「栄西と為朝と定秀」の小説を書くことが楽しみになっている。
今日もA4の紙に四ページも書いて提出した。
教室が終わって納涼の食事会があった。
普段の教室ではでない意見や論評が飛び交った。
先生から、僕の小説がおもしろいと言われた。うれしかった。
史実かも知れないが、一般的な歴史認識とは違う見解には
納得できる説明をするのが親切だと思った。
栄西と為朝と定秀 中村克博
空は晴れていた。
船団は日の出まえに水俣を出た。
阿久根と長嶋にはさまれた黒の瀬戸を抜け、順調に進めば昼前には天草灘に出る手はずだった。
黒の瀬戸は、隼人の(薩摩の)瀬戸といわれ潮流の激しさを万葉集にも詠われる難所だ。
北からの追い風がほどよく安定している。船団は潮の流れの頃合いをみて一列縦隊で瀬戸に入った。
惟唯は舷の欄干に右手をおいて対岸の景色を見ていた。
木々が青々と輝いて流れていく、船は揺れもせずに進んでいた。
きゅうに主帆が音を立てしばたいて船足が落ちた。
後続の船が近づきすぎて追手の風をさえぎってしまったようだ。
いそぎ、後ろの船に距離をとるように信号がだされ右舷に船をよせて風を入れた。
惟唯の横にいた為朝直属の武士が、みかんの皮をむいて海に投げた。
水面に浮いたみかんの皮はすぐに遠くへ見えなくなった。実を半分にして惟唯に手わたした。
惟唯は礼を言ってそのまま口に入れた。
「それにしても狭い海峡だ」と為朝直属の武士が言った。
惟唯はみかんの種を手にとって、
「今は潮止まりですが、流れると鳴門の瀬戸のように渦が巻くそうです」
となりの武士も自分の口にみかんを入れて、
「阿多平氏の水先案内船がいて助かりますね」
「船団の先頭は、もう瀬戸を抜け出るころでしょうか」
「この船からは遠くてよく見えませんが、そろそろでしょう」
天草灘に出ると船団は二列縦隊にもどっていた。
上甑島(かみこしきじま)、中甑島をすぎ下甑嶌が後方にみえるころ日は落ちていた。
日が落ちると風がかわり涼しい西の夜風がつよくなった。
先導していた阿多の水先案内船は、別れの信号をだして左舷に転進し万の瀬川の河口にある阿多の港に帰っていった。
船団は帆の風を抜いて船足を落としていたが、坊津沖に到着したのは予定より早く真夜中だった。月が明るかった。
まもなく坊津の入り江の奥から小早船が漕ぎ出してくるのが見えた。島津の水先案内船だった。
丁国安の乗る宋船一隻だけが先導を受けて湾の奥に入っていった。
聖福寺の若い僧が大きく欠伸をしてから、
「さあ、我らはこのまま鬼界ヶ島ですね。少し眠っておきますか」
惟唯はうなずいて、船尾楼を振り返ったが人影はなかった。
為朝の息子、平尊敦と壇ノ浦から落ちた平教経がいる前方の船室は明かりも消され静かだった。
「丁国安殿の宋船四隻は夜明けまで、ここで待つのでしょうか」
「そうです。我ら聖福寺の四隻だけで南宋の軍船二隻と鬼界ヶ島にむかいます」
「碇を入れるには深すぎますし、この辺りをうろうろして待つのですか」
「はは、は、同じ海面に留まる踟躊(ちちゅう)という操船の技法です」
坊津の奥に入っていく丁国安の船が薄雲の月明かりでは見えなくなっていた。
「小早船では私にも、おぼえがありますが大型船でもできますか」
「できるでしょう。この風なら具合がいい」
聖福寺の四隻と南宋の軍船二隻は、帆を満帆にして、残留する宋船四隻に別れの信号を発して進路を南にとった。
惟唯は甲板の上に仰向けに横になっていた。どうも気になることがある。
