ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

   わびすけ

*昨日は午前中、エッセイ教室にいった。
エッセイ教室の忘年会だった。夕方からは居合の稽古なのでノンアルコールビールを飲んだ。
近ごろのノンアルコールビールは本物よりうまい気がした。
エッセイ教室の忘年会が終わって、道場に行こうとしたが気が変わって八木山に帰った。


わびすけ                        中村克博


 露地の侘助が咲きはじめている。先週、お茶の稽古のときに一枝とって使った。葉を三枚残して一輪を徳利に差してみたが寂しい。色づいたドウダンツツジを添えてみた。映えが強いので燃えるような葉が静まるまで間引いた。侘助の垂れすぎた頭を少し起こすと思ったよりいい感じになった。床の間に花をいけている間に、稽古相手の同年輩の従兄弟は炉に炭を熾していた。

母が茶室に来なくなって随分になる。それまでは杖を突いて自分の部屋から茶室までひと足ひと足歩いて、疲れると途中立ち止まって木の枝をながめたりしていたのだが、石段を上がるのが大変なようで茶庭の飛び石を歩くのが見ていて危なっかしくなった。二時間ほどの稽古に姿勢を崩さず同席しているのは無理になった。

炉の茶釜がたぎる音が聞こえ、床の花と掛けられた文字にお辞儀をして、いつもなら母がいる畳に一礼して稽古を始めた。
稽古相手の従兄弟が薄茶を飲み干して、
「お茶の稽古を始めてもう十年やな」
「もうそげんになるかね 〜」
 従兄弟は客席に正坐して右手の指を折りまげながら、
「うん、来年は九年目バイ、足掛け十年たい」
「俺は、ようまぁ、怒られたな」
「はは、親子やけんな」
「あんたは、覚えが早い、俺はなかなか覚えきらん」
「いやぁ、それでも所作はきれいになったよ」
 茶碗の水を建水にかえして、
「いろいろ聞くと。小癪なこと言わんで言われたとおりにしなさい。ち言われたよ」
「はは、写真撮っても、よう怒られよったな」
 道具の拝見が終わって、今度は僕が客席についた。

 そういえば習い事の心構えとして、肝に銘じておこうと思ったことがある。先週の二十三日は勤労感謝の日で祭日だった。藤田師範が昼から八木山に出向いてくださり居合の稽古をした。参加者は僕一人だったので個人指導をみっちり一時間半ほど受けることになった。福岡黒田藩伝柳生新影流柳心会の基本刀法から奥入りの技まで、丁寧にみてもらった後、休息を少しだけとって、古式の技を数本習った。
藤田さんの居合との出会いは、まだ若いころ、戦後間もない二十代のころ、先代の蒲池宗家から職場で仕事の合間に習ったのが始めらしい。藤田さんの職場が蒲池宗家と同じところだった。仕事が終わって、倉庫の片隅に木剣を持って出かけて習っていたが、そのうちに正式に蒲池道場に入門した。それ以来、木剣と真剣を身近に置いての居合人生が始まったようだ。中年になって自分で事業を起こしてからの二十数年は居合の道場から遠ざかっていたが、一人でやる個人稽古は毎日、毎日、欠かさず続けていたようだ。
六十歳をすぎて再度、福岡の柳生新影流の道場を訪れ蒲池宗家の跡を継いでいた十四代長岡宗家の道場に入門したらしい。二十数年ぶりに道場での稽古を見て、昔と変わっている技があるのに驚いたらしい。自分の知らない技が幾つもあるのにも戸惑ったようだ。当初は教えられる技に納得できずに悩んだこともあったようだが気持ちを替え初心に帰って稽古に励んだようだ。そして今は十四代宗家のもとで免許皆伝を伝授されている。
八木山の藤田道場は十四代宗家から特別に認可された柳生新影流の道場で、毎月第二と第四日曜日の午後二時から始まる。福岡の新影流道場で習う技を一時間半ほど稽古した後で休息をする。藤田さんは気兼ねそうにタバコの火をつける。僕は気がねしながら後ろの窓を開けるが煙は窓から出ずに道場に拡散する。いろんな話を聞く、口伝とはこんな会話の中にもあるようだ。
一服が終わると古式の技の指導を受ける。今の流儀にはない昔の技や、今の型になった原型のような技を習うのが楽しみになっている。藤田さんの知っている古式の数はそんなに多くはないようだが、これまで僕が習って身に付いた古式の技はまだない。

代々受け継がれる居合の技が時代と共に変化していくのは仕方のないことだと思う。幕末の山岡鉄舟若年寄として、攻めてくる官軍陣地に単身おもむき西郷隆盛駿府談判をおこない江戸城無血開城するが、明治五年には宮内侍従として明治天皇に終身御用掛として仕えた。剣豪としても偉傑といわれ剣禅一致を求めたが主要な文言を収録した「剣禅話」のなかに、
「吾れ密かに思いらく、世人剣法を修むるの要は、恐らくは敵を斬らんが為の思いなるべし。余の剣法を修るや、然らず。余はこの法の呼吸に於いて神妙の理に悟入せんと欲するにあり」と・・・。
文言はまだまだ続くが、要するに剣は人を斬るための修業ではない、心身練磨の術を積むことだと言っている。戦乱の世、人を斬るための剣が徳川二百五十年のあいだに変わっていたのだろう。
また、徳川家康から秀忠、家光の三代の剣法師範役、柳生宗矩の「兵法家伝書」に、
  「兵法は、人をきることばかりおもふは、ひがごとなり、人をきるにはあらず、悪をころすなり。一人の悪をころして、万人をいかすはかりごとなり。今、この三巻にしるすは、家を出でざる書なり。しかあれど、道は秘するにあらず、秘するは、しらせむが為なり。しらせざれば、書なきに同じ」
また、時代は上って室町初期、世阿弥の「風姿花伝」には、
  「秘する花を知ること秘すれば花なり。秘せずは花なるべからずとなり。この分け目を知ること、肝要の花なり。云々・・・」と。
 
藤田師範は今年免許皆伝を授与されたが、先日、宗家に今年の年末の稽古をもって引退する旨を表明して許されたようだ。八木山での道場は継続するらしい。先週の八木山で稽古を終えて雑談をしているときに藤田さんが道場での心構えとして僕に言った。
「中村さん、居合の稽古はね。あなどらず、おごらず……」
「僕は、そうしてますが、だいいち、いつまでも下手くそやし」と口をはさんだ。
「うん、そうたい。ばってん、まだある」
「なんですか、それは」
「考えず、たい」
平成二十九年十一月三十日