ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

床の間に庭で見かけた葉っぱが生けてあった。

数日、大雨が降ったり雷が鳴ったり、朝夕寒かったり、おかしな天気だ。

うっとうしい天気が続くが、清々しくなる床のしつらえだ。

先日のエッセイ教室は休みだった。
用意していた原稿はこんなだった。


       栄西地為朝と定秀                  中村克博


朝日が出ていた。うす雲が赤く染まって海は明るかったが西の風が北にふれ、しだいに強くなっていた。
二隻のイスラムの船に積まれていた大量の硫黄が燃え刺激の強い異臭が流れている。船は沈みかけていた。
海に逃れたイスラムの船乗りたちが燃える船から離れようとしていた。幾人かの傷ついた水夫が元気な水夫に片手で抱かれて浮かんでいる。 
為朝の乗る聖福寺船が一隻、帆風をほとんど抜いて海に浮かぶイスラムの船乗りたちを風上から救助している。風に押され船腹が近づくと、イスラムの動けない水夫を太い綱(つな)の輪に乗せて引き上げた。元気な者は太い網(あみ)をつたって上ってきた。イスラムの船乗りたちは甲板下の船倉に閉じ込められ、傷を手当てする用具と薬、それに飲み水が与えられた。逃げようとすれば斬ると警告された。

そのころ南宋の軍船二隻と博多の船三隻は、先に鬼界ヶ島の西をまわり、長く伸びた岬を風よけにして主帆を降ろし、後ろの帆は風を抜いて漂うように待機していた。 

鬼界ヶ島は薩摩の国に属し上質の硫黄を大量に産出する。琉球では内乱がおきており、反乱軍が硫黄を軍資金の財源にするため島を占拠している。
島津の荘地頭の島津宗任が頼朝から薩摩、大隅、日向の守護職に任じられる前年のことで鬼界ヶ島までは手がまわらないでいた。
今回の動員は、鎌倉の意向か栄西のはからいか、いずれにしろ鬼界ヶ島の奪還による硫黄資源の確保、琉球内乱の平定と琉球王朝の支援、難民となった平家人の琉球への拓殖という目標があった。そして、そのいずれもが鎌倉が鎮西を支配する本土九国、島嶼二国を安堵するためであった。 

聖福寺船はイスラムの船乗りを三十人近く拾い上げたあと、太い腕のように突き出ている岬の断崖に沿って入り江に入っていった。
岬は長さが十町以上(千メーター)、高いところは四十間(八十メーター)ほどもある。それが巨大な城壁のように陸地の正面まで続いて、その右手遠くに噴煙を上げる硫黄岳が見える。岬の奥の入り江は温泉が流れ込んで海が鉄さび色に染まっている。湾の中には大きな外洋船が一隻係留されていた。人影はない。

為朝、次郎、船長、平敬敦と平教経の幕僚、それに聖福寺の僧二人が船尾楼の甲板にいる。思い思いに島の異様な景色を見ていた。風はそよと吹き静かだった。  
聖福寺船に南宋の軍船が一隻続いていた。入り江は、つらなる断崖と山にかこまれ波風はおだやかだ。聖福寺船は桟橋の大きな外洋船に接舷した。

南宋の軍船から震天雷が陸に向かって発射され、弧を描いて飛んだ。震天雷は断崖の下に広がる林の中につぎつぎと落下した。爆発がおこり大音響がこだました。煙が靄のように広がっていた。人の気配はなかった。

聖福寺船から惟唯が率いる武士たち二〇人が接舷した外洋船をつたって鬼界ヶ島に上陸すると船はすぐに舫いを解いて離れた。
沖で待機していた博多の船三隻が聖福寺船と入れ替わるため、すでに入港していた。三隻の船は次々と入れ替わって外洋船に接舷した。上陸した宇久平氏の軍兵三百は海岸にそって広がる林の中に素早く散開していった。
惟唯は三本杉の旗印をかかげ前衛として先行した。宇久平氏の軍兵はしばらくして惟唯の旗印に続いた。正面の断崖を避け、徒武者が整然と隊列を組んで稲村岳の麓を北西の丘陵にむかって上っていく。地形がけわしい。
為朝が口をひらいた。
「いそぎすぎる。それに後続の宇久の隊伍が伸びすぎておるようだ」
 その場の静かな緊張がほぐれて、
「道はあるようですが、瓦礫の多そうな地形ですね」と次郎がこたえた。
 突如、惟唯の旗印の手前で光がいくつも見えて三本杉の旗印が倒れ、すぐに鈍い炸裂音がとどいてきた。
「敵は火薬の武器を使うようだ」と誰かの声がした。
「手投げのようです」
「宇久の隊列の中ほど、左から密集した敵が迫ります」
不意を突かれた宇久平氏が乱れ隊列が分断されたが、すぐに後続がそれに加わり乱戦になった。
「白兵になれば我が方に利があります」
「かなりの損害が出たようですが押し返しております」

 惟唯の旗印は再び立っていたが前進できずに膠着(こうちゃく)していた。
 旗じるしの手前で光が見えると音が後から聞こえてくる。
「あの音は火球です。ヒ素トリカブト、桐油などの毒物を火薬に混ぜており、爆発は届かなくとも煙を吸えば・・・」と船長が心配げに言った。
 船尾楼の甲板は誰も口を開かず静寂でさえあった。
 太陽は天空にあったが厚い雲がそこだけ明るくなっているばかりだった。風が強くなって、大粒の雨が降りはじめた。
「風と雨は火球の効き目をなくします」と船長が安心したように言った。
「惟唯殿の旗じるしが動きます。正面を避け稲村岳の方、西に向かいます」
宇久平氏の三百の兵も旗印に合わせ右方向に動いていた。正面の敵も惟唯の旗印を追って矢を射かける。
宇久の軍兵の列が乱れはじめた。
「またしても、左の敵が宇久の後ろから迫っております」と次郎はいらついていた。

