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はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

今月八日、娘が結婚した。

京都の上賀茂神社で両家の親と兄弟だけの結婚式だった。

近年いろんな形の結婚式があるようだが、ありがたい、ことだった。

それにしても京都の夏は暑かった。 妻と二人で久しぶりに京都の散策をした。


今月のエッセイ教室は京都に行っていて参加できなかった。
原稿はできていたが、京都から帰って、終わりの数行を書き換えた。
近年の日本の状況と今回の原稿とがなぜか符合するようで書きづらい。

アテナの銀貨                    中村克博


 高麗の海賊と聖福寺の二人の僧は上甲板で話をしていた。先ほどまで船べりに立って海を見ながら話していたが今は物陰に風をよけて座っていた。空には星が出ていたが西の空はまだ薄明りが残っていた。
 高麗の海賊の頭目は、流暢ではないが、しっかりした和語で自らを鬼室福信と名のり、今は西の島々に隠れるように暮らしているが先祖は百済が滅亡するまで仕えた義慈王の遺臣であるといった。
 聖福寺の僧が間をおいて、
百済が滅んだのは、今より… 四百六十年ほども昔の出来事ですね」
 もう一人の僧が思案顔で、
「唐と新羅に敗れた百済義慈王は妻子とともに遠く長安に送られた」
海賊の頭目はむきになって、
「そうですが、百済の残党はそれでも倭国にいた百済の王子を頂いて倭の援軍とともに反撃します」
 聖福寺の僧が記憶をたどるように、
「そうですね。倭は斉明女帝みずから出兵の先頭にお立ちになりましたが那の津にて急死されました。反撃はいっとき有利に進み豊璋王子は百済王となりました」
 もう一人の僧が、
「しかし、それも束の間、唐軍十三万、新羅五万の兵力が体制をととのえ、倭と百済の連合軍四万七千を崩壊させます」
 海賊の頭目は流れる涙を手のひらで顔にぬりつけて、
「そして海では、一千隻余りの倭船のうち四百隻余りが炎上して惨敗」
白村江の戦いですね。炎は天を焦がして海は朱に染まったと言います」
 海賊の頭目はさらに顔を濡らして、
「倭の軍船は多くの百済人を救って逃げ帰りましたが、半島に残った人は殺戮、強姦、四散して、この地での百済の種は絶えてしまった」
「しかし、四百六十年も昔の出来事ですよね」
「我らにとっては昨日の出来事なのです。わかってもらえないでしょうが …」
聖福寺の僧がねぎらうように、
「四百年ものあいだ、それは、さぞ難儀しておられたでしょう」
 もう一人の僧が、
「もとはと言えば、百済新羅も倭とは、よしみの深いあいだがら、二つの国に挟まれていた南の加羅には倭の人々が住んで任那には倭の政庁もあったのですね」
 海賊の頭目は我が意を得たりと、
「そうです。もともと我らと、そこもとたちとは同じ倭の人であったと …」
「しかし、四百六十年も昔の話ですよ」
「何百年たっても、我ら、倭の心は変わりません」
「しかし、倭の国は、もうありませんよ。我らは、みな日本人です」
 黒崎兵衛が三人の話を聞いていた。しばらくは船べりの欄干にもたれ風に当たって聞くとはなし、だったが今は海賊の頭目の前に胡坐をかいていた。
「国が破れて、置き去りにされて…」海賊の頭目はうなだれていた。
 聖福寺の僧がおどろいて、
「なんと、それで、お名前を鬼室福信といわれるのか、意味がとけました」
「そうです。鬼室福信は百済の最後の将軍の名前、唐軍の謀略にかかり、王に誅殺されたが、生きておれば百済の復興はできておった」
「そうかもしれませんね。あちらは孫子を千年以上も実践している国ですからね」
 兵衛が咳払いして、
「わたしの祖先は朝廷に反逆し滅ぼされた安倍宗任の郎党でした。敗れて主従、みちのくから筑前大島に流されました。百三十年も昔の話です」
「むかし、みちのくは、まつろわぬ蝦夷、土蜘蛛などとよばれていましたね」
「そうです、そして長い年月のうち倭の中にとけこんでしまう」
「まつろえば地方の豪族にもなり、滅んでも神社に祀られ神になる。百済新羅の渡来人には役人や貴族になった人もおおい」
弘仁五年と言いますから、今より三百八十年も前になりますが、新選姓氏録によれば京や機内に千百八十二の氏族があり、そのうち三百七十三が渡来人です。漢から百七十九、百済が百十九、高麗が四十八、新羅が十七、任那十、だったと思います」
「いや、すごい記憶力ですね。優れた学僧とは、いやはや…」
「しかし、敵味方、そして、いろんな国の渡来人が熔けて日本という一つの国にまとまるのはなぜでしょうね」
「なぜでしょか、わかりません」兵衛は複雑な表情でうつむいた。
 船べりの欄干にもたれて退屈そうに、こちらを見ていたアラビアの衛兵が大きく背伸びをした。つられて横の一人が大きく欠伸をした。

