ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

今日の午前中はエッセイ教室、夕方から居合の稽古。

エッセイのあと忘年の食事会、孫の自転車引き取り、
それから散髪そして居合の稽古、いそがしい一日だった。

居合の道場に外国の見学者が訪れた。マイク師範がお相手をしていた。

摩利支天の掛け軸の説明に興味をもったようだ。


今日のエッセイは先日の玉名の旧家訪問を書いた。
旧家の納戸から刀剣が …              中村克博


 先週の朝九時すぎ八木山の自宅をでた。九州自動車道福岡インターまで三〇分、そこから菊水のインターまで一時間弱、ときおり小雨が降る曇り空を玉名市の待ち合わせ場所をめざした。途中、広川のサービスエリアで休憩して予定時間どおりにレストランマイアミの駐車場に入った。小雨の下を箱嶌さんの後ろ姿がみえた。ちょうどレストランの中へ入るところだった。予約席であらためて松本夫妻と箱嶌さん、我々夫婦は挨拶を交わした。
 熊本県では明治から昭和前期にかけて建てられた近代和風建築が県内にどの程度残っているのか調査しているそうだ。在来の伝統的な技法や様式の保存と活用のために調査を行っているらしい。それで家屋を解体したくてもできないようだ。訪問する旧家は松本さんのご主人の生家で今は誰も住んではいないが、ご主人が月に一度、福岡から部屋の風通しに帰っているらしい。  
巨大なリュウゼツランが四株、玄関を守るように、いや塞ぐように育っている。おまけに、その横のソテツも一階の屋根より高く生い茂って、僕はリュウゼツランの釘のような刺を避けながら玄関の広い軒下に入った。玄関は閉まっていたので勝手口から入った。台所の土間に井戸があり、推察するに昭和初期の手漕ぎポンプが井戸蓋の上に鎮座していた。この家で目にする最初の文化財だ。いくつかの和室を通り、仏間の奥に十畳二間つづきの座敷があった。
欄間の鴨居の上にタブロイドほどの写真が額に入って掛けてあった。体格の良さそうな武士と幼少の男児が端座している。髷を結って脇差を差している。男児は四、五歳ほどだろうか腰の脇差が大刀のように大きく見える。ひろく剃り上げた頭に髷がチョコンとのって、小さな口をポカンと開けて、となりの厳つい顔とのつり合いがいい。松本さんのご主人のお祖父さんだそうだ。明治三年、高瀬に「すがた写し」という人が来て船着き場に畳を敷いて撮ったらしい。よく見ると厳つい顔のうしろに背もたれのある椅子があり、その上に刀が置いてあるようだ。
鴨居にそって目を移すと床の間がある。素朴な感じの床柱が目についた。くすんでいるが黒柿だ。しかも木目が稀有な孔雀杢に下から上まで覆われている。縞目や真っ黒いのはよく見るがこんなのは初めてだ。しかも天井が高いので四メーターほどもある。床板は欅の一枚ものだが特別な木目は出ていなかった。上品な筍杢の板目だ。床脇の框(かまち)には玉杢がびっしり出た銘木だった。廊下に出ると杉か檜の丸桁(がぎょう)が大きく長く伸びているが、これは特別にとりあげるほどではない。昔の裕福な家の造りだが、住む人がいなくて久しいと傷みは早いようだ。