右横の崇福寺の僧侶は空を向いて眠っているが、左横を見ると為朝直属の武士が寝返りを打って手拭いで汗を拭いていた。
惟唯は声をかけた。
「あのう、あれだけ大量の宋銭と米を渡して、どうなるのでしょうね」
「あ、な、なんだ、なんか申されたか」
「いや、あれだけの、こ、米は食えますが、あれだけの宋銭、何に使うのかと」
となりの武士は惟唯とは一回りほど上の、三十四五をすぎた年恰好だ。
「どうするのかな、船の底荷なら石ころでも、いいでしょうがな」
「菊池の米俵も、宋銭の銭俵も、聖福寺が手配したのですよね」
「栄西禅師のお考えでしょうが、わしには、わかりませんな」
惟唯の右横に寝ていた僧侶が起きて胡坐をかいた。
「あ、起こしてしまいましたね。もうしわけない」
「いえ、かまいません」
惟唯は身を起して座り、僧侶は話しはじめた。
「博多では宋銭で米でも味噌でも買えますが、島津の治める地では、米は食うというより、絹や塩のように物と交換するもの、ですね」
「そのような国の薩摩に、あれほど大量な宋銭を、どうするのですか」
となりの武士も起きだして、おもしろそうに聞いている。
「島津は農閑期の民に田畑の開墾をたのみ、その労役にこのたびの宋銭を支給します。
民は手にした宋銭を米と交換します。その条件が、じかに米でもらうよりも格段に
いいとなれば、みなよろこんで宋銭を受け取ります」
武士が汗を拭きながら、
「そのために米も大量に持ち込んだのですな」
「そうです」
「宋銭に裏付けがあれば芋でも魚でも絹でも太刀とでも交換できるわけか」
「そうです。物のうごきが活発になり値は民が決めるようになります」
「国府の税も宋銭で納めれば・・・。む、しかし、なぜそれを聖福寺が」
惟唯が言いかけて首を傾げた。
若い僧は、惟唯の疑問には口をむすんだ。
もう一人の聖福寺の僧が話にくわわって、
「聖福寺の動きは、すべては鎌倉のご意向でしょう」と、言った。
「このたびの行動は鬼界ヶ島の硫黄の確保と思っておりましたが、落ち延びた平家の人々の国外移住と薩摩の阿多一族をしずめることがねらいですな」
武士が汗を拭きなが言うと、若い僧がむすんでいた口をひらいた。
「平家が滅亡した後の文治三年と建久四年にも鎌倉や朝廷は宋銭禁止令を出しますが、もはや世の中の物のうごきは宋銭なくしては、かなわなくなっておりました。絹や米では国の財政そのものが、なりたたないのです。物の動く根幹をにぎらねば国を治めることはできません」
もう一人の僧が話をしめるように、
「平家人の安住の地ができ、薩摩も鎮西も治まり、戦乱の世がなくなります」
惟唯は夜空を見上げた。帆が静かにはらんで波の音が聞こえていた。
夜通し南下をつづけ東の空が白んでくるころ、左舷前方に白い噴煙の上がる島が見えていた。軽快に走る六隻は二列縦隊で、すでに臨戦態勢にはいっていた。
先頭の右舷に為朝の乗る聖福寺船がいた。
南宋の軍船二隻は戦列の後尾についていた。
西の島影から船がでてきた。
後からもう一隻、まだ遠くてよく見えないが二隻とも同じ船型をしていた。
帆柱は二本、帆は二枚、前の帆は船よりも大きな三角帆だ。
二隻は島影を出るとすぐに西からの向かい風を北へ間切って近づいてきた。
帆桁の片方が帆柱の倍ほども高くはね上がって、もう片方は舳先に接した巨大な三角帆をぎりぎりまで引き込んで風をはらましている。
為朝と高木の次郎それに船長が船尾楼の甲板にいた。
