ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

今日はエッセイ教室の日だった。

今日の原稿は


       友人からの電話で、           中村克博


 昨日の夜八時ころ友人から電話がかった。いま、NHKのBS3で貝原益軒の歴史番組があっているので観るようにと言う。BSプレミア二〇一七年十月十八日(水) 午後八時から午後九時まで、六十分のドキュメンタリー歴史・紀行で「養生訓」を扱っていた。著者の貝原益軒は八十四歳で抜けた歯が一本もなく健康そのもの。その秘けつは夫婦旅にあった。益軒の健康長寿の知恵を現代科学の目で検証するそうだ。 
江戸の儒学者貝原益軒の記した「養生訓」には「腹八分目」「酒はほどほどに」など今では常識となっている健康の知恵が詰まった健康本だとの紹介があった。益軒が病弱だった妻を支えるため、あらゆる健康法を夫婦で実践し、その効果を検証したが、それらを現代科学の目で見てみると、カロリー制限が及ぼす「長寿遺伝子」への影響や、夫婦仲と心筋梗塞リスクの相関関係など、今の私たちにも役立つ健康のヒントが浮かび上がってくるとの内容だった。
友人は僕が最近、貝原益軒の生きていた時代の社会状況を調べていることを知っている。それで、たまたまテレビで益軒のことが眼に留まったので親切に知らせてくれたのだろう。ありがたいことだ。なぜか分からんが、自分が取り組もうとしている課題に、まわりが気にかけてくれるとモチベーションアップにつながるのは不思議な心理だ。

ウイキペディアを見ると、
貝原益軒は一六三〇年十二月十七日(寛永七年十一月十四日)に生まれて、一七一四年十月五日(聖徳四年八月二十七日)に没した。江戸時代の本草学者、儒学者筑前国、福岡黒田藩士、藩の祐筆であった貝原寛斎の五男として生まれる。名は篤信、字は子誠、号は柔斎、損軒(晩年に益軒)、通称は久兵衛とある。七十歳で役を退き著述業に専念。著書は生涯に六十部二七〇余巻に及ぶ。主な著書に『大和本草』、『菜譜』、『花譜』といった本草書。教育書の『養生訓』、『大和俗訓』、『和俗童子訓』、『五常訓』。紀行文には『和州巡覧記』がある。

また、『大和俗訓』の序に「高きに登るには必ず麓よりし、遠きにゆくには必ず近きよりはじむる理あれば」とみえるように、庶民や女子及び幼児などを対象にした幅広い層向けの教育書を著したとあるのだが、手元にある岩波文庫の「大和俗訓」は、開いても小さな字で読みにくいが、読んでも何が書いてあるのか僕にはよくわからない。江戸時代の初めのころ庶民や子どもに向けて書いたそうだが、当時の福岡の人はすごいと、ほんとうだろうかとさえ思う。

思想書としては、一七一二年(聖徳二年)の『自娯集』、教義・道徳・教育等の意見を著した『慎思録』、朱子学への観念的疑問等を著した『大疑録』などがある。辞世の句は「越し方は一夜(ひとよ)ばかりの心地して 八十(やそじ)あまりの夢をみしかな」。
貝原益軒の生きていた頃はどんな時代だったのかを勉強しているが、益軒そのものを研究しようとか、そんな大それたことは思ってもいない。個人に興味がある訳でもない。たくさんの著作がインターネットでも手に入るが、難解で僕には理解できない。
関ヶ原の戦いが一六〇〇年、大阪の冬の陣、夏の陣が終わったのが一六一五年、島原の乱が一六三七年〜一六三八年(寛永十四〜十五)だから、貝原益軒が世に出た頃は、身近な戦がなくなって五十年から七〇年以上も経過したころで米の収穫が倍増し人口が増えた。ちょうど今の我々と同じように平和が長く続いた時代だった。新田の開発や金銀鉱山の採掘が盛んで、国内の商工業が拡大発展して貨幣経済が熟成していた。財政が逼迫しているのも今と同じだ。
 インターネットでこのころの江戸を調べると、
1、江戸幕府初の財政赤字
2、貨幣改鋳によるインフレ
3、初期商人の大名貸の行き詰まりと新興商人の台頭
4、大坂の海運業の発達。京都から大坂へ 
5、職種の多様化・細分化・組織化の進行
美術では、尾形光琳本阿弥光悦野々村仁清が活躍した。人形浄瑠璃や歌舞伎、俳諧などが盛んになり、井原西鶴近松門左衛門竹本義太夫坂田藤十郎市川団十郎松尾芭蕉などがいる。学問では儒学が発達し、湯島聖堂が設立され、医学・暦学・農書・和算などが普及した。そして、それらを普及させるため商業出版が行われるようになったのもこの頃らしい。 

