ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

昨日の金曜日は、午前中エッセイ教室、夕方から居合の稽古。

なんとも暑い日が続くが、エッセイ教室の室内は冷房が効きすぎて寒い。
教室で途中からジャケットを重ねた。夏の外出には室内での冷房対策がいる。
夕方の居合の稽古では汗が出続けた。持参したペットボトルの麦茶を二本飲んだ。


エッセイ教室に提出した原稿は、今回も貝原益軒の資料集めだった。
エッセイらしい文章は、末尾の数行がそれらしい。


貝原益軒のころ                  中村克博


 貝原益軒が生きた期間は、一六三〇年十二月十七日から一七一四年十月五日まで(寛永七年十一月十四日〜正徳四年八月二七日)の八十四年間になる。死にのぞんで「越し方は一夜(ひとよ)ばかりの心地して 八十(やそじ)あまりの夢をみしかな」とよんだらしい。四十五年連れ添った東軒さんは前年に先立っていた。益軒が生きた八十四年と同時代の徳川将軍はと調べてみると四人が該当した。
江戸幕府第三代将軍、徳川家光
在任期間は一六二三年 から一六五一年。生誕一六〇四年八月十二日〜死没一六五一年六月八日(慶長九年七月十七日〜慶安四年四月二十日)。
四代将軍、徳川家綱
在任期間は一六五一年から一六八〇年。生誕一六四一年九月七日〜死没一六八〇年六月四日(寛永一八年八月三日〜延宝八年五月八日)。
五代将軍、徳川綱吉
在任期間は一六八〇年から一七〇九年。生誕一六四六年二月二十三日〜死没一七一二年一一月一二日(正保三年一月八日〜宝永六年一月十日)。
六代将軍、徳川 家宣、
在任期間は一七〇九年から一七一二年。誕生一六六二年六月一一日〜一七一二年一一月一二日((寛文二年四月二五日〜聖徳二年一〇月一四日)。
 

島原の乱寛永十四年十月二十五日(一六三七年十二月十一日)に勃発している。キリシタンの籠城軍総計 約三万七千人、それを攻撃する幕府派遣軍は九州諸侯の増援を得て十二万以上の軍勢に膨れ上がった。寛永十五年二月二十八日(一六三八年四月十二日)の総攻撃で原城は落城。天草四郎は討ち取られ、一揆軍は皆殺しにされて乱は鎮圧された。
 この時期にたくさんの大名がお取り潰しになったようなので、その数を数えてみた。三代将軍、家光の時代に改易された大名は四十八家におよぶ。四代将軍、家綱の時代に改易された大名は二十三家、五代将軍、綱吉の時代に改易された大名は三十一家、六代将軍、家宣の時代に改易された大名は三家のみ、そのあと明治維新までに改易された大名は十七家、ちなみに二代将軍、秀忠の時代に改易された大名は四十五家だったので綱吉までの百年余りで百四十七家の大名がお取り潰しになっている。

 元禄年間は一六八八年から一七〇四年までの十六年間を指すが五代将軍徳川綱吉の在任中がそれに重なる。
この期間に起きた主な出来事は、
元年一月、井原西鶴が「日本永代蔵」を刊行する。十一月には柳沢吉保側用人に就任している。 
二年三月、松尾芭蕉河合曾良が江戸深川から奥の細道の旅に出て同年の八月には大垣で奥の細道の旅を終えている。「捨て子禁止令」なるものが発令される。捨て子が多かったのだろうか。生類憐みの令はこの数年前にすでに発令されている。犬だけでなく牛馬、魚、鳥、亀、イモリまで殺生はおろか大切にするようにとの法令で違反すると磔や遠島にもなる厳しいもので世界に先駆けた動物愛護の法律だ。
六年十二月、新井白石甲府藩主徳川綱豊(徳川家宣)の侍講となる。七年二月、高田馬場の決闘。助太刀をした堀部武庸が評判になる。赤穂浪士堀部安兵衛はこの武士と同一人物らしい。 
八年 十一月、江戸の野犬が中野に設置した犬小屋に収容される。一時期には八万頭を超えたら幕府の財政にも影響が出るほどだったようだ。
十五年十二月十四日に赤穂事件(赤穂浪士の討ち入り)がおきる。五月、近松門左衛門の「曽根崎心中」が初演されている。
 

