ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

先週の金曜日、エッセイ教室に「栄西と定秀と為朝」の続きをだした。

いくつかの疑問点を指摘された。
◎「ようそろ」という言葉の時代検証はどうだろう。
◎唐泊りに防波堤はあったのか、長い桟橋はあったのか・・・
◎宋船には艦橋があったのだろうか・・・


それで、調べてみた。
◎まず「ようそろ」の語源と歴史、
 「宜侯」は、左右に向ける必要なく真っ直ぐに進め、というときに使う。 読んで字の如く「宜しく候」である。
 これは足利時代の八幡船に使っていたのが、そのまま受けつがれてきたものとされている。 
 引用 『別冊1億人の昭和史・日本海軍史』
 平安末期から鎌倉のはじめに、「ようそろ」という海事語があったか否かはわからない。
◎唐泊りに防波堤は・・・
 袖の港付近の博多古図というのがる。
 オリジナルではないようだがいく種類かあった。
 平清盛が造った日本最初の貿易港ということになっている。
 宋船が接岸できる石組みの岸壁があるようだ。防波堤もある。
 平安末期に築港のための護岸工事や港湾設備はできたようだが唐泊の様子はわからない。
 
◎宋船には艦橋があったのだろうか、
 宋船の絵を書いた図や模型写真はたくさんある。   右はNHKドラマ平清盛で使われたもの、於、博多港
 当時の船の構造上、舵の近くに艦橋をもってきたようだ。艦橋の形はヨーロッパのカタロニア帆船と同じようだ。

