ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

きのう天神に行った。

チョコレート屋についていった。

見たこともないチョコレートがあった。試食した。おいしかった。

試食しただけで帰ろうとするので、食い逃げや、と言うと
板チョコを2枚買っていた。


午前中、エッセー教室だと思って出かけた。
西日本新聞TNC文化サークルに行くと照明が暗かった。
今日は第五週の金曜日、休講だった。36度の炎天下、帰って来た。


今日出す予定だったエッセイの原稿は…


雪隠忠吉の名誉回復                 中村克博


 一月ほど前の昼すぎだった。高校時代の友人が久しぶりに八木山に立ち寄ってくれた。飯塚に所要がある途中下車らしい。あいにく妻は留守、もてなしはできないがお茶ぐらいは出したと思う。たわいない話の中に僕は先日から気に留めている雪隠忠吉の故事にふれた。
肥前忠吉に拵えをつけて居合の稽古に使おうと思っている。鞘書きには初代忠吉とあるが鑑定書には五代と書いてある。それはいいのだが、五代の先代、四代忠吉には不名誉な逸話があるらしい。あるとき、所用で数日間旅をしたが、用事が早く終わり、予定を早めて深夜帰宅してみると、なんと細君は一番弟子と同衾していた。妻と菊平の不貞を目撃した四代忠吉は弟子の菊平を斬殺し、逃げ惑う妻を雪隠まで追いつめて刺殺した。忠吉にお咎めはないが、この事件が世間に伝わると四代忠吉は「雪隠忠吉」と揶揄されるようになったらしい。
これまで僕の話を聞いていた友人が、
「その話、どうも、おかしいぞ」と言う。
「なんで」
「雪隠忠吉とか言われて、誰も腰に差す気がせんやろ」
「うん、そうやね」
「忠吉は鍋島のお抱え刀鍛冶やろう、有田の陶器や忠吉の刀は将軍家や大名への贈答品として使われとったなら」
「そうか、お祝いなどで送られた忠吉に、将軍さんもいい気持せんやろね」
「どうも、なんかありそうやね」
「なにせ、セッチン、雪隠忠吉やしね」
「そしたら、忠吉の家はお取り潰しばい」
「ところが、五代、六代と八代まで、いや明治まで九代続いたらしい」

 この日の話は、これまでだったが、それから一ヶ月以上になる。いずれ、刀の拵えができれば五代忠吉は居合の稽古でお世話になるし、家ではいつも身近に置くようになる。それで、なんとか雪隠忠吉にまつわる因縁をもう少し調べてみようと思った。まず、この四代忠吉の生きていた時代はどんなだったのだろう。

四代忠吉  寛文八年(1668)〜延享四年(1747)
 三代の嫡子として生まれ、通称は源助、父の没後は父の通称である新三郎を名乗る。元禄一三年(1700)に近江大掾を受領、八〇歳で没、とある。
そして、五代忠吉  元禄九年(1696)〜安永四年(1775)
四代の嫡子として生まれ、通称は初代、二代と同じ新左衛門。四代が存命のうちは作刀に忠広と名を切るが、没後は忠吉を切る。寛延三年(1750)、五五歳のとき近江守を受領、八十歳で没は父と同じ。

長崎喧嘩騒動(深堀事件) 元禄十三年十二月十九日(1701年1月16日)
肥前国天領長崎で長崎会所の町年寄である高木彦右衛門の使用人と佐賀藩深堀領の家中の間に起こった本当に些細な落ち度から始まった大事件。深堀の武士が集団で高木屋敷に討ち入りし彦右衛門の首を槍先に突き刺して深堀屋敷へ引き上げた。本懐を遂げた深堀三右衛門は高木邸の玄関の式台で切腹、世に広まる大事件になった。
深堀武士一〇名が死罪切腹。九名が五島列島各地に遠島。高木彦右衛門の息子である彦八郎は家財屋敷没収、長崎五里四方追放、江戸・京・大坂の居住禁止。五島町深堀屋敷へ押し入った高木家の使用人八名は死罪斬首。

赤穂浪士事件  元禄一五年一二月一四日(1703年1月30日)
この事件は、一般に「忠臣蔵」と呼ばれるが、「忠臣蔵」という名称は、この事件を基にした人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、および、この事件を基にした様々な作品群の総称である。

江島生島事件  正徳四年一月一二日(1714年2月26日)
江戸時代中期に江戸城大奥御年寄の江島(絵島)が歌舞伎役者の生島新五郎らを相手に遊興に及んだことが引き金となり、関係者千四百名が処罰された綱紀粛正事件。絵島生島事件、絵島事件ともいう。

