ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

いつの時代にも同じようなことがあるもんだ。

江戸の末期のころの剣術道場の様子を小話風に書いてみた。
話しの導入部分に苦労した。本題は後半からになる。
途中、新影流の影目録の原文は読みづらい、意味も解らんので読み飛ばすしかない。


 瀬戸焼のインク瓶                    中村克博


床の間に白い椿の花が一輪いけてあった。器は明治から大正のころに使われていたインク瓶らしい。ペットボトルよりもう少し背が高く色は明るい茶色で耳が一個だけついている。瀬戸焼らしい。この時代にペンや万年筆のインクの容器として大量につくられたようだ。轆轤で作ったものではない。陶土を石膏の鋳型に流し込んで成形したようで瓶の表面にその痕が確認できる。
 機能美というのだろう。無駄をはぶけば形はシンプルになっていくのだろうが、それをうつくしいと感じるのはなぜだろう。時代をまたいで使われつづける道具は形がうつくしい。台所のフライパンや鍋も、工具箱のモンキーレンチやスパナも、机の上にあるハサミやナイフも … 
長い年月を重ねてきたものがうつくしいのは道具にかぎったことではない。五百年も続けられてきた茶道も稽古を積んだ人の所作はうつくしい。そういえば居合の演武もうつくしい。長い年月、修練を重ねた人の作法や所作は、なぜだかわからないがうつくしい。そこはかとない色気さえただよっているような気さえする。現代の社会生活を営んでいる我々が室町時代の兵法修行者にまねて修業や鍛錬ができるはずもないが、虚心坦懐に思いをはせれば夢想でもいい本物の武士の演武が見たいものだ。


第七回、歴史浪漫文学賞創作部門優秀賞受賞作、斎藤光顕著の「新陰流活人剣」によれば、次のような基礎資料を引用している。
上泉秀綱は松本備前守尚勝に鹿島神流を学んだ後、愛洲移香斎に景流を学んで新影流を立てる。柳生新陰流の祖となる柳生石舟斎宗厳には、無刀取りの考案を与え、完成させた。
新影流の神髄とは不殺の心だという。
影目録第一巻「燕飛」
影目録第二巻「三学」
影目録第三巻「九箇」
第一巻の「燕飛」は、燕飛、猿廻、山陰、月影、浦波、浮舟の六箇よりなり、燕飛を総称とした。
型はそれぞれ一つずつ行うのではなく、六箇続けて淀みなく流れるように演ずる。この巻において秀綱は、下記の新の陰流の理念を、形に代えて表した。
「倭においては伊弉諾尊伊弉冉尊より今日に至る一日もこれ無かる可からず。その中間、上古の流あり、中古、念流・新当流また陰流あり、その外は計るにたえず。予は諸流の奥源を求め、陰流において別に奇妙を抽出して新陰流を号す。予は諸流を廃せずして、諸流を認めず。
まことに魚を得て詮を忘れる者か。然るときには諸流の位、別に莫きのみ。千人に英たり、人に傑たるに非ればいかでか予が家法を伝えんや。古人なんぞいわずや、龍を誅する剣は蛇に使わずと」
さらに秀綱は新の陰流の神髄ともいえる「転」についてこう記した。
「懸待表裏は一隅を守らず、敵に随って転変して一重の手段を施すこと恰も風を見て帆を使い、兎を見て鷹を放つが如し、懸をもって懸と為し、待を持って待となすは常の事なり。懸懸に非ず、待待に非ず。懸は意待に在り、待は意懸に在り。牡丹花下の酔猫児。学ぶ者この句を透得して織る可し。もしまた向上人来たりなば更に不伝の妙を施さん」
 このような基礎資料はむつかしい文章のあと、第二巻の「三学」は、五つの太刀よりなる。「一刀両断」うんぬんと清流が谷川を下るように書き進んだとあるが、ここではそれを割愛する。
   第三巻「九箇」は「必勝」「逆風」「十太刀」「和卜」「捷径」「小詰」「大詰」「八重垣」「村雲」よりなる。これらは東の鹿島七流、香取神道流、鹿島神流、西の中条流、念流、京流といった兵法諸流派の秘太刀の奥源を採りいれ集大成したものだ。とかきしるしてある。秀綱はその「一撃必殺」を究極の技とする兵法を捨て去り「一撃不殺」の剣へと置き換えた。
活人剣の誕生である。そして、さらにこの技が柳生の里に伝わり柳生新左衛門石斎宗厳により新陰流を忠実に極められ代々継承発展させた。これが徳川家の兵法指南をつとめるようになる続きは明日の心だ。


