ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

今日は午前中、エッセイ教室だった。


    長崎に行った                      中村克博


 長崎のランタンフェスティバルを見に行った。寒かったが天気は良かった。新幹線に乗っていった。もともとは中華街の人たちが中国の旧正月を祝う行事だったそうだが、いまでは一五日間の期間中、一万五千個のランタンと、会場のさまざまなオブジェ、それに中国雑技団の演技が、訪れる百万人を魅了するようだ。中国本土からやって来た演技者たちが伝統的な曲芸を見せてくれる。すごい、寒さを忘れて見ていた。中華街の祭りを初めて見学した。おもしろかった。ホテルの窓から見た長崎の夜景が美しかった。妻の両親に新年の挨拶をまだしていなかったので、それが主旨だったが思いがけない小旅行になった。この祭りは、もともと長崎に住む華人旧正月を祝う祭りだった。新地の中華街で行っていた春節祭という祭りが一九九四年から長崎市全体での行事となって今のような大々的な祭りになったらしい。あくる日は長崎南端の軍艦島を見に行った。

 長崎中華街のことをWEBで調べると、
長崎新地中華街は、長崎県長崎市新地町に形成された中華街である。横浜中華街、神戸南京町とともに日本三大中華街と称される。
江戸時代の鎖国下でも長崎は対中貿易港として、最盛時には約一万人の福建省出身者を中心とした中国人が長崎市中に住居した。当時の長崎の人口は七万人であったから、いかに華僑が多かったかがわかる。その後、中国人の住居は丘陵地の唐人屋敷に限定されたが、一六九八年の大火で五島町や大黒町にあった中国船の荷蔵が焼失したため、唐人屋敷前面の海を埋め立てて倉庫区域を造成した。この地域が新地と呼ばれた。幕末の鎖国政策の放棄により、一八五九年長崎港は国際開放され、唐人屋敷は廃墟となり、在住中国人は海岸に近い新地に移り住むようになった。これが長崎新地中華街の起源である。

なるほど、それで肥前国天領長崎といえば…WEBを見ると、
   寛永一八年(一六四一)二月八日 福岡藩五島藩および大村藩に長崎警備を命じ参勤交代を停止する。これが長崎警固番役の初めだが、寛永一九年三月に佐賀藩が長崎警固番となる。翌年は福岡藩が命じられ、これ以後は両藩の隔年勤番となり明治維新をむかえる。
佐賀藩は長崎の南端に飛び地のような深堀領六千石を領していた。この 地を治める深堀氏は鎌倉時代から続き起源は佐賀鍋島氏より古い。長崎に近いため佐賀藩は深堀に長崎警護の現場指揮を委ねていた。長崎半島の南にある深堀には江戸時代から各地で石炭がとれていた。軍艦島で知られる端島は明治時代から昭和時代にかけて海底に炭鉱を掘り進め世界文化遺産に登録されているが一八六八年に佐賀藩とグラバー商会が共同経営で始めた高島炭鉱開発がその始まりである。明治七年、佐賀の乱により政府に取り上がられ官営となるが、そののち三菱に払い下げられ本格的な端島での石炭開発が始まったようだ。

 さらにグラバーについてWEBには、
グラバー商会はジャーディン・マセソン商会の長崎代理店に勤務していたグラバーが一八六一年五月に設立した。ジャーディン・マセソン商会の前身は東インド会社で設立当初の主な業務は清朝中国へアヘンの販売と茶のイギリスへの輸出だった。ジャーディン・マセソン商会は、アヘンの輸入を規制する清国政府と争いが起こるとイギリス本国に軍を派遣するためのロビー活動をおこなった。国会は九票の差で軍の派遣を決定し、清とイギリスとの間で一八四〇年から二年間にわたってアヘン戦争がおこなわれた。香港上海銀行HSBC)は、ジャーディン・マセソンなどが香港で稼いだ資金をイギリス本国に送金するために設立された銀行である。 

WEBを見ていると、ランタンフェスティバルから、えらいところへ飛んできた。香港上海銀行HSBC)とはどんな銀行なのだろう。
  一八六六年には日本支店を横浜に設立し、その後神戸、大阪、長崎にも 次々に支店を開設した。日本政府の貿易金融政策の顧問業務を担い、大阪造幣局における金銀通貨の造幣にも協力した。横浜正金銀行(後の東京銀行東京三菱銀行三菱東京UFJ銀行)がその体制を作る際には、香港上海銀行がモデルとなったし、香港上海銀行も支援した。
 
 横浜正金銀行といえば、
   貿易金融・外国為替に特化した銀行であり、明治維新後急速に成長し、やがて列強の仲間に加わっていく日本を国際金融面で支え、香港上海銀行、チャータード・マーカンタイル銀行と並ぶ外国為替銀行へと発展していった。日清戦争後には清国からの賠償金の回収 (送) 業務などにあたり、いずれも明治政府の財政・金融政策に対応して重要な役割を担うとある。第二次世界大戦の敗戦後の一九四六年(昭和二一年)にGHQによって解体・清算された。そういえば清国からの賠償金といえば…、WEBを見ていると次々ときりがない。

明日のエッセイ教室にだす原稿を書こうと思ってWEBを見ていたら、エッセイは書かずにとんでもないところに流れ着いた。もう寝る。

平成二九年二月三日