為朝が海に出て嵐にあった山場だった。
為朝の名前を呼ぶとき、「為朝さま」とは言わないだろうと指摘された。
以前から注意されているが、いまだになおっていない。
なんと呼んだらいいのだろう。
今日のはこんなだった。
栄西と為朝と定秀 中村克博
船頭が叫んだ。
「手縄を巻胴にかけろ」
そうしたいのだが、手縄が強く滑車(せみ)に引き込まれてできない。
左舷の方は滑車(せみ)からの手縄を巻胴に三回まいて締め、帆桁は安定している。
右舷も巻胴にちゃんと巻いていたのだが船があおられ手縄が抜けたのだった。
「手縄を巻胴に巻け」
また船頭の声がした。
船が波の谷間に落ちた。
次の波で舳先が波の中に入って見えなくなった。
その反動で帆桁が上がり、手縄がすごい勢いで滑車(せみ)に引き込まれていった。
一番前で手縄を持っていた水夫が、異様な声を出して、もがいた。
指が滑車(せみ)の中に引き込まれている。
風は一層強く吹いて帆は暴れ、音をたてて帆柱をじわじわと上がる。
指は二本三本と滑車に引き込まれて血が雨とまじって床に落ちた。
水夫の一人が帆桁からの手縄に飛びついて引いた。
「これ以上手縄を引くと帆桁が持ちません」
「左舷の手縄はもう出せぬのか」
「もう一杯です。指を切るか手縄を切るかです」
「まて、まて、人を出して手縄を引いてみよう」
「この風で帆桁が折れると収拾がつきません」
屋形の中の武士の一人が為朝を振り返って指示をまった。
為朝が大きくうなづいた。
屋形から武士たちが出ていった。武士たちは滑車からの手縄を水夫たちと力を合わせて引いた。
手縄は鋼のように固くなってじりじり引かれ、上からバキッと音がした。帆桁が、たわんで音を立てて折れた。つぶれた指が滑車(せみ)から出てきた。
四本の指が赤い塊になっていた。その場にくずれるように、うずくまった水夫は屋形の中に運び込まれた。
折れた帆桁が暴れ、縦に破れながら右舷半分の筵帆が引き下ろされた。
残った左舷の筵帆が胴震いして帆柱はきしみ前後にゆれだした。
船がゆっくり右舷に向きを変えた。船頭は舵棒を体ごと右舷いっぱいに押していた。
「当て舵がききまっしぇん」
咄嗟、船頭は自分が事態を恐れ混乱しているのをしった。
「このままでは船は平戸にぶつかるな」
「帆柱を倒さな、なりまっしぇん」
「そうか、致し方あるまい」
船頭は狼狽をおさえて帆柱を倒すことを告げ、水夫たちに帆柱より後ろに下がるように指示した。
帆柱は船尾に倒せる構造になっているが、この時化た海ではその方法はむつかしい。
艫屋形に古参の水夫が三人集まり、船頭と帆柱を倒すための打ち合わせをはじめた。通常のように舳先の筈緒をゆるめて帆柱を後ろに倒して台座にのせるのは無理だろう。斧で帆柱の根元を断ち切りながら、船尾から帆柱を引く綱を徐々にゆるめ右舷の海に落とす方法にきまった。
「えずかばってん、こいしかなかじゃろ」
「破れ帆が、倒るっ帆柱ば船ん外ん出しちくれます」
「そげんに、うもういきゃ、よかがんた」
「落ちゃげた帆柱ん根が船に残っちょたら、やばかばい」
「そんときゃ、そんときたい、もう考えんちゃよか」
船頭は談合を打ちきり、目で為朝の了解を求めた。
為朝は前方を見つめたまま、理解不能な、地の言葉を聞いていたが、
「異存はないぞ」と船頭を見て大声で言った。
水夫たちは手分けして持ち場についた。
「右舷側は危なかぞ、倒れた帆柱が走っぞ」
帆柱の根元を斧が打つ音が雨風の音にまじって重く聞こえていた。
帆柱の右舷側の根元が半分ほど斧でえぐられた。
それを待っていた水夫が、左舷側の少し上に斧を打ち下ろし始めた。
右舷の身縄が解き放された。
つづいて、艫側の筈緒が船尾の滑車の上から斧で切りはなされた。
いまは、左舷の身縄だけで帆柱を支えていた。
破れ帆が暴れ、それに引かれた帆柱が傾いてゆれている。
「左舷、身縄をはずせ」
