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はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

貝原益軒を書こう 七十三 

貝原益軒を書こう 七十三                中村克博

 

 あの日から五日たった夕方、平戸からの船が厦門に入ったとの知らせがあって、あくる日の朝餉のあと松下と根岸は部屋を出た。佳代も一緒だった。鱗雲が遠くに、青い空は澄み渡って、そよ吹く風は冷たかった。いつもの衛兵が二人ついて来た。南安郷城を出ると傭兵の隊長が城門の外で待っていた。護衛の兵卒が十人もついていた。いずれも日本の武士のようで、徒歩武者が着ける軽武装の腹巻をして兜は前立や吹返などのない簡素な兜鉢だった。

根岸たちは厦門の湊から一枚帆の小さな帆船に乗った。湊を出て町が見えなくなるころ人家がまばらな小さな集落が見えてきた。朝日の当たる斜面に畑が見える。波打ちぎわの砂浜に小舟が数隻引き上げてある。人影はない。そこを通り過ぎて岬をまわると帆を降ろした外航船が見えてきた。

警戒のためだろう沿海用のジャンク船が五隻ほど帆を上げて遊弋している。そのうちの一隻が近づいてきた。停船を命じた。二隻は帆を上げたまま風を抜いて接舷した。警戒する軍船は帆柱が二本で竹を編んだような折りたたみ式の帆をゆらゆらさせていた。根岸たちの乗る船は筵の帆を上げていた。筵帆がしばたいて飛び散った水滴が光って降って来た。

接舷して気付いたのか、こちらの船の兵員の数におどろいたようで、ジャンク船の甲板に兵隊が続々と出てきた。船べりに盾がズラリと並んで間を石弓の矢がこちらを威嚇した。傭兵の隊長は慌てたようで急いで旗じるしを取り出して掲げた。黄色地に黑く天地玄黄と染められていた。それを見て石弓は引っ込んだ。船長らしい男が手招きして何か言った。傭兵の隊長は了解して一人でジャンク船に乗り移った。

 

佳代は根岸の袖にしがみ付くようにしていたが、我にかえったように離れた。

「どうなることかと・・・ 連絡が付いているのではなかったのですか」

鄭成功からの許しがあるので心配なかろう」と根岸が言った。

 柳生の松下が日本の傭兵侍に聞こえるように、

「日本から大量な武器を運んできておるので警戒が厳しいが鄭成功の許可を取っているので問題ない。こちらの武装兵を見て不審に思ったのだろう」

 それを聞いて傭兵たちから笑い声がした。話し声が聞こえてきた。傭兵の隊長がもどって来て二隻は離れた。再び帆に風を入れて平戸の船に近づいて行った。

 

 平戸の船で傭兵の隊長と松下や根岸と佳代たちは中央甲板にある帆柱のすぐ後ろの小屋に案内された。傭兵の武士や護衛の明の兵士は船尾甲板にある広い屋形の下で腰をおろしてくつろいだ。傭兵の中には二世や三世の者もいたが、多くが根岸や松下とこのたびの国外移住で運ばれてきた独り身の浪人武士たちだった。まだ昼前だったが握り飯と梅干、たくあん漬けをふるまわれて嬉しそうだった。泣いている者もいた。

 

 根岸たちは煎茶を磁器の湯呑で飲んでした。饅頭や最中、落雁がお盆の上に丁寧に盛られていた。

 傭兵の隊長はみんなに船長を紹介した。部屋の中は窓からの光が届いていたが目が慣れるまでは暗くて顔の表情は見えにくかった。船長は頭に白髪が目立つ初老の頑健そうな体をしていた。顔も腕も日焼けして黑かった。側に眼光の鋭い船乗りが二人いた。一尺ほどの刀を差しているが鍔や縁頭の造りから拵えの良さがわかる。あきらかに武士だと佳代でもわかった。

 傭兵の隊長が根岸や松下や佳代につての事情を説明した。船長は了解して三人を無事に日本に連れて帰ることに尽力すると言った。船は平戸から来たが、積荷の武器は船長個人の密貿易であると了解して欲しいと何度も念を押していた。柳生の松下はそれを了解した。三人はよろしくお願いすると頭を下げた。

 傭兵の隊長はそこで小判の包みを取り出した。

「ここに二十両ある。これは私の心付だ。受け取ってもらいたい」

 船長は包みを開いて、

「これはありがたい。しかし多すぎる」と言った。

 いやいやと言って、傭兵の隊長は十両を船長の前に置き、五両ずつを二人の船乗りに分けた。すると、我々は困ると言って五両と五両を船長の前に置いた。

 船長は分かりました。と言って十両は自分がとって、

「のこり十両は日本に着いたとき、お三人に必要でしょう」と言って傭兵の隊長に返した。傭兵の隊長は受け取った。お互いに身分を明かさない。名乗り合わないのを理解しあっていた。

 

 緊張する話が終わって、船長が茶を飲みながら、

「積荷は火縄銃や日本刀の他に陶器や白磁、染付などをたくさん積んできました」

「磁器はこちらの方が本場ではありませんか」と佳代がいった。

 船長が佳代に詳しく説明するように、

「朝鮮陶工の李参平が良質の陶土を佐賀の西松浦、有田で見つけましてな。そこに移ってきた酒井田円西なる者が息子の喜三右衛門とともに陶器や白磁、染付などの磁器作っておりました。やがて喜三右衛門は赤絵磁器の焼成に成功して柿右衛門を名乗ったのが伊万里の赤絵としてオランダに喜ばれているのです」

 佳代は何か思いついたように、

柿右衛門とは考えの深い命名ですね。赤絵は柿右衛門、末代までこの名前は受け継がれ、子孫に利益をもたらすのでしょうね」と言った。

 船長はさらに話をつづけた。

「初代は乳色の濁手の地肌に赤色の上絵を焼き付ける磁器の風合いをだしました。それはオランダが喜んで買い付けました。オランダのある西の果ての国ではマイセン窯など模倣品も出まわるほどだそうですよ」

 佳代は生き生きとした目を輝かして、話を聞きながら根岸の腕に寄り添っていた。松下はほほえましそうにそれを見ながらお茶を飲んでいた。

 傭兵の隊長が落雁を手に取りながら、

「佳代さんは根岸殿の妹と聞いておるが仲のいいオイモウトですな」といぶかった。

令和五年十一月十六日