ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

お茶の稽古、入子点てだった。


母から「今日は入子点てをしようかね」と言われて、戸惑った。
従兄弟は、曲げわっぱの建水に、いろいろして戸惑わない。おぼえがいい…

三月は釣り釜にしないと、と言われた。椿があちこちに咲いている。


昨日はエッセイ教室だった。
小説、アテナの銀貨(それからの為朝)の完結だった。


アテナの銀貨                中村克博


 東の空がしらむ時刻はすぎているが、ゆうべからの雨が降りやまず船窓の外は闇だった。為朝の大きな右腕が胸の上にのっていた。頬を右に向けて顔をのぞいてみるが暗くて表情はうかがえない。ふかい寝息が聞こえる。
 敦賀の浦に碇を入れて二日目の朝を迎えようとしていた。船荷の宋銭、一千万貫の陸揚げは受け手側の手筈が整わずにまだ半分も丁国安の宋船に残っているらしい。この空もようでは今日の作業はうっとうしいことだろうと思った。
「雨のようだな」為朝の声がした。
「はい、空が暗くて夜が明けませぬ」
「ならば、もそっとねむろう」と、左の肩を大きな手が包んだ。
右腕に引き寄せられるように体をよじると額が為朝の顎のあたりにふれ、為朝の鼻が髪の中に分け入ってきた。髪を洗ったのはいつだったろうかと気になった。
「髪がにおいませんか」
「いや、よいかおりだ」
「巫女たちは昨日から金ヶ崎のお城にまねかれて、お湯を頂いて髪も洗ったでしょうね」
「船旅の潮気もとれたであろう」
 風がひとしきり吹き込んで部屋のよどんだ空気が流れていった。窓の闇が少し白んでいた。
「京に住まいするようになれば、いつでも湯はとれますね」
「湯など、どこででも沸かせる。わしは海で泳げばさっぱりする」と、そっけない。
「それでは私はいつも塩辛い殿を…」と含むようにわらった。
「昨日は海から上がって長らく雨に打たれ潮は流したはずだが」
「そうでしたか、それでも唇も舌もひりりとして」
「そうであったか」と右手が胸元を押し開いた。 
 風が吹き込んだ。雨のしぶきもいっしょに吹き込んで、だんだんに強くなった。
「窓を閉めませんと…」
 為朝は体を起こして寝台から下りた。雨が降りこんでいたが窓の外は朝になっていた。女宮司は身ごしらえをして、夜具をととのえた。

 激しく降っていた雨は昼前には小雨になり、やがて青い空がもどって風もおだやかになった。積荷の陸揚げがはじまっていた。段取りもよくなって聖福寺船の船べりには順番を待つ艀がただよい、陸とのあいだには何艘も行き交っていた。
 聖福寺船から二人の禅僧が一人櫓の小舟に乗った。途中で宋船に立ち寄って丁国安夫婦をひろい為朝のいるアラビアの船に接舷した。
 甲板で出迎えた為朝に丁国安が、
「天気は良くなりましたが、それにしても蒸し暑いことでございます」
「そうだな」
「船の水浴び場で汗を流してまいりましたが」と言って額の汗を手の甲でぬぐった。
「わしも先ほどまで海に浸かっておったところだ」
 丁国安の妻タエが縄梯子をつたってきた。兵衛が手を貸して引き上げた拍子にタエの小太刀が半分ほど鞘から出てきた。兵衛はすかさず柄頭をつかんで刃を戻した。
「鯉口があまくなって」と兵衛にわびた。
「いえ、私がいらぬ手出しをしました。よければ鯉口をととのえましょう」
 兵衛がタエから小太刀をあずかったが、
「今から大切な用向きの話がある。兵衛もまいれ」と為朝が言った。
兵衛は「では、のちほど、あらためて」と、タエに小太刀を戻した。