栄西と為朝たちが博多湾を横断して、唐泊りに行った小早船は下の図、唐泊を出てからは上のような船だったろう。

小型の帆船で帆桁が下部にないものは、向かい風でもかなり上れたようだ。




     栄西と定秀と為朝(続き)                    中村克博


 少し高くなった朝日にときおり薄雲がかかっていた。満ち潮で宋船は浜辺からかなり離れて停泊していた。陸から細長く伸びた桟橋がそこまでとどいていた。栄西は船を乗り変えるための身支度を始めた。為朝は席を立って甲板におりた。宋船を見上げるとおだやかな陽の光に照らされて船尾の艦橋がひときわ高く見えた。一〇人の供回りの武士たちも、みんな立ち上がって大きな船を見ている。水夫たちはそれぞれが接舷の準備に忙しく動いていた。 
宋船の船べりは手すりが船首から船尾まで長く渡されていて、宋服の船乗りたちが、大勢こちらを見ている。手すりに寄り添い両肘をついてこちらを見ている者、帆柱を支える綱を片手で持ってこちらを見ている者も数人いる。手すりは波よけの役目もしていて格子ではなく板張りになっている。手すりに阻まれた甲板の様子はわからないが、いろんな作業をしている多数の水夫が見える。船はゆっくり近づいた。
「ようそろぉ〜・・・、よそろぉ〜」
為朝は声がした艫屋形(ともやかた)の方を向いた。船頭は為朝と目が合うと頭をすこし下げて会釈した。為朝はそれににこやかな眼差しで応えてふたたび宋船に顔を向けた。宋船から舷側の中程に網(あみ)が下ろされた。太い綱で網目(あみめ)が大きく、数人がいちどに登れそうだった。為朝の乗る船が宋船に近づいた。艫屋形(ともやかた)から船頭の声がした。 
「櫓を仕舞え」
櫓棚から水夫が櫓を甲板に運び上げた。同時に他の水夫は船ばたから防舷材をおろした。宋船から舫い綱(つな)が船首と船尾に投げられた。投げられた舫い綱(つな)を水夫が引いて船は宋船の舷側に静かに収まった。 
「かかれ」
さらに船頭の声がして二人の水夫が機敏に網(あみ)を伝い宋船に上り、網(あみ)の両端に立つとすばやくあたりを見回して合図した。供回りの武士が五人ずつ二手に分かれて網を上っていった。船べりにいた宋の人たちが武装した兵士が登ってくるのに警戒して少し後ずさりした。船頭に別れの挨拶をしている栄西を為朝は網(あみ)に手をかけて待っていた。 
「どうぞ、お先にお上りください」
「おさきに、しつれいします」
為朝は栄西をかばうように後ろから上った。その様子を見届けるように為朝のそばをつねに離れずにいた武士が一人、船頭に目礼して二人の後につづいた。為朝たちを送り届けた船はそのまま回頭して港を出ていくのが見える。眼光の鋭い日焼けした男が笑顔で、甲板に降りた栄西の前にでて挨拶をしている。栄西と話をしていた宋人は為朝の方に近づいて挨拶をする。
「いまは筥崎に住まいしております。船長(ふなおさ)の丁国安と申します。壱岐の島までご一緒させていただきます」
はっきりした和語で挨拶をしたが丁国安という名前だけは宋の国の発音なのか聞き取れなかった。臨安(杭州)の出身でそこにも家族や住まいがあるらしい。博多にはこのような自前の船をもった綱首(ごうしゅ)いわれる宋の商人たちが多く居住して袖の港や箱崎、香椎の港の付近には南宋の人たちの街ができて賑わっていた。為朝は名のりを省いたが船長と語り始めた。
「ご足労をわずらわしました。これよりさき壱岐の島までよろしく願います」
「海もおだやかです。ご安心ください」
「この港で硫黄を積んでおるのですか」
「はい、硫黄は底荷として、いつもは最初に積むのですが此度は手配が遅れました。硫黄は鬼界島(薩摩硫黄島)から遠く博多まで運ばれてまいります」
浜からのびた長い桟橋にはマコモで編んだ入れ物を肩に担ぐ人夫が後から後からこちらの方に続いていた。長い桟橋の先端には船の長さと同じ程の浮き桟橋があって、その浮き桟橋に宋船は舫いをとっていた。浮き桟橋には黄色い硫黄が五ヶ所に分かれてうず高く積まれている。風向きが西に変わったが硫黄の匂いはしなかった。
「硫黄は火薬の原料ですが、宋では戦での入り用が多いのですね」
「いまは西夏との戦いに用いるようです」
「どのような使い方をしますか」
「火箭とか火球には砒素やトリカブト、桐油、歴青などをまぜ敵を燻します」
 「船戦ではどのように使いますか」
一瞬だが丁国安の眼差しが止まり笑顔がかたまったのを為朝は見た。会話はとだえたが為朝は応えが返るのをまった。船長はためらいをやめて話し始めた。 
 「弩弓の先に大きな火薬壺の火箭をつけて飛ばすものがあります」 
 「さらに進んだ考案はどのようですか」
 「投石器から火縄のついた鉄の容器を飛ばすものもあります」
「威力はすざましいでしょうね」
「それはもう、撃てば一五〇斤の鉄玉を飛ばし、発する音は天地を震わせ、燃え上がらぬ物はありません。人も馬も建物も木っ端微塵にしてしまいます」
 風が少し出てきた。栄西が艦橋に案内されているのが見える。艦橋は二段になっていて船尾の上段には物見の水夫が三人ほど浜辺の方や港の外の海を警戒していた。船尾最上段の手すりの外側左右には旗竿があって、真紅の流れ旗をくくりつけている水夫が見える。その中央にはひときわ高い旗竿が、これは艦橋の手すりの内にあって船じるしの入った幟(のぼり)が軽くはためいていた。
 為朝は船の上を歩きながら船の艤装を見て回った。付き添う丁国安にときおり問いかけた。先ほどの話にあった弩弓や投石器を見たいといったが、この船には装備していないと応えた。それに火薬の壺は取り扱いに注意がいること、ましてや火薬の詰まった鐘の火鉢などとんでもないと、剽げるように言った。
主甲板の中ほどから水夫頭(かこがしら)の号令が響いた。宋の言葉だった。為朝のそばにいつもいる警護の武士は宋の言葉も少し理解できる。
「船首の舫いを解くようです」
船は船首が浮き桟橋から徐々に離れていった。
「風の向きがいい、離岸が容易だな」
「艫綱(ともづな)を風にあわせてゆるめ、徐々に前の帆を少しだけ上げます」
今度は丁安国が為朝に和語でさとすような口調で説明した。為朝はうなずいた。 

