貝原益軒を書こう 六十一 中村克博
根岸と柳生の松下はでゼーランジャ城を出て小舟で対岸の街に向かっていた。小さな帆掛け船が向かう方に朝日が低く眩しかった。佳代が根岸に寄り添うようにしている。船べりを横に長く渡した板が椅子になって座っていた。舟は明の漢人水夫が三人で操作している。銃を持ったオランダの兵士が五人、それの指揮官一人を護衛で同伴していた。風は強くはないが肌寒かった。日本の秋を思わせた。向かい風を何度か間切って進んだ。オランダの帆船が数隻帆を降ろしている。それよりも多くのジャンク船が停泊しているのが目についた。
根岸は佳代とオランダの船で台湾のゼーランジャ城に着いたときは熱帯の空気に蒸せるようだった。柳生の松下も同じ日、鄭成功のジャンク船に乗って百人の若い武士たちと年老いた武士と女子供二百人の家族と一緒にゼーランジャ城に入った。早いもので、あれから三ヶ月がすぎて京都なら楓の葉が赤く染まる季節になっていた。
ゼーランディア城の長官フレデリック・コイエットは前任の長崎出島のキャピタン時代に松下との面識があって、根岸と佳代、それに松下には、それぞれに個室の住居が用意されていた。三百人以上の武士の家族には収容する準備がなくて大部屋と通路と城内の屋外のテント暮らしだった。気候が温暖で食べ物も十分に支給されたが、それでも不自由な暮らしだった。とくに風呂に入れないのがつらかった。三ヶ月のあいだにゼーランジャ城から近くの町はずれの居住区に急いで長屋の住居が幾つも建てられ数日前に三百人の家族が移って行ったのだった。根岸たちはそのようすを見に行こうとしていた。
根岸が寄り添う佳代の肩に手をかけて、
「いい風ですね。腹がへってきましたな」
佳代が頭をもたげてうれしそうに、
「いえ、私はだいじょうぶです・・・」
松下が腰から外した刀を両足の間に立てて持ち、
「いつもは朝餉がすんだ時刻ですが、もうすぐ縮緬雑魚の雑炊が食べれます」
佳代は体を起こして、
「はい、松下様、佳代の好物です。待ちどおしい・・・」
「あそこの女将は台湾生まれの日本人ですが日本の料理がうまい。京の料亭の味かと思えるほどですな」
「はい、私もそう思っていました。吸い物の出汁の味など、お漬物も、蒸し物も」
根岸が両腕を伸ばして大きく息をして、
「ああ、あ~ 白い飯をたらふく食べたいですね」
そのようすを見てオランダの兵士たちがニコニコ笑った。
「あら、みなさん日本の言葉がわかるのでしょうか」と佳代がほほえんだ。
「彼らも日本の料理に、このさい相伴できるのが楽しみなのですよ」と松下がこたえた。
舟が桟橋に着いた。漢人の水夫が飛び下りて舫い、オランダの兵が下船して並んだ。
桟橋からしばらく町中を歩いて目的の日本料理屋に着いた。オランダの兵隊たちは店の前庭にある屋外テーブルに陣取っている。日傘が開いているが日陰に入らず朝の太陽を楽しんでいるようだ。
根岸たちは奥の座敷で緑茶をふるまわれていた。三人は広い座卓を囲んでいた。茶を飲みほした根岸と松下の湯呑に、佳代が熱めに入れた二番煎じを急須からそそぎながら、
「ここに来ると日本を思いだします。と言うより日本にいるようです」
松下は火鉢に近づいて、注ぎ足された湯呑を取って、
「今の時期はそうですな。しかし・・・ 座敷で火桶に手をかざすのは・・・」
松下の言葉がつまったのをほほえみながら、
「しかし・・・ よく見ると火にかけた鉄瓶も火鉢も形は日本のとは少しちがいますね」
「そうですな。火にかざした自分の手が日本の手とは違って見えますな」
根岸が二度目の茶を飲み干して湯呑を佳代の方に突き出していた。間もなく朝粥がはこばて、味噌汁、卵焼、焼魚などが並べられた。食事をゆっくり味わいながら三人の話はなごやかにつづいた。
三人の食事が終わったころ女将がやって来た。その後に下女が皿いっぱいに盛った果物を運んできて空いている座卓に置いて取り皿を並べた。
根岸がうれしそうに、
「この果物は確か、ほうり、と言いましたね。涼しい季節にもあるのですね」
女将が黄色い果実をそれぞれの皿にとり分けながら、
「年中食べれますよ。厚い皮をむいて芯を取って食べごろに切っています」