 そのころ貝原益軒の仕えた筑前黒田藩は、どのような治世であったのかを調べてみると三人の藩主と時代が重なる。
筑前福岡藩の第二代藩主黒田忠行、
在任期間は一六二三年から一六五四年。生誕一六〇二年一二月二二日〜死没一六五四年三月三〇日(承応三年二月一二日〜慶長七年一一月九日)。
筑前福岡藩三代藩主、黒田光之
在任期間は一六五四年から一六八八年。生誕一六二八年六月十七日〜一七〇七年六月十九日(寛永五年五月十六日〜宝永四年五月二十日)。
黒田光之の長男黒田綱之は、
将軍徳川家綱より偏諱を賜って、長良から綱之に改名するが、延宝三年(一六七五年)突如として廃嫡され、剃髪得度し蟄居を命じられる。代わって、弟の長寛(綱政)が嫡子となった。
筑前福岡藩四代藩主、黒田綱政
在任期間は一六八八年から一七一一年。一六五九年九月二七日〜一七一一年八月二日(万治二年八月一一日〜正徳元年六月一八日)。


この時期に筑前黒田藩で起きた有名な出来事といえば黒田騒動だろう。二代藩主黒田忠之は、軍船鳳凰丸の建造をはじめ足軽隊の増強など幕令をはばからぬ行為が多く、幕府の大名取りつぶしに口実を与えかねなかった。そのような時期に筆頭家老栗山大膳は、寛永九年(一六三二)、藩主忠之に逆意ありと幕府に訴えた。藩の取りつぶしを防ぐための策略で、大芝居を打ったとの見方もあるがどうだか真相はわからないと思う。  


博多の豪商で伊藤小左衛門が起こした事件がある。事件が発覚したのは寛文七年(一六六七年)ころ、朝鮮の済州島近海に鄭 成功(てい せいこう、チェン チェンコン)配下の商船が盛んに出没していた。伊藤小左衛門はその商船と禁制の武器を抜荷していたのをとがめられる。たぶん硫黄だろうと言われるが、これにより、全部でおよそ百五十人ほどの者が捕えられた。小左衛門と浅見七左衛門の二人は磔刑となり、四〇数人の者が斬首・獄門などの死刑、同じく四〇数人が在所からの追放に処された。小左衛門の子である二人の男児も縁座させられ、そのうち長崎にあった一人は父と同日に長崎で斬首。博多にいたもう一人は、長崎奉行から福岡藩に命じ、博多で斬首。博多の高木惣十郎は福岡藩の手で捕え長崎にて処刑。対馬の小茂田勘左衛門は、近江大津で捕えて京都の牢舎に入れ、ついで大坂に廻し、その後、長崎奉行所で磔とする旨の判決を下した上で、対馬で刑の執行が行われた。何とも大掛かりな事件だが意外と知られていない。僕も今回初めて知った。博多の豪商といえば島井宗室、神屋宗湛、大賀宗博などが有名らしいが、この伊藤小左衛門はこれらよりも数段規模の大きい豪商だったようだが、知られていない。何故だろうと思う。


鄭 成功(てい せいこう、チェン チェンコン、(一六二四年八月二七日〜一六六二年六月二三日))は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃や歌舞伎にされ『国姓爺合戦』でこの時代に有名になる。鄭は中国明代の軍人で政治家。出身は福建省泉州市。新興国の清に圧迫される明を助け、台湾を占領していたオランダ勢力を追い払った。鄭成功の功績に隆武帝は明の国姓である「朱」と称することを許したことから国姓爺とも呼ばれた。鄭は日本の平戸で父鄭芝龍と日本人の母田川マツの間に生まれた。鄭芝龍は福建省泉州府の人で、平戸老一官と称し、平戸藩主松浦隆信の恩恵をうけて平戸の川内浦に住んでいた。

貝原益軒の生きていた時代は江戸も福岡もおもしろい出来事が満載だ。調べればいくらでも出てきそうだし、奥が深そうだ。ただ、そのような事件や出来事が起きた理由が今一つ僕には納得できない。もうかなり前になるが能古島の山道を車であちこちと回っていたら集落の高台の奥まった林の中が開けていて、キリシタン墓地があった。車から降りて墓石を見てまわるとかなり古いものがあったような記憶がある。福岡藩にも隠れキリシタンがひっそりと住み続けていたのかもしれない。近隣の歴史でも知らないことばかりだ。
平成二九年七月二十日