為朝は伊豆の大島を逃れ紀伊の熊野に二〇年ほど潜んでいたが、そのうちの十年あまりは熊野灘を筵帆一枚の小早船で帆走する日々を過ごしていた。潮岬をまわり鳴門をこえて播磨灘まででたことも一度や二度ではなかった。船に慣れ親しんだ水夫を配下に集めたが、この中には伊豆の大島以来の付き従う水師たちもいた。弓や打ものの巧みな武士を船乗りに仕立てて采配し、仲間の熊野水軍の小早船との模擬戦に参加した。潮を頭に入れ風を読んで敵の動きを見て機にのぞみ変に応じる機微を身につけ水軍の将としての技量をたかめていた。
二一代熊野別当行範は承安三年(一一七三年)に死去した。その妻、鳥居禅尼は夫の菩提を弔いつつ熊野水軍の要の地位を占めていた。鳥居禅尼が為朝と父親を同じくする実の姉であっても、身分が知行地を持たない流離い(さすらい)の食客である為朝には生きる糧はかぎられる。施しはありがたいが、そのうち自分で扶持を稼ぐ手立てを思いついた。はじめの頃は熊野灘を行き交う輸送船の護衛を小早船を使って請け合っていたが、いつしか持ち船も増えて昔なじんだ駿河、相模までもでかけるようになった。
壇ノ浦の海戦に熊野水軍は二〇〇余艘をもって源氏の旗で参戦したが為朝は熊野を動かなかった。平氏が滅んだのち鎌倉の源頼朝は、叔父の源行家、弟の義経、さらに弟の範頼を殺害する。行家は為朝の異母兄弟でもあった。源氏の世を後顧之憂なくするには止むを得ないことではあるが滅んだ平家の残党狩りも後々までじつに執拗であった。為朝は熊野を去らなければと思った。その後、英彦山に隠れ住むため、わずかな郎党を伴い豊後に送られてから五年、山にこもりきって修験の道に勤しんで久しく海を見たこともなかった。為朝は顔をあげて空を見た。東に流れる薄い雲が眼瞼の中ににじんで見えた。いま自分は海に出ようとしている。ありがたいとおもった。

前の帆柱に筵帆が小刻みに上がっていく。船は少しずつ桟橋を離れていった。丁安国は下段の艦橋に栄西と並んでいた。栄西は離れていく浜辺や遠のく丘陵に見える東林寺をながめていた。
「船が少し、下(しも)に流されているようです」
そばの武士が為朝につたえた。
「舵がきいておらぬ。船足がたりぬようだ」
「このままでは、船首の左舷が堤防にあたります」
そのとき、艦橋から丁国安の響きわたる大声が二度きこえた。宋の言葉で何を言っているのかわからない。
「主帆を上げるように言っております」
「このせまい港の中で総帆ばりにするのかの・・・」
「慌てておるようでございます」
勢いのある掛け声が聞こえ、筵帆はするすると高く引き上げられた。同時に、西風を受けるようにと帆桁の綱が引き込まれ帆は風をまともに受けてはらんだ。西からの風は微風だが総帆に受けると船は急に動きをました。宋の水夫たちが左舷の手すりに集まり騒いでいる。大きな石が積み上げられた堤防に甲板から迫り上がった船首が覆いかぶさるように見える。艦橋で丁国安の、もう叫ぶような声がした。すぐに船首が大きく右に回り始めた。さらに船足がました。堤防の石が船首の左舷から離れていくのが見える。衝突は避けられたようだが艦橋から、また甲高い叫びが聞こえた。
「舵を戻せと言っております。それに帆風を逃せと言っております」
「こんどは間に合いそうにないな」
右に舵を切った船は防波堤との衝突は避けたが船体は堤防とほぼ平行に並んでいた。船は右舷側の西風を受けて堤防との距離をじわじわちぢめている。帆を流して風を抜かねばならないが、そうすれば船足がおち舵の効きはわるくなる。いま船はゆっくり右に回頭している。船首は堤防から離れるが、このままでは今度は船尾が堤防に接触する。船尾には大きな舵が船の下にさがっている。防波堤の大石が手の届きそうなところに見えている。軽い衝撃が甲板から足に伝わってきた。衝撃はさらに強くなりゴツン、ゴツンと音が重なってきこえ船がゆれた。それでも宋船は徐々に堤防から離れて港の出口の方に進んでいった。

                               平成二五年七月四日