ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

この日、エッセイ教室に提出したエッセイは、

久しぶりに提出したエッセイだった。

         
八百万の神々がおわします。                 中村克博


ちかごろ中国での出来事をニュースでみて、国とは何だろうかと思った。べつに大それたことを考えようというのではないが、ふと杜甫の詩を思い出した。  
國破れて 山河在り
城春にして 草木深し
時に感じて 花にも涙を濺ぎ
別れを恨んで 鳥にも心を驚かす
峰火 三月に連なり
家書 萬金に抵る
白頭掻いて 更に短かし
渾べて簪に 勝えざらんと欲す
 唐の時代(六一八年〜 九〇七年)、安禄山の反乱(七五五年〜七六三年)で国都の長安が戦火にさらされる。いまだ兵乱が続くなかで下級役人であった杜甫の心細い境地をうたっている。簡潔でリズムがいい、覚えやすいし長年たっても思い出す。杜甫は(七一二〜七七〇)唐の詩人、李白などと同時代の人らしい。
安禄山は唐の軍人だがサマルカンドの出身、ソグド人とトルコ系遊牧民の先祖をもつ。玄宗の時代に反乱を起こし首都を陥落させ一年ほど大燕皇帝を名のったが息子の安慶緒に殺害された。この反乱でも唐はどうにか崩壊をまぬがれたが徐々に衰退してついに九〇七年に滅ぶことになる。二八〇年余りの治世だった。唐が滅んで五代十国時代をはさみ五〇年あまりして宋の国がおこる。 

その宋(九六〇年 〜一二七九年)も一一二七年、満州族女真族の金に華北の首都、開封を奪われて南遷した。それまでを北宋、それからを南宋と呼ぶが北宋南宋ともに宋、趙王家の治世である。南に逃げての首都は臨安であった。北半分を異民族に奪われたが、それでも南宋には趙王家の家系と古代中国からの文化の継続性はあった。唐詩選で今日も見ることができる唐の詩人一二八人の総計四六五首の詩や古代中国から受け継がれた老子荘子孔子孟子などの思考体系、さらに孫子呉子などの兵法戦略思想、経世済民の政治思想、また唐代に太宗の言行録を編纂したとされる貞観政要南宋朱子学など日本が感化されたものを枚挙すればいとまがないほどだ。しかし、その宋もついに異民族のモンゴルによって滅ぼされる。 

国とは何だろうかと思う。国が戦火で焼かれて山や川の自然は変わらなくても異民族がやってきて新しい政府ができて彼らに支配されたら国はどうなるのだろう。民族が違えば生活習慣も文字も言葉も貨幣も宗教も変わる。王家の血縁は絶える。いろんなものが破壊され排除される。それまでの民族としての文化の継続はどうなるのだろう。 
 
モンゴル族の元が中華を支配したのは一二七一年〜一三六八年の九七年間、異民族支配に反抗する白蓮教徒が一三五一年に紅巾の乱を起こすと反乱は瞬く間に広がった。紅巾軍の一方の将領であった貧農出身の朱元璋(太祖・洪武帝)は南京を根拠に長江流域を統一し、明(一三六八年〜一六四四年)を建国した。洪武帝はただちに北伐を始め万里の長城以南の中国は明に統一される。江南から誕生した王朝が中国を統一したのは明が唯一である。


明は永楽帝の時代に大いに栄えた。北に遠征して韃靼を制圧した。満洲では女真族を服属させて、南方ではベトナムを征服した。さらにインド洋にまで鄭和に率いられた大艦隊を派遣し、一部はメッカ、アフリカ東海岸まで達する大遠征をおこなった。
しかし明にも終焉のときが来る。李自成は農民の反乱を起こして国都北京を陥落させたがすぐに満州族の清に滅ぼされる。サルフの戦いに勝利した満洲族ヌルハチは後金を建国、瀋陽都城として一六三四年に盛京(満洲語ムクデン)と改名した。その後、清と国号を変えた後金は一六四四年に明朝の滅亡後の中国を支配し北京を国都とする。

中国では古代からいくたびも王朝がかわり異民族にも征服された。清の末期はどうなったか、イギリス、ロシア、フランス、ドイツが侵入していた。あとから来た日本が満州国を再建する。出遅れたアメリカが介入して日本を追い出したが国共内戦の後、アメリカの当てが外れて共産中国になった。毛沢東は五〇年間に中国の伝統文化をどうしたのだろう。共産党無宗教、民族や祖国それに家庭の消滅さえ宣言していた。文化大革命は一〇年続いた。今の中国に唐や宋の文化の連続性はどうなっているのだろうかと思う。 

日本は魏志倭人伝に記されている邪馬台国卑弥呼のころは、すでに国のレベルで中国との行き来はあった。天皇家による統一国家がいつのころできたのかは知らないが遣隋使や遣唐使のほかにも私費でたくさんの仏教僧が留学した。中国からは国が変わるたびに大勢の人が民族移動のように日本に渡ってきた。中国だけではない百済が滅ぶときもそうだった。亡命とかいう単位ではなく難民とも違う、積極的に受け入れた移民だったようだ。
栄西(一一四一年〜一二一五年)は二度も海を渡って南宋に学んだが、栄西源頼朝のはからいで博多に日本で最初の禅宗寺院、聖福寺を建立していたころは博多には宋の人たちの街ができていた。筥崎宮のまわりにも香椎宮のまわりにも宋の人たちが移住していたようだ。博多の袖ノ港は日本最大の貿易港だったし箱崎にも香椎浜にも貿易船が出入りしていた。日宋貿易と言うが、案外に南宋と博多の宋人との宋宋貿易だった。南宋モンゴル族の元に国を盗られる。南宋の人は生活習慣も文字も言葉も宗教も建築様式も都市建設も、いろんな文化も一緒にもって、たくさんの人が博多に移っていた。日本は逃れてきた宋の人を受け入れ保護して同化していった。

日本は古代から多くの文化を中国から受け入れたが、都市を高い城壁で囲むことや宮殿を城塞にすることはなかった。官吏に宦官の風習もなかった。公用語は一つで国中どこでも共通の言語で会話ができる。お正月はお寺の鐘をきいて、いろんな神様の神社にお参りする。人が死んだら仏壇にお経をあげる。クリスチャンではないが結婚式には教会でアーメンとまじめにとなえるのがはやりだ。お稲荷さん、おくどさん、摩利支天、五穀神に恵比寿さま、修験道は、なぜか明治五年に国によって禁止されたままだがそれでも日本には八百万の神々がおわします。古代から、それだけ多くの異文化を取り入れて、仲良くまぜこぜに単一化する排除ではない受け入れの文化だ。
大規模災害が起きてもコンビニが略奪されないで行列で順番を待つし、年金が約束どおりに払われなくても、いつの間にか介護保険料とかを天引きされても暴動が起きない。国破れて山河あり、という。国とは、なんだかわからないが、古代から中世の中国の文化や道徳を受け継いで大切にしている日本はいまだに古代から続く天皇家をいただいている。
平成二五年一一月十四日