ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

備前焼の酒甕にシダがはりついていた。

母のこころみらしい。庭の隅に長年おかれて甕は石や土と一体になっていた。

きれいに洗って写真にした。 酒甕は逆さだが、底が水盤になっておもしろい。

妻が床の間に置いて、野草をそえると、あじわいが変わる。
写真を撮って、水盤に入れて水に浸した。


きょうはエッセイ教室の日、
英彦山に現れた為朝が、いまはイスラムと出会って、この先どうなるやら、
構想もない意図もしないで、調べながら書いていたら、こうなった。


栄西と為朝と定秀                  中村克博


 雨風はさらに強くなった。東の空は重なった暗雲が彼方の障テい海に境もなくとけこんでいたが、西の空は低い雲が少し明るく泡立つ海の波が見えていた。日暮れにはまだ間があるが、この空もようでは日が落ちると闇は同時にくる。

 次郎の水夫部隊が先導して丘陵を下り、その後ろに平教経の伊勢平氏が続く。少し距離をおいて惟唯の率いる宇久平氏は多くの負傷者と戦死者を即製の担架に乗せていた。後衛を平敬敦の薩摩隼人がつとめ長蛇の隊列は丘陵を下っていた。
惟唯の軍兵は出撃のときより兵員の数が倍ほどに増えて見える。降伏して恭順を約した反乱軍たちが惟唯の軍兵の中ほどに三人ずつ横に腰紐でいましめられて縦隊を長くしていた。反乱軍の中に歩けない者はいない。

聖福寺船の船尾楼の甲板には為朝と船長、それに聖福寺の若い僧侶が二人いた。
船長が目を細めて遠くを見ながら、
「投降した敵は二、三百ほどですが…」と言った。 
僧侶の一人がやはり遠くを見ながら、
「まだ、かなりの残敵がいますが、あのように戦場から離脱した兵は、もはや戦力にはならんでしょう」と吹きつける雨を手庇で避けながら言った。
「負傷して動けない敵の廃兵はいかがしたのでしょう」と、もう一人の僧が剃髪の頭に巻いた布帛(ふはく)をぬいで両手で雨水を絞った。

 戦闘を終えた将兵の長い列が丘陵をおり、船泊て(ふなはて)する浜に帰り着いたころには先ほどまで見えていた硫黄岳の稜線も目の前にそびえる断崖の縁も墨液の中に沈んだように何も見えなかった。風がおさまる気配はなかった。この雨風では篝火も焚けない。二百ちかくの捕虜をかかえ、敗残兵の夜襲にも備えがいる。陸で闇の夜を明かすのは不用心であった。敵味方の将兵は船に収容することになった。
 
 平敬敦、平教経、次郎、それに惟唯がそろって聖福寺船に帰ってきた。
為朝は船尾楼の船室で彼らを迎えた。船室は蝋燭がいくつも灯されて漆黒の闇から来た者には、まばゆいばかりだった。
「惟唯殿のその傷は矢傷かな」と為朝が気づかった。
「矢傷ではありませんが、飛礫を額に受けました」
 惟唯の左目の上から頭に白い布が巻かれていた。
「兜を被っていただろうに」
「坂の上の敵が見づらく兜を取ったのが不覚でした」
「我が方の死傷者はいかほどであろう」
「死者が十人ほど出ました。重傷者も同じほどです。聖福寺の二人の僧が差配して手当てをしております」

嵐が過ぎた次の日の朝。
雨はあがって東の空は雲間から青い空が望めていた。風は南西に変わって、嵐の勢いはすでに遠ざかりつつあった。
宋船五隻は単列縦隊、その後は島津の小早船十艘が二列縦隊で続いていた。先頭は丁国安の乗る船、それに続く二番船は前の帆柱が欠損して船べりが低く浸水していた。 
南西の風を左舷後方から受けて船団の船足は早かった。小さく見えていた鬼界ヶ島の長い岬が刻々と大きくなって高い断崖が迫っていた。
丁国安の頭には被り物がなかった。頭頂の少ない髪は髻(もとどり)もほどけて頭や顔にまとわりついていた。
  