海舶互市新例  正徳五年(1715年)
拡大する長崎貿易の輸入に金銀が多用されたが、国際標準価格からみれば日本の金や銀は、三分の一から四分の一値段、この結果、日本の国内通貨量のうち金貨の四分の一、銀貨の四分の三が開幕から元禄までの間に海外に流出した。そのため新井白石は、清とオランダの船に海舶互市新例を定め貿易額を制限した。

雪隠忠吉  正徳五年七月一八日(1715年)
伊賀守菊平と密通した妻を雪隠まで追い詰めて殺害した。

葉隠  江戸時代中期(1716年ごろ)
肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基が筆録しまとめた。全十一巻。葉可久礼とも、『葉隠聞書』ともいう。

近松 門左衛門  承応二年(1653年)〜 享保九年(1725年)
浄瑠璃及び歌舞伎の作者。浄瑠璃は一一〇あまり、そのうち二四の作が世話物である。歌舞伎の作では三〇あまりが認められる。
曽根崎心中』 - 元禄一六年(1703年)
『国姓爺合戦』 - 正徳五年(1715年)
『平家女護島』 - 享保四年(1719年)
心中天網島』 - 享保五年(1720年)

大坂の陣  冬の陣、慶長一九年(1614年)、夏の陣、慶長二〇年(1615年)

元和偃武(げんなえんぶ)  慶長二〇年(元和元年・1615年)
江戸幕府大坂城主の羽柴家(豊臣宗家)を攻め滅ぼしたことにより、応仁の乱以来一五〇年近く断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了したことを宣言した。

島原の乱  寛永一四年一〇月(1637年)〜 寛永一五年二月(1638年)
江戸時代初期に起こった幕末以前では最大規模の内戦である。

四代肥前忠吉のころに起きた大きな出来事をインターネットで調べてみたのだが、おおまか右のようになった。島原の乱を最後に日本からは戦乱はなくなった。雪隠忠吉なる事件は正徳五年七月一八日(1715年)に起きているので島原の乱からは七七年がたっている。当初この事件には何か裏があるような気がして、おもしろい小説の材料にならないかと触手が動いたが、それよりは別の考えに思いいたった。

大阪の陣から百年、島原の乱から七七年も戦乱はない。平和な時代が続いているのは今の時代と似ている。衣食住がみたされ戯曲、演劇、小説、俳諧、絵画、彫刻、蒔絵、漆工、染織、音曲などが発展した。街道、往還も整備され安全で庶民の旅行も盛んになった。倹約令がしばしば出るほど平和なのである。刀の出る幕はない。
五代将軍綱吉の元禄期には、将軍が大名屋敷へ盛んに訪問するようになり、その際に贈答する鍋島の需要が高まった。佐賀鍋島藩では将軍家献上という特別な目的の藩窯を伊万里の大川内山に移転させた。刀の時代は終わっていた。乱世を生き抜くために必要だった武士の存続意義が平和な世では不安定になっていた。
しかし、歴史の潮流には反動も起きる。赤穂浪士事件や長崎喧嘩事件はいずれも不法者のテロ事件でもあるのに世間からは称賛された。佐賀の葉隠は禁書になるほど問題視されながら広く書き写され読まれた。それに剣術も平和な時代になって研究がすすみ各流派の勃興がおきたのもこのころだ。嫡男が家督を相続し統率する家父長制は家族形態の一つだが幕藩体制の基礎になっている。家父長制の仕組みは武士の存在意義に根差している。それがゆらぐと幕藩体制のよってたつ根拠が問われることになる。そのためか朱子学が奨励され武士階級の倫理・道徳など価値基準が体系付けされはじめる。切腹は忠義、面目、覚悟、正々堂々、卑怯未練のないさま、などが作法として昇華されたのかもしれない。
そうか、雪隠忠吉の時代は平和な時代が七〇年以上も続いていた。そして今と同じように社会のあり方が問われていた。国や家を維持するための社会的な役割を模索している時期だったのだろう。さて、雪隠忠吉の嫡男五代忠吉だが、僕は四苦八苦しながら、この「気楽にエッセイ」を書いていて五代忠吉のことが少し想像できた。そして、この刀が気に入った。この忠吉の刀は少し擦り上げて目釘穴が二個ある。きっと何と言われようと頓着しない気楽な武士が愛用していたのだろう。 

平成二八年七月二八日