 星がまたたいていた。マンスールが甲板に上がってきた。さっぱりした笑顔で兵衛たちを見て近づいてきた。アラビアの衛兵が姿勢を正していた。
 兵衛が立ち上がって、
「次郎殿の様子はどうですか」
「チリョウ、オワリマシタ、イマ、ネムッテイマス」
「しかし、何とも痛そうな治療でした」
「イマ、ドノアタリ、ハシッテイマスカ」とマンスールが腰をおろした。
「高麗の最南端、珍島の沖七五里を山東半島の威海に向かっています」
「兵衛殿は、そのように詳しく位置がわかるのですね」
「この辺りまでは何度か航海しています」
「高麗の海賊には襲われないのですか」
「高麗は博多や壱岐の船は襲いませんよ」
壱岐や博多の船印を見れば帆別銭はとりません」と海賊の頭目が言った。
「アラビアノ、フネダカラ、オソッタノデスカ」
「襲ってはおらぬ。船荷あらためで停船さえしておれば…」と気色ばんだ。
 マンスールの従卒が夕食と水を運んできた。五人は物陰を背に座りなおした。
 聖福寺の僧が、
頭目はやまとの言葉が流暢ですが、博多には交易で来られますのか」
「はい、年に二度ほどまいっておりました。今は若い者に任せております」
「博多には宋の人ばかりでなく、高麗の人も多く移り住んでいますが…」
「はい、私も思わぬこともありませんが、この辺りの島には、いまだ多くの百済人が、あちこち、私のような首領を頼りに暮らしておりますので …」
 マンスールが籠に盛られたナンを手に取って、皆にもすすめた。
 兵衛がナンを千切って、
「ナンはアラビアから広まったのでしょうか」
 聖福寺の僧が、
南宋でも小麦の粉を練って鉄板で焼いたものがありますね」
「それに野菜などをのせます。煎餅と書いてジエンピンと言います」
僧が福信の顔をのぞくように、
「高麗にもありまね。百済人も食べますか」
 福信は、それに応えず僧を見据えて、
「なぜ敵の頭目を虜囚とせず客人なみに…、これはアラビアの流儀ですか」
「それは、わかりませんが、お人柄に信義でこたえたのではありませんか」
「恨みに報いるに徳を以てす、と言います」
「これは支那の古い言葉ですが…、老子孔子とでは解釈が違いますね」
「無為を為し無事を事とし無味を味わう。小なるを大とし少なきを多とし怨みに報ゆるに徳を以てす。とさらに続きます」 
 兵衛が不満げに、
「そのような、たわごと、一族をかけて殺し合うものには通じませんぞ。負けをみとめ犬のように従うか、妻や子まで道連れに滅びるまで戦うかしかありません」
「しかし、みな殺され、妻子が辱めをうけては守ったことにはなりますまい」
 兵衛が承服せず、
「だが、死ぬる気概がなくて戦えますか、敵は恐れるから尊敬もできる」
「しかし、倭は敵味方互いに許してひとつの日本になったのではありませんか」
「たしかに国は一つになりましたが、戦乱は続き争いは尽きませんな」
「そうですね…」と、聖福寺の僧は手にしたナンを見つめていた。
 すると、ナンを食べながら話を聞いていたマンスールが片言交じりで、たどたどしく話したが、なにを言っているのかわからない。
 聖福寺の僧が、かいつまんで、
「大地をうめる敵が町を次々と襲いはじめ、家は焼かれ男は炙り食われ女は逃げ惑い犯される。そのとき、庶民に兵に将や宰相に、そして君主には、それぞれに、になう役割が違う」
「ヒトハ、タチバデ、マモルモノ、チガイマス」 
 もう一人の僧が、
「誰も死にたくはない、殺したくもないのに…」
「敵、味方に戦う正義があり、互いに死んでも守るものがあるとなれば…」
「互いに死を賭けて奪いあう、殺し合う」はたと思い当たるように兵衛がいった。
「それは、人間が、所有し、蓄えるようになってからですね」二人の僧がつづける。
「米でも、物でも、土地でも、人でも、兵でも、武器でも、際限がない」
「ちかごろは銭がでまわり所有と蓄えが、さらに容易になりました」
「銭は人を従わせる支配の道具にもなるが、それでは争いは絶えませんね」
マンスールは首にかけたアテナの銀貨を手にのせて見つめていた。
                               平成二十七年八月五日