柳生石舟斎の時代から二百年ほど徳川幕藩体制のもとで平和な時代がつづいた西国のとある外様大名の城下でのできごと、
御多分に洩れずこの藩でも長年の財政難は構造的なもので様々な施策も抗しがたく家臣の俸禄を削減するほどになっていた。当然ながら藩お抱えの剣術指南の道場への給付金も大幅な減額となって久しい。そのうえ戦など、物の本か草子にある昔話でしかない。往来での抜刀はおろか鯉口を切ることもご法度では武士でも剣術の稽古から遠ざかる。年々門弟の数は少なく授業料の収入もままならない。そこに、この道場は来年の春に創立百五十周年を迎える行事がせまっていた。藩の重臣や近隣の同門の道場や他流の主だった先生もお寺や神社のお偉い人もご招待してもてなし、贈答品も考えなければと、宗家も師範も頭をかかえていた。
そこで策士が登場する。宗家に提案した。在籍する門弟は百人はこえる。稽古にやって来る者は三十人にもならないが、このさい道場に顔を出さない者も含めて百人全員を一階級無審査で昇進させましょう。そうすれば審査料や免許登録料がのぞめる。幸い門弟には武士は少なく裕福な町人の子弟が多い昨今だった。
しかし、これでも資金は不足だ。なにしろ徳川家指南役からの流れをくむ道場としての面目があり不体裁なことは恩顧ある先代にも申し訳がたたない。それで策士はさらに考えた。免許皆伝の免状を乱発することにしよう。長年の功労者で自宅にまどろんでいる老齢な引退者を三人ほど選んだ。剣術好きの大店の御隠居さんも二人ほど推薦した。
それに、このさい師範候補者を一挙に四人ほど指名することにした。ただし、なぜか審査を受けるか否かは本人の意思に任せるとされた。これまで昇段審査もそうだが受険者は宗家が指名する。それを辞退する門弟はいない。まして高段者の師範審査なら指名と同時に任命でもある。
今回の最年長者は八十歳をこえ、昔は北前船の船頭で蝦夷の地までも出向いていたが、今は走ることも飛び跳ねることもできない。最近は技の名称を忘れることもしばしばだが道場を休むことはなく後進の指導が唯一の楽しみであった。もう一人は七十代の御隠居さんで刀剣の収集と物書きが趣味の藩士で武術家ではあるが今では古式理合の研究が道場での日課である。お二人とも長年道場に貢献されたが今さら師範でもないだろうと誰もが思った。もう一人は壮齢の剣士で寡黙で人望があったが藩の要職についており剣術三昧とはいかない。そしていま一人は新進気鋭の若者で道場では皆がみとめる稽古熱心な藩士だった。
ところが、この師範審査には資金集めとは別のおもわくが絡んでいた。別のおもわくとは取りも直さず新旧交代の勢力争いだった。後進にとって先達の重鎮がなにやかやと煙たいのは人の世の常、体制強化の妨げになると会心の秘策で小うるさい者共の排除をもくろんだのだ。しかし、もくろみに反して予期せぬことがおきた。一階級無審査昇進を潔しとしない門弟が昇進を辞退し、正式に次期の審査を受けることを希望した。それからは次々と辞退希望を表明する門弟たちが現れてきた。なにしろ該当する技をまだ教えられてもいないのに昇進するのは新陰流が地に落ちる所業、というより門弟自身の生きざまを自らに問うことになるからであった。
さて、師範候補者四名の方だが、その日は門弟が一堂に見まもるなか四人は道場の中央に並べられた。正面には宗家が端坐し両脇を高位の師範がかためていた。宗家の短い挨拶のあと、若い進行役の師範が技を読み上げ四人は一斉に抜刀した。初めの数本の演武はみごとだった。高齢な剣士は十本目をすぎるころから足の運びがおぼつかない。体の動きがたどたどしい。二十本目をすぎころ演武の途中から立ち止まって呆然と空を見つめるようになった。
「なんでこんなことさせるのか」という声が見まもる門弟の中から聞かれた。
「腹を切れということか …」という声がした。
「審査を辞退すればよかったのに …」という者がいた。
「それはできんだろう」と、ささやいた。
「敵前逃亡だからね。武士ならできんだろう」
 半月後に師範審査の結果が告げられた。三人は不合格、新進気鋭の若者が新しく師範の一人にくわわった。新しい師範には誰もが祝福を惜しまないが、これは始めから筋道が立てられていたとの噂がたっていた。
はじめ三人が辞退することを想定していた。ところが以外、負けるの覚悟で受けて立つという。どっこい三人は侍だったのだ。実戦で刀を使うことがなくなって二百年、江戸時代の後半では、兵法居合はいかに殺すかから、戦わずして制する活人剣にかわっていたが、さらに演武は武士が人格を涵養するための道に変化していた。この道場も今回の出来事でそれに気づいた。百五十年の式典は藩主の臨席をたまわり盛大にとり行われたそうだ。
平成二十八年十一月十七日