「台湾にはいろんな果物が年中あるのですね」と佳代が言った。
「この果物はオランダ人がジャガタラのバタビアから数年前に持ち込んだのですよ。オランダ語でアナナスといいます。皮が厚くて大きな松笠のよう、もとはスペイン人が海の向こうの大陸から世界に広めたそうです」
根岸が黄色い果実を食べながら、
「女将はこんな甘いものを食べて、ほんとにふくよかな体をしておられる」
佳代がそれを聞いて嫌な顔をして目をふせた。
松下がそれを見て根岸を一瞬にらみつけて、女将にたずねた。
「甘いものと言えばサトウキビの収穫が減ったようですな」
「そうです。昨年から米の作付けが増えてサトウキビには人手が回りません」
「ところが米の収穫が増えたのに品薄で値が上がっておるようですな」
「それでは、米はどこに行ったのですかね」と根岸が言った。
女将が根岸を見てアナナスの果実を取り皿に入れながら、
「オランダが買い上げて明の船が鄭成功の厦門に運んでいるようですよ」
「鄭成功軍の北進が近いのかも知れませんな」と松下が言った。
急ぎ足で下女がやって来た。こまった顔を女将に向けて合図した。女将が気づいてどうしたのか尋ねた。オランダの兵士が食事はすんだのに、もっと食べたいと言うらしい。
女将は笑いながら立ちあがって、
「唐芋の茹でたのがありましたね。昨夜の残り物ですがたくさんありますよ」
松下がお茶を飲みほして、
「我らも、そろそろ立ちあがって出かけますかな」と根岸を見た。
根岸は黄色い果実を竹串に刺して、
「まだ、アナナスが残っておる。佳代殿、いかがですか」
「いえ、私はもう、じゅうぶんです」と言って立ちあがった。
みんな部屋を出た。根岸はまだアナナスの残りを食べていた。お茶を飲んでやおら立ちあがって部屋を出た。途中、廊下の暗がりで女将と出会った。出会うというより女将が待っていた。近づくと根岸の首に腕をからませた。袖から出た腕が汗ばんでいた。
「根岸さま、ずいぶんご無沙汰でしたね。今日はここにお泊りくださいませね」
「そうしたいが、こたびは勤めがあるし、それに連れがおるではないか」
「佳代さまは、京都の大店に嫁入りする娘さんでしょう。憚りないでしょう」
女将は根岸を引きよせ顔を近づけた。根岸は身の丈六尺以上ある。女将も大柄だがそれでも根岸の首にぶら下がるようになった。爪立った女を左腕で引き寄せた。刀を持つ右手をそれに重ねて抱き寄せた。足音が聞こえて、下女が二人こちらに来る。お盆や布巾を持っている。部屋の片付けに行くようだ。根岸は女将を離そうとするが女はよけいに力を入れた。脇差の柄が邪魔なようで身をよじった。ふくよかな胸が押しつけられた。唇を重ねた。下女たちがクスクス笑いながら二人の横を通り過ぎていった。
オランダ兵は唐芋を平らげ満足して整列していた。朝日は高くなって通りに出ると町はにぎやかだった。家々の軒先には露店が並んでいた。珍しい野菜や果物、サトウキビ、いろんな豆や芋など鍋や釜、釜や鍬の農具もいろんな雑貨など、生きた鳥や豚なども売られていた。それらを買う人も見て歩く人も話し声が絶え間なく行き交ってにぎやかだった。
佳代が野菜や豆、芋を買い始めた。根岸が荷物になるので帰りに買うように言ったが、帰りだと売り切れてなかったらいやだ。と言う。とうとう持てないほど買い込んだ。根岸がそれを両手に持って歩くことになった。
松下がそれを見て、
「根岸殿、右手を空けておかねば・・・」と言って右手の荷物を持ってくれた。
松下は根岸と連れ立って歩きながら、
「根岸殿、長崎に向かうオランダ船は来年の春がすぎ夏ころまで待たねばならぬ。それまでに厦門の鄭成功に会っておきたい。それに、できればバタビアにまで行こうと思う」
根岸は手に持った荷物を肩に担ぎなおして、
「江戸の柳生家は大名の元締め、諜報が大切なお役目でしょうから、今の情勢は日本国内だけでは判断材料が不十分でしょうから・・・」
「そう言えば根岸殿は京の都に貝原殿と共に黒田から送られた隠密だと聞いているが、このさい身共と一緒にバタビアまで行ってみるのもお役目ですな」
令和四年十二月二日