茶室のそばの大きな木を切った。
このままでは、さらに大きくなって風で枝が落ちたら屋根が壊れる。
貝原益軒を書こう 四十一 中村克博
それからも根岸はすれちがう上り下りの舟を食い入るように見ていた。佳代はその足元に横座りにうなだれていた。
舟方が気をつかいながら、
「お武家さま・・・ このままでは賊の舟には追いつけません。引き返して手立てを考えられてはいかがでしょうか」
声の方をふり返って、
「とりあえず、伏見まで行ってみよう。そこで諦めようと思う」
舟方が頭の傷から流れる血を右手でぬぐい、袢纏の左胸で拭き取った。
「先刻この舟を追い越していった早船はたぶん黒田様の御用船だと思います。船頭の顏に見覚えがあります。旗印がなかったので、おそらく隠密裏な動きがあるのではありませんか」
根岸が思いついたように、
「賊の舟は我らの動きを事前に知っていたようだ。襲撃が用意周到で手際がいい、得物の使いようも武士というより忍び者のようだ」
「賊が落としていった石飛礫が二つほど舟床にころがっています。印地うちをする者たちかもしれません」
根岸は遠くを見る目でなにか考えるように、
「印地うち・・・ いまだに、そのような者たちが・・・ 」
佳代が屋形に入って乾燥させたヨモギを手拭にのせて薬缶の水を注いでいた。舟方のところきてヨモギで止血をするように言った。
舟方は礼を言って手拭いで頭をおさえながら、
「棒を使うだけでなく投網や石飛礫を武器するのは鴨神社の神人かもしれません」
鴨神社・・・ 根岸は舟方の言葉で、ここ数日におきたいくつかの出来事が真っ直ぐにつながった気がした。公家の女人が大徳寺の門前からの夜道で柳生の武士たちに襲われた。人違いか身代わりか、助けられた女人をあずかったのが事の始まりだった。心神を喪失して動けない女人を背負って夜道を歩いた。あのときの、あどけない女人のやわらかい尻のふくらみが両手に残っている。
そのあくる朝、黒田屋敷で家老から思いもよらない密命を受けた。大徳寺の龍光院で公家と秋月の重臣を謀殺するようにと、場所や手引き、部屋のようすから方法まで指示された。黒田の家老と龍光院での老僧とは連携がとれていた。公家は造作もなく斬ったが秋月の武士は福岡の道場でよく顔を合わせていた手練れだった。根岸に自決を請うたができないとわかると狭い部屋で脇構えになった。暗黙の了解だった。合図のように首を少し前にだした。斬った。未練をすてた武士の無言のしるしと思った。暗殺の理由はあとから知ったが剣で身を立てる者に仔細はかまわない。
そして今朝の舟遊びで不覚にも公家の女人が拉致された。襲ったのは鴨神社の神人だという。一連の出来事は由比正雪の事件が根底にあることは龍光院の老僧に聞いたとおりだろうが、これから先もなにか起きそうな予感がする。腹を切ると言ったのは早まったかもしれない。しかし、武士に二言はない。
舟は鴨川から高瀬川に入り川幅三間ほどの狭い疏水を下っていた。上りの舟と出会うたびに根岸は中をのぞき込んだ。朝日が高くなったころ流れがひらけて遠くに伏見湊のにぎわいが見えてきた。日差しが強く湊の川面がキラキラ光っていくつもの船の影が見える。
湊には三十石船から十石船、帆のある船、二丁櫓を使う早船、竿をつかう舟が行き来していた。岸辺にはいろんな船が停泊して荷を積み下ろしている。船からの人の乗り降りが見える。道には荷物を積んだ大八車や荷馬車が行き交って人の往来にも活気があった。
根岸たちは湊を隅から隅まで二度ゆっくり往復した。賊の舟は見えないかと目を配ったが、それらしい船も人も見えなかった。佳代の案内で宗州が所有する蔵屋敷の近くに舟をとめた。根岸と佳代が舟をおりると舟方もついてきた。公家の女人をいっしょに探すと言う。手伝うと言ってくれるのは嬉しいが根岸は断って、事の成り行きを宗州に知らせてくれるように頼んだ。船方は、公家の女人が見つかるとは思っていない。それよりも腹を切るという根岸のことが気になっていた。
「お武家様、賊の舟は高瀬川に入らずに鴨川をそのままに下ったようです。いずれにしろ枚方からさらに大坂に向かっているのだと思います」
「そうかもしれんが、みどもは公家の女人がこの湊で下りた気がする。舟方はすぐに戻っていきさつを宗州殿に伝えてもらいたい。半日の舟遊びで出てきたのだ」
そう言って先に歩きだした。佳代があとにつづいた。舟方もついてくる。すれちがう人の中から姿の似た女人を見つけると根岸が近づいてのぞき込む。不審がる人、不愉快そうな人、連れの男がにらみつけることもあった。そのたびに佳代が頭を下げて詫びて歩いた。
たまりかねたようにうったえた。
「すれちがう人の中にいるはずもありません。おやめください」
佳代の言葉が耳に入らないようだ。船宿が並んでいる通りになると暖簾をくぐって中をのぞいた。奥から宿の女が出てくると佳代が代わって話した。それらしい女人はどこにもいなかった。根岸が路地裏に入っていった。佳代が寄り添うようについていった。その少し後ろから舟方がてくてくと歩いている。
根岸が立ち止まった。町家の格子戸をのぞいている。暗くて中は見えないがすぐに目がなれて誰もいないことがわかった。
佳代は悲しくなった。
「根岸さま、どうされたのです。そんなところに見つかるはずはありません」
根岸は歩いていた。道の先は路地が交差して明るかった。板塀から松の枝がのびている。空が青かった。根岸が歩くのをやめて空を見ている。佳代もそばで顔をあげると松の枝ごしに土蔵がみた。二階の分厚い漆喰塗の窓が開いていた。人影がチラリと隠れた気がしたが思いちがいだと思った。
「根岸さま、あの女人にそんなに思いをよせていたのですか、私がいながら」
「い、いや、そのようなことではないが、どうも、ここを、この場所を通ったような、そのような感じが、思いがするのだ」
舟方が近づいてきて根岸に言った。
「わしはこれで、引き返します。お二人はこれから三十石船で大坂までくだった方がいい。宗州様にはそのように伝えておきます」
佳代が舟方と根岸を交互に見て、はなやいだ声で、
「そうそう、それがいい。そうします。父にはそう伝えてください」
嬉しそうに、はしゃぐようにして銀の小粒を懐紙に捻って舟方に手渡そうとした。
「いやいや、お嬢様いけません。宗州様からいつも十分にいただいております」
それでも佳代が無理に押しつけて、お辞儀をして下を見たとき、大声をあげた。
「あっ、なんと、これは」
そういって、しゃがみ込んで何やらを手にとって見た。
根岸も舟方も何事かと佳代の手元をのぞいたが影になってわからない。佳代が立ちあがって手のひらを開いてみせた。小さい翡翠の十字架が左手の上にのっている。ついていた細い革の紐が切れていた。
「これは、公家の女人が身につけていたものです。ここを通ったのですね」
根岸が佳代の左手をのぞきながら、
「まちがいないか、なぜそうとわかる」
「まちがいありません。いっしょに風呂にはいったおり互いの十字架をさわって、それでうちとけて話がはずみました。あのときのものです」
令和三年七月一日