ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

秋になって今年もこの花が咲いた。

ふと見るとベランダに咲いていた。朝日に照らされていた。

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友人にもらったのだが、涼しくなると咲きはじめる。

昨日はエッセイ教室だった。人数がいつもの半分だった、さみしかった。

夕方の居合の稽古は休んだ。前日草刈りをして鎌で左人差し指を深く切った。

道場に行って宗家にその旨を話した。八木山の新米を届けて、そのまま引き返した。

 

貝原益軒を書こう 十二              中村克博

 

 

 黒砂糖やほかの交易品の積み込みは日の出とともに始まって一刻足らずで何事もなく完了したのだが、薩摩のジャンク船から小笠原藩への武士の朝餉の饗応の申し出があり、主だった面々がそちらへ出かけた。残留組は受け取った荷物をほどき検分して船蔵に積み込む作業に思ったより手間取った。久兵衛と根岸は残留組にまじって遅くなった握り飯を甲板の上で頬張った。饗応組がもどったのは朝日がかなり昇ってからだった。朝から強い酒を飲まされたようで顔の赤くなった武士たちが目に付いた。

小笠原藩の関船が丸亀藩に近い本島を出たのは正午に近かった。この日もほどよい西風でいい天気の航海だった。薩摩のジャンク船より一足先に出航したのだが豊島を過ぎるころに追い付かれ、小豆島の鮮やかな緑の山が夕日に照らされるころにはジャンク船の赤く染まった帆影は遠くに見えなくなっていた。日が沈むと風が変わって船がゆれた。甲板の上は帆の角度を調整するのに水主たちが慌ただしく働いていた。

 

久兵衛が根岸に言った。

「風が冷たい、下におりましょうか」

「そうだな、しかし、岡山に立ち寄らないのは残念だ」

「本島での出航が遅れて、予定が変わったのですね。このまま夜通し走り明け方には明石海峡を抜けるようです。潮目がいいのでしょうね」

「そういえば、岡山城天守台は安土城天主を模したものではないかと言われているそうだ」

「拙者は見たことがありませんが、外観は黒漆塗の下見板が特徴的で、烏城(うじょう)とも呼ばれるようですね」

「今の岡山城の主は池田光政公だが・・・」

儒教を信奉し陽明学者・熊沢蕃山様を招いて寛永十八年(一六四一年)には日の本初の藩校・花畠教場を開校しておられます。寛文十年(一六七〇年)にはこれまた日本初めて庶民の学校として閑谷学校も開くなど、教育と質素倹約を旨とする備前風といわれる風土をつくられておるようです」

池田光政公は水戸の徳川光圀公、会津保科正之公と並んで、三名君と称されているが・・・」

 

 二人は甲板を下りて船室に向かった。船では賄い方が夕餉の支度をしている。廊下には干物の魚を焼くにおいが漂っていた。歩きながら話は続いていたが根岸には気になっていることがあった。

 根岸が思い出したように、

鞆の浦で手合わせをした薩摩の武士は、どうなったのだろうな」

久兵衛は声を落として、

「今朝がた薩摩の船によばれた方々はいきさつを聞いたかもしれませんね」

「そうだろうが、拙者からたずねる事もできぬし、気になる」

「卑怯な振る舞いはなくとも切腹でしょうか、それと奄美の助かった一人はどうなるのかが心配です」

切腹は本人の判断でするものだ。奄美の者は薩摩が捕まえて、すべて露見するだろうが表には出せぬだろう」

久兵衛はうなずいて、魚を焼く匂いの方に鼻を向けながら、

「光政公は幕府が推奨し国学としていた朱子学を嫌われ、陽明学・心学を藩学として実践しておられます」

陽明学は自分の行動こそが大切であるとの教えだそうだな」

 久兵衛はうなずきながら、

「光政公は宗教面でも、神儒一致思想から神道を中心とする政策を取り、神仏分離を行なわれます」

「神儒一致思想とはなんだ」

儒家神道ともいいますが、神儒一致思想は林羅山によって唱えられ多くの儒学者に影響をあたえています。儒教の立場から神道を説く者は古くから存在しおります。北畠親房の『神皇正統記』や度会家行の『類聚神祇本源』などがそれで、清原宣賢神道説には宋学の理論が取り入れられています」

「う~む、むつかしいな、歩きながらでは意味が分からん」

「光政公はまた寺請制度を廃止し神道請制度を導入し、淫祠・邪教を嫌って神社合祀・寺院整理を行い、日蓮宗不受不施派を弾圧します。そのため備前法華宗は壊滅してしまう。しかし、こうした光政公の施政は幕府に疎んじられ、江戸では岡山藩謀反の噂が広まっておるようです」

「そうらしいな、この探査も貴殿に託された役目ではないのか」

武断政治は初代将軍徳川家康公から三代将軍徳川家光までの政道ですが家光公の時代には取り潰される藩が多く浪人が増え世間が騒然としております」

「まったく、そうだ、由井正雪の乱は昨年のことだ」

慶安の変とも言いますね。関ヶ原大坂の陣のあと多くの外様大名が取り潰されますが、その後、島原の乱を鎮圧した幕府はキリシタンの弾圧をさらに強化します。キリシタンと思わる大名や外様大名を徹底的に取り潰して、ますます浪人は増えます」

 根岸は合点したように、

「巷には多くの浪人があふれたのは、幕府から鎖国の方針が出され山田長政のように日本国外に出る道も断たれたことにもよるな。浪人の中には武士をあきらめ、百姓や町人になる者もいるだろうが、しかし、浪人の多くは御政道に不満を持つ者も多い、また盗賊や追剥に身を落とす者も存在しておる。まったく身につまされる思いだ。由井正雪はそうした浪人の支持を集めた、と言うよりは浪人救済を訴えることで御政道に自制を促そうとしたのかもしれぬな」

「そうかもしれませんね。幕府は増え続ける浪人に手を焼いております。いまも、いつ不満が暴発するか分からない状態です」

「その有様を、幕府の今後の動きを調べるのが貴公の仕事なのだろう」

 二人は部屋に着いた。賄い方が慌ただしく夕餉の膳を配置している。

令和元年九楽十九日