ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

友人の畑にヒマワリが咲いた。

今年の初ものらしい。

にこにこして届けてくれた。


きょう金曜日、午前中はエッセイ教室だった。
今日の栄西と為朝と定秀はこんなだった。


栄西と為朝と定秀                       中村克博


 宋船は武藤の小早船の船尾をかわした後、前方の大型船をよけるため舵を右舷に切ったが、
それは船が風上に向かうことになる。
風の向きが変わって船の速度は急に落ちた。 
船の速度がたりなければ、舵の働きは船が重いほどわるくなる。
舵取りが梶棒をいっぱいに押して叫んだ。
「船足がたりません」
「(風に)上りすぎだな」
 船長は落ち着いていた。
「舵がききません。船が左舷に流れます」
宋人はともに日本の言葉で話していた。二人は親の代から博多で生まれ育っている。
「舵を左舷にもどせ、風を入れるのだ」
「了解、ですが、松浦の船にあたります」
「かまわぬ、船足をつけるのだ」
 武藤の小早船は休まずに引き鉦を打ち続けていた。
 為朝と次郎と惟唯は船尾楼の甲板にいてそれを聞いていた。
 水夫たちは空を見上げ帆をあやつり風を少しでもつかもうとしていた。
 左舷に並んでいる二〇人の武士は矢をつがえたままで惟唯の指示をまっていた。
「このまま進めば、我がほうの帆桁が松浦の帆柱からの支索にからまります」
 次郎が帆桁をみたまま為朝に告げた。
 そのとき、船長が舵取り場から走り出て甲板に向かって叫んだ。
「帆桁が、あたるぅぞっ、右舷、手縄、ほどけっ、左舷、手縄、引け、引き込め〜っ」
 船長が叫ぶ前に、すでに前の帆桁は左舷に引き込まれつつあった。つづいて後ろの主帆の
帆桁が引き込まれていった。
どっすん、どっすん。宋船の左舷前方の舷側が松浦の船腹にあたった。
甲板が高い宋船からは松浦の船の様子がよく見えた。
宋船の舳先が松浦の船にあたり、欄干が音をたててもぎ取られていった。
衝撃で転ぶ者はいないようだが、樽や荷箱が転倒し索具が切れて落下した。
 宋船はすべての帆は風をはらんで、からくも封鎖線を擦り抜けた。  
 船長は船の進路を南西にとった。さわやかな追い風だった。
 惟唯は全員の戦闘態勢を解いた。
 空は晴れわたり波はおだやかだった。
前方には中江の島が迫っている。
その先の海峡を出れば宇久島が見えているはずだ。
 船尾楼の甲板に為朝と次郎と惟唯と船長がいた。
四人の心は思い思いだろうが、みんな薄香の方を振り返っていた。
誰も口を開かなかった。風の音も波の音もしなかった。

それから宇久島までは何事もなくおだやかな航海だった。
西の空に見える城ヶ岳には夕日がまだ高く輝いていた。
 宇久島の南東に口を開けた平の浦には、すでに五隻の大型船が停泊していた。
南宋の軍船が二隻、船べりには大勢の兵士がこちらを見ている。
博多の宋船が二隻、それに聖福寺の交易船が見える。
為朝の乗る船は、聖福寺の旗印をあげた船に近づくと右舷に防舷材を降ろした。
博多の船はどれも、聖福寺の船も船型はおなじであった。
二隻は防舷材をはさんで接舷した。
船長は連絡のために聖福寺の船に渡っていったが、すぐに折り返して戻ってきた。
息せき切って船尾楼の階段を駆け上がり為朝に口上した。
「お待ちしておりました。どうぞ、聖福寺の船にお移りください、とのことです」
 伝言の終わらぬうちに、隣の船から迎えの人たちが渡ってきていた。
 聖福寺の船長らしき身なりの後ろに二人の若い僧形の姿がみえた。
 迎えの三人は為朝のもとへ階段を上ってきて深々とお辞儀をした。
僧の一人が為朝へ先ほどの口上を繰り返したのちに、
「長い旅になります。専用のお部屋もございます。しばらく、お休みのあと僭越ではございますが、
小宴の準備をいたします。お顔つなぎ、よろしくお願いいたします」
 為朝は作法の返礼をすまして、夕餉を共にする時刻までは、こちらの船で過ごしたい意向をつたえた。

