ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

午前中エッセイ教室だった。

天気がいい。空が高い。

今日の提出した原稿は、


栄西と為朝と定秀                  中村克博


夜が明けはじめていた。東の空が青く硫黄岳の噴煙が白く見える。
丁国安は自分の船に帰っていた。
甲板を歩きながら大きく欠伸をして、ぼんやり浜辺の方を見ていた。
浜には石で組まれた即製のへっつい(竃かまど)が一面に点在して、土鍋や鉄鍋、鉄釜に石釜まで雑多な器がその上にかけられていた。あちこちに水桶や水瓶が置かれ盥(たらい)や大きな笊(ざる)や板を並べた机も見える。
武者たちも、水夫たちも、囚われ人たちも、みんな船に上がっていて泥のように眠っているのだろう、浜辺に人影はなかった。西からの風が清々しく感じる。
小用をたそうと船べりに二三歩近づいたとき、丘陵の方に動くものを見た。
怪訝な顔で手すりにのりだして、さらによく見つめた。
丘陵の道を大勢の人が下りて来るように見える。
丁国安は近くの見張り番に声をかけた。
「丘の上に大勢の人が見えるが何でしょうな」
さらに、丘の頂から湧き出るように人がでてくる。
「遠くてよくわかりませんが、お味方の軍勢のように見えます」 
隊列を組んで続々とおりてくる人の動きが見える。 

 聖福寺船の船尾楼の甲板に為朝、次郎、船長、聖福寺の僧が二人いた。
 先ほどから丘陵の坂を下りてくる軍勢を見ていた。
 聖福寺の僧の一人が、
「昨日の夕方、丁国安殿が自分の船に帰り、我らが傷病兵の診察に出かけている折に、平敬敦様から二度目の伝令がまいったのですね。琉球の反乱軍が弓を伏せて降参仕るとのこと」
 次郎が為朝に目礼して、
「そうです。昨日の夕暮れ前、丘の陣地から敬敦様麾下の幕僚が三名、警固の武士を十人従え、琉球の軍使二人を伴って本船に参られました」 
 もう一人の僧が遠くの目を次郎に移して、
「宇久の武士は接岸した船の上から迎えるのですね」と確認するように言った。
「いいえ、接岸した船に百、桟橋に五十、それに博多の船二隻に百五十が分乗して浜を警戒しております」
 また、もう一人の僧が、
「新たな投降兵が三百くわわって、これは、飯の炊き出しが大変ですね」
 次郎は為朝の意向を伝えるように、
「今後、投降兵のあつかいは平敬敦様と平教経様の差配にまかされます」
 次郎が言い終わると為朝はうなずいてみせた。
 浜には阿多平氏の二百、伊勢平氏の六百、島津の二百が続々と集結していた。投降兵はその中に整然と集められようとしていた。
 
 聖福寺の船に平敬敦、平教経それに島津の武将がやってきた。それぞれに幕僚一人がついていた。船長が船べりへ案内に立ち、為朝、次郎、聖福寺の僧二人が船尾楼の甲板で迎えた。挨拶を受けた為朝が労をねぎらっていると丁国安の乗った艀が早櫓でこちらへ急ぐのが見えた。
丁国安を待って、武将たちから昨日以来の今朝にいたる報告がなされた。
 一日中ついに干戈を交えることはなかったが、長いあいだ窮屈な船の中にいた将兵にとっては良い体ほぐしになったようだ。

 話の区切りがついたとき、
「父上、戸次惟唯殿の様子はいかがでしょうか」と平敬敦がたずねた。
「奥の船室で寝ておるが、まだ動かない方がいいようだ」
「あとで、見舞ってもよいでしょうか」と平教経が心配げに言った。
「声をかけてくだされ。命に別条はないが礫の傷は治りがおそい」
聖福寺の僧が、
「此度の戦は礫の傷が多い。地表に手ごろな砂礫が幾らでもあります。礫をまともに受けると刀と違い損傷が、ぐちゃぐちゃになる」 
 さらに、もう一人の僧が、
「礫の傷は泥土がついており化膿することが多いようです。頭の傷はなおさらに、脳漿が侵されれば手に負えません」と神妙に言った。
 しばし、座に声がなかった。
静かになると、それぞれの耳に浜のざわめきが聞こえてきた。
 当番の兵が煎じ茶を運んできた。みんなは為朝に向かい円形に立っていたが茶碗を手にしてそのまま座り込んで車座になった。
 為朝が熱い茶を口を細めて少しすすって、
「村を通過するときの様子を聞かせてくれぬか、俊寛僧都はおられなかったか」
島津の武将がかしこまって、
「俊寛、俊寛様とは」と言いかけると、
 聖福寺の僧の一人が、
「俊寛僧都は康治二年のお生まれ、栄西禅師とは二つお若い同年輩です。平氏打倒の陰謀を鹿ヶ谷の俊寛様の山荘で密議したことが発覚して藤原成経様・平康頼様と共に鬼界ヶ島へ流されました。今から二十年近くまえ安元三年のことです」
 島津の武将は頭を軽くゆすって、うなずくと、
「俊寛様は見あたりませんでしたが、何とも美しい大勢の女子が水や食い物をもって迎えてくれました」と、白い歯を髭の間からのぞかせた。
 平教経が合点がいかぬ顔をして、
「美しいですか。髪は短く頬はほっそり鼻が目立って目が大きく色は黒いが」
 島津の武将がカラカラと笑って、
「ほほう、平家人はどのような好みでございますかな」とたずねた。
 平教経は京の昔をなつかしむように、
「望月のような顔に目は細長く眉ひとすじ、鼻はひくいくの字形、口は朱を点じるほど、でございますな」と、目をほそめた。
 丁国安がそのような話なら心得たとばかりに、
「京の上臈顔はいまだ変わりませんな。それは都人の好みが唐土に馴染んでおるからで、まるで唐朝の御佛顔ですな。当世、南宋では中高な碧眼の胡人の女にうつつをぬかす大尽の多いことか、そういう私も」と、言いかけて口をつぐんだ。
 