 みんなは船尾楼の船室にはいり円卓を囲んで椅子にすわった。女宮司が茶碗に団茶の煮だしを注いでまわった。
聖福寺の僧が、
「荷の積み出しが遅れておりますが…」と丁国安を見た。
 丁国安が詫びるように、
「今日中にはむつかしくとも、明日の昼までには終ります」
聖福寺船の鎌倉の武士や兵士の様子はいかがですか」と兵衛が言った。
「六十名ずつ交代で一日おきに上陸する予定でしたが、先に陸に上がっておった六十名と朝廷の兵との間で諍いがありまして」
「その場は双方から武士が出て互いに兵をとりなしました。以後の上陸は控えております」
宮司が薬缶をかかえて席をまわりながら、
「いくたの健児がこの暑さに、気の毒ですね」と空いた茶碗につぎ足した。
「大勢のつわものどもが動かぬ船に押し込められたままでは危険ですな」
「海で泳がせればどうでしょう」
 聖福寺の僧が、
「それが、坂東武者は馬に乗れても泳げぬものがおおくて」と笑って言った。
「まぁ、いずれにしても明日には出航できます」
 丁国安の妻タエが茶を注ぐ宮司に頭を下げて、
「それでは、いよいよ明日にはお別れでございますね」と涙ぐんだ。
「あれ、いっしょに京にまいられるのではありませんか」
「それが、うちの綱首が博多に外せぬ要件があるとかで」と夫のことを綱首と言った。
「そうですか、実は私どもも、どうなるか、いまだ…」
 聖福寺の僧が背筋を伸ばすようにして、
「その件で先日まいられた朝廷のお使いが夕刻までにはご返答を伺いに参上します」
 為朝は茶をすすりながら、話す僧をみつめていた。みなが言葉をまったが考え込むように目線を落として無言であった。
 丁国安が円卓をはさんだ正面の僧に向かって、
「このたびの航海は一千万貫の宋銭を朝廷にお届けするのが目的かと、禅宗の布教に朝廷からのお許しと、ご援助を願うことと存じておりますが」
「そうです。それが、その銭が戦乱で荒廃した京や南都の復興のたすけになると…」
「で、ございましょう。それだけの銭が出回れば宋銭の普及が一段とすすみます。博多で交易する我々も聖福寺も鎌倉も願うことでございます」
 薬缶をもどして自分の席についた宮司が、
「私には壱岐での任期もあけて、京へ帰るのに便乗させていただいたお船です」
 丁国安があわてて、
「おお、いや、それも今回の航海の大切な役目でございましたな」
 為朝がとなりの月読の宮司をみつめて、
「わしは、そなたを送って最後の別れを惜しむための船旅であった」
 丁国安の妻が流れる涙を袖口で受けて、
「朝廷のお召しに応えず、月読の宮司さまともお別れになるとは…」
 月読の女宮司が凛とした笑顔で、
「殿とはお別れしませんよ。京がおいやなら海の上でも彼方の地にでもお供致します」
 タエは袖から顔をだして、宮司の意外な言葉に戸惑いをみせた。
「では、京の月読様でのおつとめは…」
「そうですね、京でのおつとめは、もう、できませんね」
 聖福寺の僧が、
「そうですか、領解いたしました。朝廷のお使者にはお出向き無用と伝えます」
 為朝が落ち着いた笑顔で、
「よろしく頼む、わしなど朝廷の役には立たぬ。今のえにしに生きておる」
 兵衛がまわりを見渡した。晴れ晴れした顔で、
「いざや壱岐に、みなが待っておりますな」
「いや、壱岐にはもどれぬ」
「えっ、あぁ、そうでございますね。平戸の婿殿といくさになりますか」
「それよりも、この船で天竺からアラビアに出かけるのも、おもしろそうではないか」
 丁国安が呆気にとられた顔をした。
 聖福寺の僧が持参していた白木の文箱を取りだして、
「このような場合にと、栄西禅師から文を預かっております」と為朝に渡した。
 為朝は巻紙をほどきながら目を走らせ、もう一度巻き直してゆっくり読み直した。顔をもどして聖福寺の二人の僧を見すえ、