貝原益軒と同時代に生きた人に松尾芭蕉がいる。生まれは寛永二十一年(一六四四年)没したのは元禄七年十月十二日(一六九四年十一月二十八日)現在の三重県伊賀市出身。病中吟と称して「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」はよく知られている。伊賀国(現在の三重県伊賀市)で生まれたが、実はその詳しい月日は伝わっていない。出生は、伊賀の土豪一族出身の父・松尾与左衛門と、百地(桃地)氏出身の母・梅の間に次男として生まれる。母の父は伊賀流忍者の祖の百地丹波とされ、百地丹波の孫としての忍者説がある。
徳川幕府の隠密として仙台藩の動向を調べるべく、俳諧の指導を大義名分に仙台藩に謀反の兆候がないかを調査していた。豊富な旅の資金や関所の通過などは幕府の後ろ盾があって可能である。旅当時はまだ四十代であるが健脚で移動速度がとても速い。「奥の細道」の旅の総移動距離は約二四〇〇kmで、総日程が約一五〇日となってる。これらの数値から一日あたりの移動距離を割り出すと二四〇〇割る一五〇=一五kmで、当時の単位に換算すると約四里となる。しかし、この総日程にはまったく移動しなかった日が含まれてる。つまり、一五〇日ずっと移動していたわけではないのだ。そのため、一日で五〇km以上も移動している日があることになる。年齢的には壮年に差し掛かっていた芭蕉が、これほどの移動距離を一日で歩くのは常人では無理があると考えられる。という説がみられる。

江戸時代初期には旧豊臣系大名を中心に大名廃絶政策が取られたために、家康、秀忠、家光の三代の時代に外様大名八十二家、親藩譜代大名四十九家が改易された。関ヶ原の戦い以降、江戸時代を通じて外様大名百二十七家、親藩譜代大名百二十一家の計二百四十八家が改易されている。大坂の役で豊臣家が滅ぼされて以後、武力抵抗をした大名は皆無であり、全て無抵抗で城と領地を幕府へ明け渡している。
福岡黒田藩では黒田騒動というのがある。一六二三年(元和九)藩主となった忠之は、ご法度の外洋軍船鳳凰丸を建造し足軽隊の増強など幕令をはばからぬ行為が多かった。家老栗山大膳はしばしば忠之をいさめたが聞かず。一六三二年(寛永九)大膳は豊後府内藩主竹中采女正とともに江戸にのぼり、忠之に謀反の心ありの旨を幕府に訴え出た事件がある。
また少し後になるが、博多の豪商伊藤小左衛門は、寛文二年(一六六二)から、寛文六年(一六六六)の間に七回の密貿易(朝鮮への武器の輸出)を行っていた事により寛文七年(一六六七)六月二十五日長崎でとらわれた。この事件で捕らえられた人数は大阪、博多、長崎で二百七十人あまり、西国一帯を股にかけた大密貿易団だった。

貝原益軒の年譜を見ると、生まれたのは福岡城内の東邸とある。八歳のとき父に従い穂波郡八木山の知行所に移り数年を過ごし勉学に勤しんで平家物語、保元・平治物語などを読んだらしい。十一歳のとき父に従い新大工町に移る。百人一首を与えられ暗唱するとある。十五歳のとき薬院に移る。それまでに太平記、四書を読み経学に志す。父より医学正伝・医方撰要・万病回春などの医書を授けられる。十八歳のとき小学を読むとある。
十九歳のとき初めて国主黒田忠之に近侍する。四人扶持。父に従い江戸に行く。二十歳になり公宅にて元服する。国主に従い海路長崎に赴く。忠之の咎めをこうむり閉居すること十五日、四カ月の謹慎をうける。二十一歳のときに再び忠之の怒りに触れて罷免される。これから数年体調を崩し病がちになる。以後七年におよんで無職となるが、この間、長崎に度々出かけて遊ぶとある。二十六歳のとき、大阪、奈良、京都をへて江戸に入る。江戸に入る前に髪を剃って柔斎と称する。藩邸にいること一年半、黒田一貫以下の重臣から厚遇される。幕府の儒者などと交友する。翌二十七歳のとき父に従い西下し伊勢神宮を拝して京都にいたり福岡に帰る。国主光之に拝謁し仕を復せられる。六人扶持。二十八歳のとき、海路大阪に至り京都に入る。松永尺五、山崎寛斎を訪ねる。三十歳のとき、伏見で国主光之に拝謁する。俸禄十石の加増があった。
どうも、なんだか、貝原益軒が国主忠之の怒りをかって浪人していた頃、七年ほどが記録の空白だ。徳川幕府の大名お取り潰しの真っただ中のこと、若かりし益軒は病弱を装い黒田の密偵として江戸の様子を探っていたのではあるまいか、もしも、そんな想像ができそうなら、おもしろい空想でしばらくは遊べそうだが・・・
平成二十九年十月十九日