ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

金曜日、エッセイ教室に「栄西と定秀と為朝」の続きをだした。

為朝は海に出た。

近ごろ、この模型の船をみて空想している。 花が活けかえてあった。 

今日提出したのは、こんなだった。


  栄西と定秀と為朝(続き)                 中村克博

春の初めに吹く強い南風の季節が過ぎてヤマボウシの白い花が咲きはじめ、博多の荒津の崎には東(こち)寄りの南風(はえ)が心地よく吹いていた。右舷に開いた筵帆(むしろほ)は風を流して船は滑るように進んでいる。香椎の浜を日の出前に出てから一時(いっとき、二時間)は過ぎていた。為朝の目の前に能古島(能許の浦)が見える。
昨夜は夕餉のあと香椎の報恩寺の宿坊を出てすこし歩くと沖には漁火が見えていた。このように月が明るくては漁火のもくろみはいかほどかとも考えるのだが、月の影がだだよう波間に、漁火の火影(ほかげ)が重なるさまはおもしろくて、凪いだ夜の海に漁をする海人の様子をいつまでも見ていた。 
朝餉(あさげ)のあとの船のゆれは心地いい。朝日は生屋形(ゆらやかた)の屋根の軒下から為朝の背中をほぐしていた。為朝の横には足を組んで座っている栄西の姿が眠っているように見える。為朝は甲板の床に降りていった。足元からから二尺か三尺ほどのところの波頭が同じ動作をくり返すように舷側をたたいて引き波が後方に通り過ぎてったが、しぶきが甲板にまで上がることはなかった。右舷の前方を見ると志賀島の浜辺から塩を焼く幾筋も白い煙がゆっくり立ちのぼって、なびきながら北に流れていた。帆柱を見上げると朝日が当たった筵の帆が風を受けて軽やかにはらんでいた。玄界島が見える。その先の水平線の彼方に目をほそめると小呂島が小さく見えた。今日は見通しがすこぶるいいようだ。為朝は小呂島の先に広がる海の彼方に熊野灘の果てしない海原を思い重ねていた。
舳先に水夫(かこ)が二人いて水先を見ている。一人は帆柱の先端から舳先に渡してある筈緒(はずお)に手をかけて遠くを望んで、もう一人は船緣に寄り添って近くの水面を見ている。甲板には武士が一〇人いて目立たないように腰を低くしてたむろしていた。積荷はなかった。為朝はうねりに身を任せてゆっくり歩いていった。左手の親指は太刀の鍔にかけているが、右手は時おり武士の肩に置いて体をささえた。
「殿、熊野の海を思い出します」 
「わしも、そのことを考えていた」
為朝は舳先まで来ると水夫が譲った帆柱の先端から伸びた筈緒を右手で握った。
「この綱に三角帆を張ることはあるのか」
「は、外海に出たときに、上り(風上)を詰めるときには使います」
「この船には、そのための備えはないようだな」
「は、船戦の場合には前もって支度をいたします」
「そうか」
船は能古島の北にさしかかった。この島の北側は急な斜面の森林が海辺の岩場まで迫っている。深い緑の中に芽吹いた新緑が、もこもこと萌黄の色をいくえにも重ねて美しかった。波が岩を洗って白く泡立って引いていく音が聞こえるが海は深いのでこれくらいの船はかなり近くを航行できる。右舷には志賀島が見えていた。筵帆のはらみがゆるくなったのが為朝の右手の綱の感じでもわかった。船が島影にはいって南の風がさえぎられたようだ。舵をとる艫屋形(ともやかた)から声がした。
「帆を下ろせ」
 するすると降りた筵帆を水夫が手際よくまとめて細なわでくびった。船べりから外に出ている櫓棚には両舷に四人ずつの漕ぎ手がすでに櫓をあやつっていた。掛け声が聞こえ、それがすぐに合わさって一つの響きになっていった。
「エイサー、エイサー」
船足がついて掛け声はさらに力強くなった。掛け声の「エイサー、エイサー」が「栄西栄西」と聞こえるのが為朝にはおかしかった。春の初めの時化の季節がすぎると香椎から宋の貿易船が船出することは聞いていたが、その宋船に乗って壱岐の島までの船旅を提案されたのはひと月ほど前だった。それより前、正月の松の内があけてまもなく栄西英彦山に訪れてくれたが、会ったその日に大友の刺客の襲撃を受けて二人は話をする機会はなく別れていた。
為朝は舳先を離れて屋形の中に戻った。栄西が笑顔で迎えてくれた。
「久しぶりに海に出られていかがですか」
「伊豆の大島での幾度かの船戦を思い出しますが、それからの二十有余年は熊野の海で過ごしておりました。熊野の山にこもって修験道の指南も受けておりましたが私には陸より山より海が性に合うのかと思ったりします」
「大友の襲撃があったことでも八郎さまが英彦山におられることは鎌倉に知れております」
「熊野にいては熊野別当にご迷惑がかかりそうで英彦山にこもっていたが・・・」
「鎌倉は豊前筑前肥前の北九州三国の守護に武藤資頼を、豊後・筑後・肥後の中九州三国の守護に大友能直を、そして、薩摩・大隅・日向の南九州三国に島津忠久をつかわしております。しかし秋月氏、有馬氏、菊池氏、阿蘇氏などの勢力はいまだ鎌倉の動向を窺っております。そこに八郎様が帰ってくれば旧勢力がまとまるやもしれません。八郎様にそのような野心なくとも鎌倉の脅威にはなります」
 船が島影を出ると風が吹き出した。船頭の声が聞こえた。
「帆をはれ」
進路がすこし左にふられた。唐泊の港に向かっていた。櫓棚からは漕ぎ手の姿は消えていた。
「宋船は香椎で英彦山からの刀剣や銅や水銀を積み、袖の港では幕府の専売品を積み、今津で杉、松、桧などの良材を積んで、昨日のうちに唐泊に入って我々を待っております」
「宋船にはこの風ではすこし弱くはありませんか」
「博多の海はこの時期、昼を過ぎてから風がでるようです。壱岐の印通寺浦には日があるうちにはいれましょう」
船は唐泊の港の前に来ていた。防波堤の奥に宋船の大きな帆柱が二本見える。
「帆を下ろせ」
大きな安堵したような声がした。
「エイサー、エイサー」
櫓を漕ぐ八つの声が、とよむようにひとつに聞こえ、ゆっくり、やさしく、船を港の中に進めていった。 

                                     平成二三年六月六日