帆柱はからまる索具を道連れに音を立てて海に落ちていった。
帆柱が右舷に倒れると欄干を破壊して、かなりの衝撃があった。海に落ちた帆柱に破れた筵帆が重なり、荒波にもみくちゃになって舷側に打ちつけられていた。それには筈緒や手縄や身縄などの索具がからまっていた。
もう、風を受ける走りはないが横波を受ける船は左右に激しくゆれて危険だった。
後ろから戸次惟唯の乗った小早船が急に近づいてきた。それまで、できるだけ距離を保とうとしていたようだが、こちらの帆柱が倒れて船足がなくてはそれもできない。
後ろの小早船はさらに近くなった。船頭は惟唯をみとめた。
「為朝様、惟唯さまが弓に矢をつがえておいでです」
惟唯が弓を引く仕草をしてこちらを見ている。
「うむ、我らが意を解したようだな」
船頭が風に負けない大声を出した。
「引き船のぉ〜、よぉ〜い。船を引くぞぉ〜」
船べりに下がった索具を斧で断ち切っていた水夫も手を止めて聞いた。
舳先で碇綱が準備された。
船頭が大声を出した。
「はよう、帆柱の綱を切りはなせ」
右舷から下がっていた索具は、斧の一撃で海に落ちていった。
為朝は波のまにまに激しく揺れている艫屋形から戸次惟唯のようすを見ていた。左舷後方に近づいた惟唯の船は帆を甲板まで降ろし帆柱にあたる風だけでゆっくり進んでいた。
帆柱だけでも風に押されて進む船の横揺れは少なかった。
惟唯の近くに、もう一人の武士が同じように弓を構えて縦波の周期に弓を持つ手の調子を合わせていた。すでに顔の表情もわかる距離になっていた。
二艘の船が横に並ぼうとするときに惟唯が矢を放った。
矢には細い縄が引かれていた。
惟唯の矢は、強い風の中を真っ直ぐに、斬り倒されていた帆柱の根元に深く突き刺さった。
帆柱の根元の矢から素早く水夫が細い縄を手にして船首にいそいだ。
「矢が、もう一筋はなたれました」
二筋めの矢は船の上をこえて右舷の海に落下した。甲板の上に下りてきた細い縄を水夫が手繰り寄せて船首の碇綱に結んだ。
先に飛んできた細い縄は、すでに前を進む惟唯の船の船尾に取り込まれ、それに結ばれた太い碇綱が引き上げられようとしていた。
惟唯が乗る小早船の筵帆が上がり始めた。風が強くて、風の強弱をみながら少しづつ、少しづつ上がっていく。屋形をこえて帆が半分ほど上がると、二本の引き綱はびんと強く張られ、潮を弾き飛ばして為朝の船をがくん、がくんと引き始めた。
「帆をさらに上げるようです」
船頭は舵棒を持ったまま、屋形の軒下から覗いていた。
「風が少し西にふれたようだな」
「真追手になります。更に(かぜが)上がります」
後ろからの暴風は雨だけでなく波頭を飛ばして吹きつけ、大きな追い波が船尾の甲板を越えて流れ込んだ。そのたびに舵を取る船頭は足をすくわれないように踏ん張った。
「船足がでてきました」
「船のおさまりが、よくなったようだな」
「引き船が海錨の役割をしておるようです」
空は暗雲が逆巻いて風が唸っていた。
生月島(いきつきしま)と平戸のあいだ、辰の瀬戸が迫ってきた。
辰野の瀬戸を通り抜けると、うねりは、弱まったが風はかえって強くなった。南からの強風を両側の島が漏斗(じょうご)のように集め、瀬戸口から吹きだしてくる。
二隻の小早船は平戸の島を右舷に見ながら薄香の浦をめざした。中江の島が迫ってきたが、すぐ左舷後方に小さくなっていった。
岬を大きくまわりこんで薄香の浦に真っ直ぐ入っていった。風は西に変わって荒れ狂っていたが入り江の中は波風がさえぎられ、嵐の夕暮れは暗かった。
近くの船溜まりから避難してきた多くの船が碇を入れていた。前を進む惟唯の船は帆をおろしたが、引き綱はほどかなかった。
二隻はそれぞれ八丁の櫓棚に水夫が出て櫓をあやつり碇を入れる場所を探した。すでに、たくさんの船が停泊している。ほとんどが松浦党のもので軍船も見える。
平成二六年四月四日