松本の奥さんが座卓の上に新聞紙を敷き始めた。ご主人が長い刀箱を抱えてきた。奥さんは穢れた怖い物でも見るように部屋の隅に遠くはなれて立っている。僕の奥さんは座卓の端に座って神妙にしている。箱嶌さんが座について、それをはさんで松本さんのご主人と僕が座った。箱嶌さんが箱の蓋を開けた。箱書に昭和十二年〇〇〇○○〇本阿弥光遜とある。白鞘の刀が二本入っていた。鞘書きはない。箱嶌さんは、軽く刀にお辞儀をして、刀身をよく見る前に目釘をとって中子を見た。「国光」と読める。二文字の上に目釘穴がある。刀身を拭って打ち粉を打って磨き、丁子油を塗ってまた拭う。何度か繰り返して、おもむろに光にかざして肌目をみている。
「すばらしい刀ですね」
「そ、そうですか…」ご主人、声が上ずっている。
「太刀銘に国光とある。粟田口国光、相州新藤五の流れをくむ刀工、西暦で一五〇〇年代ころの作だと思われますな」
 箱嶌さんは刀に一礼して鞘に納めた。
僕は作法もそこそこに刀を受け取り拝見した。長さは二尺三寸ほど、元幅は三センチもない、はばき下に生刃が残っているので砥ぎ減りではなく珍しいほど細身の太刀で気品がある。小切先で反りが浅く定寸の長さはあるが軽い。小杢目がよく詰んだ小糠肌、細かく光る沸のついた細直刃で、朝霧が明るく冴えた風情ともいわれる。
僕は両手で斜め正眼に構え、鎬すじを切先までたどり、
「お公家さんの佩刀にこのようなものが多いと聞きます」
「高禄の御隠居が愛用しそうですな」
箱嶌さんはそう言いながら、次の刀を両手で捧げ頭をさげた。
「申請すれば特別保存刀剣まいがいないですね」
「そうなのですか…」と松本の奥さんが呟く。
「貴重な美術品ですね。代々伝えんといかん」
「そんなに価値のあるものですか」
「今の値段で、床の間の黒柿より高いかもしれませんよ」
 床柱の具体的な金額については口にしなかったが、黒柿の床柱は、普通の長さ三メータでも百五十万円以上はするだろう。それが二間の長尺で孔雀杢が上から下まで、値は如何ほどか想像がつかない。しかし刀の金額的な価値も大切だが売り買いするのでなければ、このような美術工芸品として歴史的に重要な意味のある文化財が代々家に伝わることにこそ価値があるのではないだろうか。このような価値はお金では買えない。その家に伝わる固有の文化であるし祖先から継承するたましいでもある。飛躍だが、それは国のありようにつながり、お国柄の土台になっているものかもしれない。
ところで西暦一五〇〇年代と言えば、
永正 1504〜1520   1516  北条早雲が刀を大社に奉納する
大永 1521〜1527   1523  寧波の乱
享禄 1528〜1531   1531  享禄・天文の乱(浄土真宗本願寺宗門の内紛)
天文 1532〜1554   1543  種子島に鉄砲伝来
弘治 1555〜1557   1555  川中島の戦い
永禄 1558〜1570   1560 桶狭間の戦い
元亀 1570〜1573 1570 〜 石山合戦
元亀         1572 三方ヶ原の戦い
天正 1573〜1591   1575  長篠の戦
天正         1579 〜 第一次天正伊賀の乱
天正         1582  本能寺の変 織田信長自害
天正          1585  豊臣秀吉が関白となる

影流の創始者である愛洲移香斎は享徳元年(1452)に生まれ天文七年(1538)に没し、新影流をおこした上泉秀綱は永正五年(1508 )に生まれ天正五年(1577 )に没した。戦国時代の剣法はいかに敵を殺すかの修業であったが、上泉秀綱は影流、神道流、念流を学び独自の新影流、戦わずして敵を制する活人剣を完成させた。
そして上泉秀綱から新影流を継承したのが柳生宗厳で大永七年(1527)に生まれ慶長十一年(1606)に没した。その宗厳が黒田長政の仲介で徳川家康に招かれ無刀取りを披露したが、このとき父にしたがい家康に謁見したのが柳生宗矩であった。宗矩はこの縁で家康に仕え、徳川将軍家の兵法指南役として、将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)を確立し柳生藩初代藩主となる。柳生新陰流の流儀は、いかに殺す剣法から戦わずして制する活人剣にかわっていたが、実戦で刀を使うことがなくなった江戸時代はさらに武士が人格を涵養するための道に変化していった。
しかし幕末には新選組や勤王の浪士、それから戊辰戦争から西南戦争にいたる戦乱をへて、剣法はどのように変化したのだろうか、さらに明治大正と戦争の時代が続き、昭和初期には陸軍戸山学校軍刀操法を戸山流として制定した。そして太平洋戦争、大東亜戦争の敗戦から七十年、日本はアメリカ軍の抑止力の影で戦争とは無縁な時代が続いた。これはあたかも江戸や大阪や博多の町人が武士に守られていたのに似ている。明治維新で武士はいなくなった。そして、トランプ大統領アメリカ軍がいなくなれば、これから日本は国軍が自国を守ることになるが、戦わずして敵を制するには、そして、これからの居合剣法はどのように変化していくのだろう …
平成二十八年十二月二日