「はじめて見る船型ですね。風によく上る。船足がいい」
「帆が大きいので風下への横傾斜が大きいな」
「おお、船べりが波にかくれるほどに」
二隻の南宋の軍船が為朝の乗る聖福寺船の右舷を追い越していった。
前に出ていく軍船の甲板の様子を見ながら次郎が、
「固定式の大きな石弓をいくつも配備しています」と言った。
船長が操舵室につながる伝声筒に向かって大声を出した。
「われらの前に出る宋の軍船に追尾、距離をたもて」
すぐに船尾楼の下にある操舵室から了解の鐘が鳴った。
南宋の軍船は、近づく二隻の進路をさえぎるように進んだ。
警告と停船命令ため軍船から火箭(かせん)が発射され、高い雲がたなびく青い空に、五本の矢が炎を噴射しながら昇っていった。
火箭の飛んだあとには五つの長い煙が東に流れていた。
「イスラムのダウ船です。南宋の軍船が停船信号を出しています」と船長が言った。
「停船する様子はないようですな」と次郎が言った。
イスラムのダウ船二隻は警告を聞かずに進路を南へ変えようとしていた。
「西風を右舷に受け、詰め開きで逃げるようです。同じ風ならダウ船のほうが速い」
「帆の入れ替えを始めました。船足が落ちないし舵の効きもいい。」
「巧みな操船ですな。一連の動きが流れるようだ」
船長と次郎は感心するように話していた。
しかし針路を北西から南西に変えるには、左舷前方からの帆風を反対の右舷側に、船の進路を直角に変えねばならない。右舷に傾斜していた船はこのとき反対に大きく傾く、ところが、進路を変えた勢いが余って風をはらんだ主帆の下部が波に浸かった。
海に浸かった帆に引きずられ船は左舷にふれ、さらに大きく傾いた。
船足が落ちた。
南宋の軍船は西風を右舷に受け悠然と接近した。イスラム船の風上から横に並ぶと、いきなり石弓に装填した震天雷を水平に発射した。
いくつもの耳をつんざくような爆発音が海原に轟いた。
イスラムの船の惨状が追尾する聖福寺の船からよく見えた。イスラムの人々はなぎ倒され、うずくまり、大きな三角の帆が燃え上がりはじめていた。
後ろから来ていたイスラムの二隻目も目の前で起きた仲間の惨劇を見たはずだ。懸命に逃げようとしていた。
帆の入れ替えに水夫が総出でかかるが手間がいる。
船足が落ちて船は止まりそうになった。
石弓の射程にはいれば先ほどの仲間の船と同じ目に合う。
もう一隻の南宋の軍船が風に乗って舳先の波を吹き飛ばすように迫っていた。
イスラムの船は帆の入れ替え作業を終えた。
風に乗れば、船よりも大きな三角帆のダウ船は速い。
すぐに船足が上がって南宋の軍船との間は開いていった。
追いすがる南宋の軍船から震天雷が発射され、鄢い鉄球のついた大きな矢が五つ、ゆるい弧を描いて飛んだ。
矢は途中で離れ、いくつもの鄢い球だけがイスラムの船の手前で海面に落ちた。
震天雷はイスラムの船には届かなかった。
すると南宋の軍船から多くの火矢がダウ船に向かって高く飛んだ。
矢は弧を描いて一斉にイスラムの三角帆に当たった。
さらに少し間をおいて次の火矢が把になって飛んだ。
三角帆は燃え上がった。みるみる火は大きく燃え上がり帆が落ちてきた。
イスラムの船は走りをとめた。
ゆっくり南宋の軍船が近づいて、ふたたび震天雷が打ち下ろすように放たれた。
為朝の聖福寺船から遠くの炸裂音が海を駆けるように、いくつも聞こえてきた。
「容赦はないようですな」と次郎がつぶやいた。
平成二十六年八月一日