先週の金曜日、エッセイ教室だった。
提出した原稿は、
中村克博
根岸と娘が退出した座敷で久兵衛と宗州はしばらく言葉がなかった。娘の考えられない振る舞いに戸惑っている親のようすがうかがえた。
久兵衛は徳利の酒をすすめながら、
「先ほどの油井正雪の一件ですが、その後の変化は、何かお聞きではありませんか」
宗州は杯を両手に持って、
「いや、別段には・・・」
「そうですか」
宗州は杯には口を付けずに、
「それよりも昨年は、春に公方様がお亡くなりになって世は騒然、堀田正盛公や阿部重次公内田正信公らが殉死なさったそうで、会津の保科公は領内にキリシタンの探索を命じられたとか、諸大名もそれにならうようで・・・」
「家光公のご逝去はすぐに、翌日には知らされましたが、将軍が幼主なることを幸いに天下の騒乱をたくらむ不逞浪人の動きを警戒してか、昨年の夏、油井正雪の謀反が発覚したときには事は隠密にはこばれたもようです」
宗州は体を前にのりだして、
「えっ、油井正雪が謀反ですか」
「一味はすでに壊滅しておるようです。詳しいことはまだわかりませんが」
摺り足の音が近づいて、ふくよかな中年の女が障子を開けた。盆に熱燗の徳利が二つのっている。話し中の久兵衛に差しながら、
「お二人の姿が見えませんね」と言った。
話はとぎれて、宗州が女に顔を向け気がかりな事ことを思い出したように、
「佳代がな、酔っ払って、根岸さまが部屋に届けられ、まだ戻ってこられぬが」
「それは、不調法なことで、申し訳ありません」
女は空の器や徳利はそのままにお盆だけ持って部屋を下がった。
けわしく小走りに娘の部屋に向かった。部屋の前に来て立ったままで障子を開けた。いや、開けようと右手の盆を左に持ち替えようとして盆がすべった。板張りの廊下に落ちて転げた。大きな音がした。女は盆を拾うと今度は正座して障子をゆっくり開けた。奥の部屋の半分開いた襖の奥は暗くて見えなかった。
娘の襟元ふかくまさぐる右手はいまふくらみの頂にあった。根岸は娘から離れて座ろうと思ったが思いなおした。ふくよかな中年の女は障子を静かに閉めて奥の部屋の半開きになった襖のそばまで歩いた。部屋に灯りはなかったが屋根の庇と松の枝に阻まれた月の明かりが窓越しにほんのりどいていた。横たわる息づく二つの影が見えた。
女は座って頭を下げて両手をついた。
「根岸さま、娘の不作法、おゆるしください」
根岸は応えない。娘は身動きせず息を殺している。それでも肩においた手は根岸を放そうとはしなかった。
中年の女が懇願するように、
「とんでもないご迷惑をおかけしました。後の介抱、わたくし奴におまかせください」
根岸はこまった。娘から離れれば佳代という女に恥をかかすことになる。根岸は娘の襟を大きく開いた。絹がすれる音がして形のいい乳房が柔らかい月の木洩れ明りに白く浮かんでいた。根岸はしばし目をとどめていたが顔をうずめた。口を少し開いて吸った。娘が声を出した。あえぐ声ではなかった。初めてのできごとに驚いたような声だった。
ふくよかな中年の女は座ったまま座敷を後ずさると部屋を出て障子を閉め立ち去った。
座敷では話しが途切れ父親の宗州は娘のことが気がかりであった。久兵衛も同じだが話の糸口を見つけたように、
「キリシタンでは純潔が大切だそうですね。さらに生命尊重、離婚禁止、一夫一婦制などを教義にするそうですね」
宗州は語気をつよめて、
「そうです、娘の純潔が求められるのです」
久兵衛は気をまぎらすように、
「それについては、我国では昔からおおらかですね。妻が一人に限られるのにキリシタン大名は何人もの側室を持っております」
宗州は気乗りしないように、
「跡継ぎが途絶えればお家騒動になります。そこで側室を抱えざるをえなくなるわけで」
「ところで、堺では今でも茶人の多くはキリシタンだと聞いておりますが・・・」
「それは堺の商人だけではありません。本能寺の変の後、二年が過ぎて大阪城が完成した折、祝いの茶会にまねかれた人の中には、キリシタンをはばからない大名は十二人、ほかに著名な医者や能楽師、商人などが三十人以上もおったといいます」
娘の部屋では中年の女が部屋を立ち去ったあと根岸は娘から離れた。名残惜しい思いがあったが、横たわる娘のはだけた胸元をなおした。
居住まいを正してたちあがり、何か言おうとしたが何と言っていいのかわからない。片膝を突いて顔を近づけて口を吸った。すぐに部屋を出て座敷に向かった。
立ったままで障子を開けると、部屋の二人の顔が待っていた。何事もなかったように席に戻った。久兵衛が笑いながら、
「ながい厠でしたね」
根岸は一瞬、何のことやら不可思議な顔をしたが、
「ああ、そうだった。厠に行くのを忘れていた」といった。
宗州が恨めしそうな目で根岸を見た。
先ほどのふくよかな中年の女が座敷に入って来た。両手をついて、
「根岸さま、先ほどの切なる願い、お聞き届けくださいまして痛み入ります。よろしければ今宵の供寝に私をお召しください」
令和二年八月六日