天気がよくて、鵜戸神宮からは海が遠くまで見わたせた。
この地では古代より修験道の修法が行われたが明治以降は神道式に変えられた。
祭事の中でも、皇室の弥栄(いやさか)と安泰を祈る2月1日の例祭は
年間で最も重要な祭事であるそうだ。
天皇家からの贈り物は日向灘に向かって神事がなされた後に本殿にむかう。
祭典の前に行われる福岡藩伝柳生新影流柳心会の居合奉納は
13代蒲池宗家から14代長岡宗家へ続く40年以上の恒例行事になっている。
柳心会の居合奉納は長岡宗家の四方払の後、始まる。
この四方払は、福岡藩伝柳生の正統な継承者が行う神事の作法だ。
柳生家が将軍家剣術指南役となるきっかけを作っている。
柳生宗厳(石舟斎)は徳川家康の師範となって息子宗矩を徳川家に
推挙し柳生家が大きく飛躍する切っ掛けを作った。
大和柳生初代藩主となった柳生宗矩は将軍家御流儀としての柳生新陰流
(江戸柳生)の地位を確立した。
伊勢の兵法家、愛洲久忠(移香斎)享徳元年 1452年 - 天文7年 1538年 は
若い頃に九州や明国まで渡航したという。
愛洲久忠・移香斎は36歳のとき鵜戸の岩屋に参籠して霊験を受け、
今に伝わる剣術の妙技を開眼し影流の始祖とされている。
その愛洲移香斎を師としたのが剣聖といわれる上泉信綱で新影流(陰流)
を成した。福岡藩伝柳生新陰流14代長岡宗家はその流れを正統に汲んでいる。
柳生宗厳が伝えた新陰流は一般には柳生新陰流と呼ばれることが多い。
しかし、これはあくまでも俗称で、正式な流儀名は新陰流である。
上泉信綱からの流儀名「新陰流」をそのまま伝えている。
黒田藩の指南役三宅源八郎は江戸柳生の柳生但馬守から続いているのだが、
福岡県立博物館に所蔵される、黒田藩の指南役三宅源八郎が発行した免状には
柳生新影流と「影」の文字が使われている。
そのためか、それを直系に継承した13代蒲池宗家から14代長岡宗家に伝承された
福岡藩伝は現在も柳生新影流柳心会として新影流の文字で活動している。