 簡素な晩餐の宴には為朝、惟唯、高木の次郎それに聖福寺の船長、二人の若い僧侶、六人が船尾楼の
船室で椅子に座って卓を囲んでいだ。
 それぞれが名のりをすませると、会話はなくて箸をすすめた。
 惟唯は粥の椀がすでに底をみせて、箸をおいた右手は油条(ヤウティウ)にのびた。
「これは初めていただきますが、宋の食べ物ですか」
 聖福寺の船長が昆布巻きの煮ゴボウを半分食べてこたえた。
「そうです、小麦を練って伸ばし、油でさっと揚げたものです」
「軽いし、日持ちがよさそうですね。野戦の兵糧によさそうだ」
「由来は、宋の宰相・秦檜夫婦が敵の国、金と通じたことを憎み、二人を釜茹での刑にしたことに見立てて、
小麦粉を練って二本の棒を作り、油で揚げたと聞いております」
 船長は自分でも油条を手に取って千切り、残りの煮ゴボウと一緒に口に入れた。
 聞いていた惟唯は、右手の油条に目を落として見つめていた。
 次郎は豚の角煮を食べていた。
「この、何ともうまい甘煮込みにも由来はありますか」
 若い僧の一人が箸を休めて両手にもち、
「蘇 軾(そ しょく)は北宋の政治家、詩人、書家でもあります。東坡居士と号したので、蘇東坡(そとうば)
とも呼ばれます。蘇軾は臨安府(杭州)に左遷されたおり西湖の水利工事を行いました。工事に感謝した現地の
人々は大量の豚と紹興酒を献上しましたが、それで蘇軾先生は豚肉と酒を使った甘煮込みを自宅の料理人つくらせ
地域の家々に振るまいました。その料理を絶賛した臨安府の人々は豚の角煮に東坡肉(トンポーロウ)と名付けました」
 話し終えると若い僧は話が長くなったことを詫びて頭を下げた。
 次郎は話を聞きながら豚の角煮をいくつも食べていた。
惟唯も豚の角煮を箸でとり自分の皿にはこびながら、
「薄香の封鎖線を突破するときに武藤が引き鉦を打ったのはなぜでしょうか」
 そう言い終えると為朝の顔を見た。
 為朝に代わって次郎が口をひらいた。
「慌てておったようですな。指揮系統が三とおりで連携ができておらぬようだった」
「松浦は壱岐の島をうかがっておりましょう。臨検、封鎖には道理がありますが」
「武藤は鎌倉から大宰府をあずかり鎮西奉行を命じられておれば、紛争があっては役目不届きの咎を受けることに
なりますからな」
「我らがここにあることは武藤には知れておるのでしょうか」
「それは、どうだかな」
「豊後の大友は治まりそうですが、南の島津もさんざん苦労しておるようで」
「そのようなときに鎌倉は、平家の勢力が強かった西国で、また古来からの強力な豪族が入り組んだ鎮西で、
それら勢力が糾合することにでもなればと、それを恐れておる」
 話を聞いていた若い僧の一人が話にくわわった。
鎮西奉行の武藤様はすべてを承知しておられます。このたびの鬼界ヶ島の平定と琉球への遠征計画も
栄西禅師様からご説明がなされております。このたびの思わぬ大嵐で出端を少しばかりくじかれましたが」
「鬼界ヶ島ともうされましたか。そこは島津の領分ではありませぬのか」
 惟唯は皿にある豚の角煮をちらりと見て問うた。
「はい、しかし今は琉球の反乱勢力が占拠しております」
「島津では手がまわらんのですな」と次郎が問うた。
「はい、そのために博多から南宋に送る硫黄が滞っております」
「それで、琉球の反乱軍征伐に向かうのですな」
 はなしがすすんで、為朝が天目の抹茶椀を両手にもって口を開いた。
栄西禅師からは数日前に書状が届いておったが、仔細は壱岐を出て宇久の集結地点で話そうと思っておった。
ここ宇久からは平家盛の軍勢が博多の宋船三隻に乗り込むことになる。肥後の八代では、壇ノ浦から落ち延びた
平家の武者が、後ほど慶元府(寧波)から到着するであろう丁国安殿の五隻に乗り込む。それに臨安府(杭州
からの南宋の軍勢が承知のようにすでに二隻の軍船で到着しておる。それら、すべてをお前ら両者が統率することになる」
次郎は下を向いて聞いていたが、より深く低頭してこたえた。
「さようでございましたか、心もとない私どもではございますが一心に励みます」
「いや、いや、前もって相談しなかったのは、急なことで考えがまとまらなかったのだ。行忠がおったとしても同じことだ」
「慶元府からの船はいつ着くのですか」と惟唯がたずねた。
 若い僧がこたえた。
「嵐の関係で一日ほど出航を遅らせたと思われます。丁国安様の五隻には船底いっぱいに宋銭が積まれております」
 もう一人の若い僧がこたえた。
「八代では、それぞれの船に積みきれぬほどの米を満載して琉球にむかいます」
 それにな、と為朝が話した。
「八代ではわしの息子が乗ってくることになっておる」
「なんと、為朝様の御曹司がご一緒されるのですか」
 次郎と惟唯は一緒におなじ言葉を発した。
                               平成二六年六月二〇日