ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

明日はエッセー教室がある。

久しぶりにエッセイを書いた。三年も小説を書いていたのでとまどった。
明日は夕方から、居合の稽古もある。題材を古流剣術の理合とした。
やっとこさ、書き終えたので、一日早いがUPした。


    古流剣術の理合 中村克博


 居合を習い始めて六年が過ぎた。何が動機で始めたのか思い出せない。日本刀に興味があったのか、武士の精神性というか漠然とそんなものに触れてみたいと思ったのかもしれない。
インターネットで福岡の居合道場を検索した。福岡黒田藩伝柳生新影流柳心会という道場が大濠の福岡武道館にあるようだ。毎週金曜日に稽古があっている。宗家は第十四代長岡源十郎鎮廣とある。ここが良さそうだと思った。さっそく事務局に電話すると気さくな感じのいい応対だった。

それから六年すぎた。憧れの日本刀は手に入れた。気に入ったのも数振りあるが武士の精神性、それは未だに解らない。ただ時代劇のチャンバラ場面を見るとき、いろんなことに気が付くようにはなった。

居合には、いくつもの流派がある。兵法三大源流とは念流、神道流、陰流を言うらしいが、それが多くの分派に分かれて今ではいくつあるのか定かではない。そしてそれが、それぞれに自分こそが本流である宗家であると自称するのはおもしろい。
出自の根拠が人間社会ではよほど大切なようで、国と国では領土問題に発展する。中国が尖閣諸島の領有権を言い、ロシアがクリミアを取り込むのも、日本が北方四島を返せと言うのもこれだ。そうか、出自の根拠は歴史の認知でもあるようだ。
歴史は同じ出来事でも見る立場で解釈や評価も違うのは当然なのだが、どうしても一方が都合の良いように決めようとする。そして問題が起きる。双方の利害の調節で解決する場合もあるが、多くは武力の背景がものを言うようだ。平和剣法の現代の居合道ではそのような方法は漫画にもならない。
ならばどうするかだが、いい考えがある。本流を主張する道場を一堂に集め真剣で立ちあわせる。勿論、斬りあうのではない。黒田の殿様をお招きして筥崎宮とか大宰府天満宮の広い境内で各流派を代表する師範たちが同時に並んで演武を披露する。神社の宮司や県知事それに茶道や華道、能や歌舞伎の伝統芸能に関係する人も招待するといい。テレビやネットでも放映する。これを時々やれば、おのずと本流が分かると思うのだが…
もうひとつ現実的な方法がある。昔のジョン・フォードアメリカ西部劇やN H Kの大河ドラマのように物語を作ればいい。多くの人が感動すれば、また同じものを何度も何度も繰り返し見ていれば事実でなくても歴史として認識される。創作された物語がその国の歴史を作ってきたのを思いだせばいい。ホメロス叙事詩シェークスピアの演劇、近松浄瑠璃や歌舞伎のように…
しかしいくら出自が正統でも門弟の数が多くなければ話にならない。数は支持なのだ。世間の支持が多ければ、それが世間の認める正統になる。なぜなら出自の正統は世間の支持を得るための手段の一つだからだ。目的は世間の支持なのだ。目的が確保できれば手段としての方法などどうにでもなる。神社の奉納も公式行事への参加も黒田家の墓掃除も同じ手段だと見れば分かりやすい。
ならどうするどうすれば本流に水を集められるかだが、そんなこと企業競合の熾烈な市場獲得の戦いからすれば簡単なことだ。しかしマーケティングの話をしなくても、居合そのものが兵法なのだから活人剣などと呑気なこと言わずに彼我の特徴を知り、敵の弱点に間合いを取り、こちらの得意とするところに持ち込み一刀に屠るの理合がいる。敵の弱いところと我が方の絶対優位の理合をまずは兵法することが先決ではないだろうか…
平成二十八年四月十五日