 雑談がすんで、車座のまま、今後の方策についての評定がはじまった。
 始めの議題は、投降兵が五百もいては監視や飲み食いだけでも難事、本来の作戦に支障が出ないためにどうするかがだった。
 鬼界ヶ島から琉球までは昼夜の帆走で二日から三日の距離になる。この地方の観点望気に巧みな水夫の確保はできたが嵐の季節なのでその対策がいる。
 航海中、風はおおむね北西からだが、琉球の反乱軍やイスラムの軍船からの襲撃が予測される。遭遇したとき船団が風上になる進路をとり、操船をおこなう。
 暴風雨で海洋投棄した米はかなりの量だが、塩水をかぶったままの大量な軍用米は船倉の中、これまでも投棄しては琉球への救援米どころか自分たちの食べる物がなくなる。
 投降兵のうち、幹部十数名が未だ山の中に潜んでいる。降参を決め敵対の意思はないが縛につこうとしない。連絡は取れるので攻め殺すか、ほっておき後を島津の武士にまかすか、説諭するゆとりはない。
 評定に難題も幾つかあるが熟慮の時間はなく即決を要した。

鬼界ヶ島を出た船団は琉球をめざして南西に進路をとっていた。風は西寄りの北がほどよく吹いて、ときおり白波が見えるほどだった。
評定に時間をとり日はすでに天空に高かったが、朝餉は十分の量だったので腹持ちはよかった。
 惟唯は乗船していなかった。傷の養生のために島に残り、為朝の直属の武士が十名護衛に付いている。惟唯のほかに傷病者二十人あまりが島に残った。
島津の武士百は鬼界ヶ島の守備と経営に従事する。帰順した琉球の反乱兵のうち百が残留して硫黄の産出にたずさわることになった。
帆柱の破損した船がある。予備の部材はあるので修理は航行中におこなう。艦隊の航行速度はこれらの船に合わせる。 

 船団の編成が変更されていた。
 先頭は、
丁国安が乗る宋船、水夫五十、平敬敦、阿多平氏の隼人武者二百二十、
 続いて、
 丁国安所有の宋船四隻、水夫二百、平教経、伊勢平氏の武者六百、琉球の兵百、
 その後に、
 南宋の戦艦二隻、水夫百四十、海上戦闘員百、
 その後ろの、殿(しんがり)には、
 聖福寺船に水夫五十、為朝、次郎、聖福寺の僧二人、為朝の直属の武士十、壱岐の水夫二十、イスラムの水夫三十、琉球の将と兵が五十、
琉球の外洋船には琉球の兵二百五十、
博多の貿易船三隻には、水夫百五十、宇久平氏の武者二百八十が乗船していた。

艦隊の巡航中の陣形は、丁国安の宋船五隻、南宋の軍船二隻、為朝の五隻の十二隻が丁国安と為朝の乗船艦を除いて二列の縦陣で進むとした。
また、軍団の総督は平敬敦だが、船団の通常航行は丁国安が統括して差配する。
航行中の遭遇戦については南宋の戦艦が先発して応戦するが丁国安の五隻、イスラムの船を含む為朝の五隻はそれぞれの指揮で臨機に対戦する。
各船長は操船に専権があるが、海戦中は船長以下全員が戦闘指揮官に帰属する。
混戦になった場合は各船の判断で目的地、琉球の運天港をめざす。
戦闘中、落水者の救出は断念する。

船団は左舷に口永良部島屋久島を重なって見て南西に進んでいた。
船団の先頭を進む宋船の船尾楼の甲板で丁国安が、
屋久島の山頂に雲がかかっておりますな」と手をかざした。
「雨の兆しでしょうか」と平敬敦が問うた。
「いや、あそこは月のうち雨ばかりだそうです」とこたえた。
「戸次の惟唯殿は島に残って無念でしょう」と敬敦。
「いや、いや、若後家が付きっきりで、ねんごろな看病をしておりましょう」
 丁国安が目を細めて薄笑いを浮かべた。
「ほう、若い後家ですか」
「俊寛様のお世話をしておった女で年の頃四十ほど、二十歳ちかい娘もおります」
「俊寛様は肥前国鹿瀬ノ庄に縁をたよって移られたと聞いておりますが」

 そのころ、戸次惟唯は竹で作った縁台の上に仰向きに寝せられていた。
そこは温泉の湯が流れ出ている湯治場で、衣服はすべて脱がされて腰の上に手拭いがかけられているばかりだった。
娘が手桶で惟唯の体に湯をかけると硫黄の臭いがただよい、母親が丁寧に手でさするように、こするように洗っていた。
両の手先から腕へ、両の足の指から脛へ丹念に手でこすっていた。こする手の先からは皮膚の垢がころがりおちていた。
娘が手桶で母の手元に湯をそそぐ、惟唯は薄い雲が流れる青い空を見ていた。
惟唯は英彦山を思い出していた。あのときは寒い冬だった。
手桶の湯が胸から腹にかけられて温かく気持ちがよかった。
両手で惟唯を洗う女の額に汗が流れていた。腰にかけられていた手拭いを娘がとって手桶の湯をかけた。
                        平成二十六年十月二日