」さんからいただいたコメントへの返事に代えせていただこうと思います。自分の言葉では、とても説明ができそうになかったので、こんな方法をとりました。

平成二十八年十二月十四日