ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

思うまいとも思わない・・・               中村克博

 

 

黒田家傳の柳生新影流兵法柳心会に入門して十二年ほどになる。初めのうちはいかに速く刀を抜くか、そして技をできるだけ多く身につけることに興味があった。ところが、それが根本、考え違いだと最近になって思うようになった。二年ほど前、習得したはずの基本形の間違いに気がついた。一度身についた技の動きは修正するのがむつかしい。体が覚えたことを変えようと思っても、おいそれとは変わらない。初歩的な基本刀法の修正に一年以上かかった。

やっと修正できた動きに満足していた。悦に入って道場や自宅で稽古していると、数年して、あれっ!! と、別の間違い箇所に気づいて、がっかりする。これまでが無駄なようでがっかりする。それで師範に教えてもらいにいく。宗家に見てもらう。それから、また修正のための反省稽古を始めるのだが・・・ ひょっとしたら、この繰り返しが僕の居合の稽古なのだろうとかと思ってしまう。

そのころになって、「考えない」という教えに気づいた。理屈なしに、ただひたすら稽古をする。これは、只管打座、身心脱落・・・ 隠居老人の趣味の居合なのに少々大げさだが、道元の禅に通じるのかもしれない。道場での稽古は、わずか一時間半ほど、幾つかの型を続けて行う稽古は数分か十分二十分のことだが、稽古をしていると、ときたま、そのような何も見えない、考えない、頭が空っぽになっているときがある。心とか魂に、感情に稽古がとけこむような気がするときがある。ほんの一瞬だが・・・ もし、それが長くなれば剣禅一致の境地なのかも知れないが、僕の稽古では望んでもできそうにない。それでも、それをめざして稽古しようと思う。 ・・・あ、いや、何かを求めてはいけないのだった、それでは只管打坐とは矛盾するではないか、すでに「考えている」ではないか、思うまいとも思わない、でなければ・・・  

去年の後半から、私は道場での稽古は「組太刀」が多くなった。「組太刀」は木刀を持って二人が立ち会って稽古する。一人が「使太刀」、もう一人の相手が「打太刀」をつとめる。「仕太刀」は技を仕掛ける役目「打太刀」はそれを受ける役目になる。組太刀をしていて判ったのだが、私が体でおぼえた型の振り下ろした剣先は相手の居ない所を斬っている。これでは「居合」でなく、「居ない」だ。笑えない。晩年の貴重な月日に稽古の時間を惜しまねば(授かった身体髪膚に)申し訳ない。居合の稽古は基本、一人でおこなう。長年僕はそうしてきた。想念で相手を見さだめ、その動きに応じて間合いをとり目付をして、先の先、後の先と技をくり出すが、いろんな動作には序破急のめりはりが大切になる。が・・・ そうやって長年稽古しても斬った剣の下に、突いた剣の先に敵がいないのでは、どうする。やはり、組太刀をやらねばと気づいた。それと、技の動きはいたずらに速いのではだめ、緩急が大切。技は多ければいいのではなく宗家が承継する技を正確に師範から教わったように身につけるのが大切。剣さばきは「心をとめず、先をみる」と、宗家がいつも言われている。沢庵禅師の不動智神妙録にある「心をば放さんことを要せよ」これが居合の稽古がめざすとこなんだろう。

令和五年四月七日