「あいわかった。英彦山を出て以来、禅師のお導きの通りに生きてきた。こたびも心の深いご配慮、ありがたくお受けいたします」と頭をさげた。
 みんなは、何が、どうなったのかと為朝の顔を見た。
「博多の北、はるかに浮かぶ小呂島があるのは存じておろう。宗像大社の所領であるが、そこを為朝が拝領するとある。タエ殿のご実家であろう。栄西禅師とも鎌倉とも宗像の大宮司とも話が出来ておるようだ。それぞれの署名と華押がある」
 そう言って巻紙を月読の女宮司に手渡して、話をつづけた。
「すでに小さいが砦のような屋形もととのえてあるようだ。田はないが畑を耕す民も、漁をする海人もおるそうだ。風や波を防ぐ入り江もある」
「そうですか、その島にはなんども渡ったことがあります」とタエがはしゃいでいる。
「わたしは、その島で暮らすのですね」と月読の宮司が為朝の手を取った。
 為朝は月読の宮司に手あずけたまま、
保元の乱により朝廷が割れ一身を捧げた者の忠義はどうすればいい、親兄弟が相あらそうては孝も情もいき場をうしなう。わしは、この世が何かわからぬが、いまは身近な人を大切に、さらりと生きらればと思うようになった」
 丁国安が身を乗り出すように、
「中華は、いにしえから易姓革命をかさね、国の半分を女真族にとられた宋の国では女子は老若貴賤を問わず皇女まで凌辱されました。もはや忠も孝も男の涙も、信じる人などおりません」と口をはさんだ。
 聖福寺の僧が補い足すように、
「さいわい、本朝の血筋は連綿と続いております。異民族の蹂躙を許さず奈良の昔から民を慈しむ風土、国柄でございます」
 兵衛がぽつんと、
「我が先祖、安倍の郎党は蝦夷の地で朝廷の軍に敗れ、虜囚となり…」
 丁国安がしみじみ、
「国が亡ぶのは耐えがたき悲しみです。しかし、この国は同化すれば分け隔てがない。わしなど宗像の姫を嫁にしております。博多も今は南宋の街のようですが、いずれこの国にとけ合い、食べるものも、崇める神仏も同じくなりましょう」
 丁国安の妻タエが、
「ほんとに、我が日の本には、山の木や石にまで、いたるところに八百万の神々がおわします」
「また、神がいくつか増えるのでしょうな」
 為朝はそれぞれの言うことをうなずいて聞き、自分の話にもどした。
「それにな、これからの、わしの名前まで決めてあるぞ、謝を名のるようにとのことだ。南宋の人間として生まれ変わるようだ。謝か…」
 聖福寺の僧が薀蓄をのべて、
「あやまる、わびる、ゆるす、の意味があります。さる、たちのく、おとろえる、しぼむ、しぬる、の意味もあるようでございます」
「そうか、よい名であるな、気に入った」
                              完結

 
追記

謝を名のる為朝夫婦は博多の北にある小呂島にくらした。気の向くまま壱岐を行き来し、高麗や南宋の臨安までも航海したが琉球を訪ねることはなかった。そのご一人の南宋綱首の子供を養子にした。長じて博多の町に多大な貢献をした謝国明という博多網首になるのだが詳しい出自の記録はない。
 熊野から為朝に随行して英彦山に来た源新宮行忠は定秀の娘沙羅と夫婦になって豊後の大友の元に移住した。のちに豊後の刀鍛冶として数多くの名刀を残した後鳥羽院御番鍛冶の一人紀新太夫行平である。僧定秀の子、あるいは門人とする説が伝わっている。
 英彦山の僧定秀、これについて以後の消息はない。為朝が定秀のことを口にすることもないが太刀銘に豊後国僧定秀作とある二尺四寸六分、反り七分二厘の刀を体から離すことはなかった。この刀は江戸時代、伊予の松平家に伝わっていたらしい。
                       平成二十八年三月十八日