惟唯と宇久の部隊は苦戦していた。
鬼界ヶ島を攻略する手筈は、まず聖福寺船をくわえた博多の船四隻、それに南宋の軍船二隻が島の南西から港の正面をうかがい敵を威圧する。それから惟唯の部隊三二〇人が上陸する。かなりの強襲だが決戦には持ち込まずに敵の注意を戦線に集中させるのが役目だった。兵の損傷を少なくして時間をかせぐが敵が手を抜けないようにしなければならない。

「この空もようは嵐になりそうです」と聖福寺の船長が空を見上げた。
「この風なら、丁国安殿の船は案外に早く参りますね」と誰かの声がした。
戦線を優位な場所に移した惟唯たちは、高みから二十張の弓で追撃する敵を正確にたおしていた。宇久平氏の武者は惟唯の陣に収容され為朝は安堵していた。

そのころ丁国安の船団は、鬼界ヶ島に急いでいた。強い北風が大粒の雨を帆に吹きつけ、波がしらが白く泡立つ南からのうねりの海を疾走していた。
宋船五隻のうち四隻には八代からの伊勢平氏の武者が六百、さらに丁国安の乗る船には阿多平氏の隼人の精鋭が二百、それに坊津から島津の小早船十艘がくわわっていた。小早船には水夫のほかに島津の精鋭百が乗っている。
総勢で九百、源氏に平家それに阿多隼人の混成部隊だった。この精鋭九百が島の北から上陸して敵の背後を襲い一気に殲滅することになっている。 

丁国安の宋船五隻は宿帆していたが船足を小早船に合わせるため、さらにときどき帆風を抜いて走った。小早船には十文字の旗印が掲げられていた。この時期、島津の旗印には外郭の丸はない。縦の線が長く十字架のようであった。
 強い雨風で目の前の鬼界ヶ島がかすんでいた。船尾楼の甲板に雨が打ちつけ風が唸って、丁国安が独り言をつぶやくように船長に言った。 
「思わぬ風で早く着いたが、この波風では北からの上陸は無理ですな・・・」
当初の手筈では小早船が島津の軍兵百を上陸させたあと、島と宋船五隻との間を数回往復して宋船八百の軍兵を上陸させることになっていた。  
船長が風に負けない大声を出した。
「強行すれば島津の武士百人は上陸できます。しかし十艘の小早船は破損します」
 島の断崖が大きく迫って、磯の岩に打ちよせる波が吹き上がっていた。
 丁国安の大きな顔に雨が吹きつけ波しぶきかかった。
「いかがしますか」と、船長が丁国安の顔を覗いた。

島の南側にある湾は高い断崖が北からの強風をさえぎっていた。聖福寺船の船尾楼の甲板で為朝の息子、敬敦が平教経を窺うように言った。
「このままでは、敵の一部が惟唯殿の側面に迂回します」
「敵は思ったより多い。六百はおる。包囲されれば面倒ですな」
 為朝は二人のやり取りを聞いていた。 
「私は手持ちの部下二十人と斬りこみます」と敬敦は為朝を見て了解を求めた。
「それほどの数では、いかんとも」と教経がいさめた。
「この嵐では丁国安殿の船団を、もはや当てにできません」
 敬敦は鎧の大袖をはずし、栴檀板、鳩尾板、草摺などの防具をとって、すでに胴の鎧だけになっていた。兜はかぶらず烏帽子のみ、陸を駆けるにはこの方がいい。
「ならば、この教経も手元の二十人ほどでお供します」
話を聞いていた次郎も壱岐の水夫二十人をつれて加勢することになった。その場で為朝は差していた鎧通しを鞘ごと抜き、敬敦をまねいて手渡した。
為朝は、親子互いにこの年になるまで、住む場所も生き方も違い、意思を交わすことはなかったが、このたび同じ船に乗ってわずかな間でも同じ目的で過ごしたことをありがたいと思っていた。
為朝は息子敬敦を見た。
「この短刀は、鎮西下向のおり、わが父よりいただいたものだ」
鎧通しの短刀を敬敦にわたし、為朝は手をはなさずに言葉をつづけた。
「十三のときより、肌身はなしたことがない」
そう言いながら為朝は、その昔、父為義が涙をこらえ腰から短刀をはずそうとして鼻水を落としたときの記憶がよみがえっていた。
敬敦は為朝から受け取った鎧通しの代わりに自分の腰刀を為朝にわたそうとしたが為朝はおしとどめた。その刀は阿多平氏に代々伝わる波の平行安で敬敦が元服のおり義父忠影より受領していたのを知っていた。

平敬敦の薩摩隼人二十、平教経の伊勢平氏二十、高木次郎の率いる二十は弓矢は持たずに隊列は組まなかった。主従ひとかたまりの猛兵が我先に狂ったように稲村岳の山すそにかけ登っていった。
敵前で抜刀し無言で敵の戦線の後ろから突撃した。わずか六十の猛兵に琉球の反乱軍は弾けるように戦列が寸断された。それに同調して惟唯の一群は山津波のように敵に襲いかかっていた。
あっけない結末だった。敵は散り散り転がるように逃げている。もはや戦意があるとは思えなかった。勢いにのった猛兵の所業をとどめるには彼らが疲れて我に返るのを待つしかなかった。

平成二十六年八月二十一日