貝原益軒を書こう 七十五 中村克博
それから数日がすぎて、厦門島の西の沖合で武器の積荷を鄭成功の船に瀬取りで移し終えた平戸の交易船は厦門の港に回航されていた。根岸と佳代それに松下は昨日からこの船に移動していた。海鳥の群れが岸壁で羽を休め高い空に猛禽が舞っていた。空は青く朝の日差しがあたたかだった。
三人は甲板の上にあるは船室にいた。部屋には机も椅子もない空間だった。人夫たちの話し声が聞こえる。船倉に烏龍茶の入った大きな壺を幾つも幾つも重そうに積み込んでいた。生糸、絹織物、いろんな薬用品、たくさんな山水画や書などが運び込まれていた。
眼光の鋭い二人の船乗りが積み込み作業を取り仕切っていた。二人は脇差だけで大刀は差していないが平戸藩の武士であった。
松下が窓から外のようすを見ながら、
「平戸は長崎をとおさずにこのような抜け荷の品をいつまでも持ち込んでおるが・・・」
佳代が手荷物の整理をしながら、
「えっ、明や朝鮮との交易も長崎を通さねばならぬのですか」
松下は部屋の中に目を戻して、
「二年ほど前の寛永十八年に平戸からオランダ商館が長崎の出島に移設され、オランダ人は出島に隔離されて交易をしますが明や朝鮮は微妙ですな」
根岸は窓から差し込む朝日を受けてまどろむように座っていたが、
「黒田藩には博多と海外とを交易する豪商が何人かおりますが、なかでも伊藤小左衛門の羽振りが良いようですね」
佳代がキラキラした顔になって、
「そうですか、この航海で平戸に行きますが博多にも立ち寄るのでしょう。厦門と平戸、博多それに長崎とつながれば、大坂や京に交易品を持ち込む大きな商いの道筋ができそうですね」
根岸はキョトンとした顔をしていた。松下が佳代を見て忠告するように、
「平戸と鄭成功のつながりを江戸幕府はつかんでおります。さらに、博多の伊藤小左衛門と朝鮮との密貿易も、厦門へご禁制の武器を輸出しておることも幕府は嗅ぎつけています」
佳代はなおも合点しかねるように、
「ご公儀は、キリスト教の信仰やポルトガルやスペインとの交易を禁止していますが、朝鮮や明との交易まで禁止するのはなぜですか」
松下は佳代を見て言い聞かせるように、
「スペインやポルトガルは自分たちの知らない土地を発見すると新世界などと称して勝手に自国の領土にしています。そこには昔から現地の人が暮らしているのにです。それにはまずキリスト教の宣教師を送って布教をはじめます。同時に現地の有力者に莫大な特権と金品を与えて手なずけ間接支配をします。そのあとは軍隊を送って武力で自分の国にするのです」
佳代は沈んだ顔になって、
「そうですか、それで太閤さま以来のキリシタン禁制なのですね」
「そうです。ルソンもスペインが領有して、国名を自国の皇太子フェリペ二世の名をとってフィリッピンとしています」
黙って聞いていた根岸がたずねた。
「しかし、それで朝鮮や明との交易まで禁止するのはなぜですか」
松下は少し考えてから、
「朝鮮や明とは昔からのいきさつもあってあいまいですが、いまでは松前藩はアイヌ、対馬藩は李氏朝鮮、薩摩藩は琉球それに、徳川幕府は直轄の長崎でオランダとの交易を許可しております」
佳代が確かめるように、
「そうですか、ならば対馬藩は朝鮮に渡航して交易できるのですね」
「いいや、寛永十年の海外渡航禁止令で日本から海外に出ることは禁止ですから… それに同十二年には海外に住むすべての日本人の入国を禁止し密航の帰国者は死刑です」
佳代がびっくりして、
「出国は禁止、帰国はできない。それでは博多の海外交易はできません」
根岸がふしぎそうに、
「であれば対馬藩は朝鮮とどのようにして交易するのですか」
「表向き朝鮮から来るしかない。ところがですな・・・ 江戸幕府は対馬にはときに朝鮮への密航の許可をだすようです」
「えっ、どういうことですか」
「対馬藩は朝鮮とは国交の窓口としての役割があります。それに対馬はオランダとも小規模な密貿易をしておるようで、臨機応変な対応ですが、いずれにしろ曖昧なのです」
佳代の顔が明るくなって、
「それでは博多の商人も朝鮮と交易して、平戸を通じて明との交易もできるのですね」
松下が困った顔をして、
「博多には朝鮮から船が来ておるようですし、玄界灘の外海で船同士の交易も盛んなようですが、法では禁止されておるので、もしも摘発されれば断罪されますな」
佳代の顔が暗くなった。
「私には、わけがわかりません」とつぶやいた。
傭兵隊長の内藤がやって来た。
松下は根岸と内藤を出迎えに船室を出た。朝日がまぶしかった。佳代は手ひさしをおでこの上にかざして目をほそめていた。内藤が二人の平戸藩士と何やら楽しそうに談笑している。船長はその傍でキセル煙草をふかしている。護衛の十人ほどの兵隊が船の外で待機している。
内藤は船室に通された。部屋の中ほどに新しく茶の用意がされた大きな盆があった。それを囲んで四人は座った。平戸の船が厦門の港に回航されてから、空の船倉に交易品が積み込まれる作業に数日かかっていた。その期間に四人は何度も船をおとずれていた。
内藤が茶をうまそうにごくごく飲んで、
「烏龍茶もいいが、やはり日本の茶はなんとも・・・ ほっとしますな」
根岸がうれしそうに話しはじめた。
「そうですね、それにはこんな話があります。むかし嬉野に移り住んだ明の陶工がお茶好きで、自分で茶をつくって飲んでいたのがはじめだそうです。それから五十年ほどあとにやはり明から嬉野に移り住んだ紅令民という陶工がもってきた南京釜をつかって最新の製茶法を嬉野に伝えました。釜炒り茶製法のはじまりだそうです。江戸時代になって鍋島藩士の吉村新兵衛が嬉野で茶の産業化をはかります。それから嬉野は日本一のお茶産地です」
根岸が流暢に話すのを聞いて佳世はびっくりして、
「まぁ、うれしい。根岸さまのお話、こんなすてきな話・・・」
松下も意外な顔をして、
「まことに、根岸殿のこのような見識ある話は初めて聞きましたな・・・」
根岸が少し照れるように、
「黒田藩の長崎警衛に動員された折に、帰りの道中で貝原殿に同行して嬉野茶の調査にまいったことがあるのです。吉村新兵衛殿の案内で皿屋谷一円の手入れの行き届いた広大な茶畑も拝見して、いろんな話を聞かせていただいたのです」
佳代が目をキラキラさせて、
「京では茶は抹茶を点てていただきます。煎茶もありますが炒り釜でなく、蒸し釜を使います。でも、抹茶も煎茶も庶民にはまだ馴染みのないことです」
松下が佳代を見て、
「嬉野の茶を京都に運ぶ交易なら可能なようですな」
佳代が根岸の袖を引っ張って、
「そうですよ、嬉野の近くには有田焼があります。平戸も近いし、対馬も遠くはありませんよ。博多の伊藤小左衛門とも商いできますよ」
根岸はうつろな顔をしていた。内藤が根岸を見て、真顔になって、
「根岸殿、日本では剣術はもう時代遅れですよ。これからの日本では刀も弓も槍も鉄砲も使い道はありませんな。佳代殿の見立ては的をえておる」
根岸は松下を見て、
「松下殿、大和の柳生家は徳川家の将軍家御流儀としての剣術、兵法指南役ですが、兵法が、剣術が必要ない世となれば、これから武士はどうなるのでしょうか」
松下は正面切って問われ、こまった顔をした。
「わが柳生藩の初代宗矩公が大目付の役を授かっております。ご老中や諸大名、高家の監察がお役目です。諸国に柳生新陰流の師範を派遣しておりますな。沢庵禅師の剣禅一致の考えもありますな。兵法家伝書をあらわして武士道をといておられます」
根岸は一所懸命に聞いていたが煮え切らない顔であった。内藤が笑いながら、
「ようするに、剣はいらん。秋の虫でもないのに倫理リンリと鳴いておる」
内藤は寂しそうな顔をして笑っていた。松下は内藤を見て寂しい顔をして口をむすんだ。根岸は松下のその表情を見て同じような寂しい顔になった。
内藤は二人を見て、そして思いついたように、
「そうだ、大事な知らせがある。この船は平戸には行きませんぞ。平戸は江戸幕府の取り締まりの手が伸びて危ない。それでこの平戸の船は急遽琉球に向かうことになったのです。薩摩の支配する琉球からは大坂にはいくらでも船が出ております」
松下が笑顔になって、
「琉球から薩摩の船で大坂へ行くのは日本の国内航路です。兆しが明るくなりましたな」
佳代がうれしそうに根岸の腕を抱くようにして顔をうずめた。
「根岸さま、これで決まりですね。大坂と、琉球、博多、平戸、嬉野、対馬とむすんで・・・」
内藤が松下を見ておもむろに言った。
「松下殿、鄭成功は近々、台湾のゼーランジャ城を攻めて台湾からオランダを追い出しますぞ。いま南京を攻めるために兵力を集結して軍備を整え、多くの船を調達しておるが、これは台湾進攻のためオランダを欺く偽装作戦です。これ以上の諜報はない。貴公へのはなむけです」
松下は内藤を見つめていた目をおとしてかるく頭をさげた。
令和六年一月十二日