丁国安は過ぎ去った嵐を思い出していた。
島の北側からの上陸は出来なかったが、あれほどの嵐の海を小早船の一艘も失わずにすんだのは、妻の実家が奉斎する宗像三女神のおかげだと心底おもった。
昨日の夕方だった。鬼界ヶ島の北岸を目の前にして上陸を断念し船団を北東に回頭させた。そうすれば南からのうねりは島が受けてくれる。そのころ風は西が吹いていたが追い風をいなしながら進んで島の東に回り込むことができた。そのまま南に進路を取った。すぐに日が落ちて真っ暗になった。うねりの波がしらを舳先で受けて荒れ狂う何も見えない海を進んだ。横波は回避できたがどの船も水船になり積み荷をかなり投棄した。すべてが闇の中での出来事だった。

丁国安は目の上にまとわりつく数本の髪毛を指で掻き上げた。
それにしても米や宋銭など多くの積み荷を海に捨てたのは悔やまれる。浸水が激しく仕方はないが、もったいないことをしたものだ。
船尾楼の上から甲板に目をやると大勢の伊勢平氏がひしめきながら戦さ支度を済ませて整列していた。丁国安は武者たちの戦闘に臨む殺気を受けて身震いした。

次郎が船尾楼の甲板にいる為朝と敬敦や教経に報告していた。
脱穀した米の俵を供出して浜で焚きだしております。三百人ちかい投降兵に食わさねばならんとは予定外です」
 次郎と一緒に報告に来ていた聖福寺の僧の一人が、
「断崖の上には台地が開け、牛が飼われ畑もあります。小さな村もあります。この先、残敵の掃討をおこなえば敵の兵糧もあると思います」
 平教経が心配げに、
「丁国安殿の船団はいまごろ、どこを航行しておいででしょうな」
 聖福寺のもう一人の僧が応えた。
「あのころは西風、西には向かえません。ならば東に進み、島を回って南に進路を変え屋久島のあたりで反転してくると思われます」
 為朝の顔がゆるんで、
琉球の虜囚は船底におるようだが三百人もでは、息もできまい」
すぐさま次郎がこたえた。
「今朝になって、甲板の板をはずし空が見えるようにしております。飲み水も十分に与えております。難儀なのは三百もの糞尿の臭いであります。海水を入れて洗ってはおりますが、その海水も硫黄の臭いがいたします」
聖福寺の僧が神妙に、
「それはこの船の船倉も同じです。イスラムの水夫たち三十人あまりが糞まみれで憐れでした。半数ずつ甲板に上げ体を洗い、船倉を洗っております」
 もう一人の僧が為朝に、
イスラムの水夫たちが自分たちの聖地の方角に礼拝をしたいと言っております。それも一日に五回だそうですが、いかがいたしますか」とたずねた。
 そのとき、下の甲板からどよめきが聞こえてきた。
丁国安の船団が見えると言って騒いでいた。宋船五隻に続いて島津の小早船が次々に入港してきた。
 丁国安の乗る船が聖福寺船に接舷して、さらに二番船がそれに接舷して船から船に船端を重ねてつながっていった。
小早船は帆を降ろして櫓を使い、大きな船の間を巧みに進んで互いに接舷して投錨した。狭い湾内は大小の船でいっぱいになった。

丁国安が為朝のところにやってきた。新しい烏帽子を冠り、さっぱりと衣服も整えていた。平教経の平氏武者を二人連れ立っていた。二人の武者は平教経を見るなり顔をくしゃくしゃにして泣き出した。
二人は三十路なかば、教経とは同年輩だった。都を離れてから五年有余、猛将平教経を主として王城一の強弓精兵と言われながら海や陸でともに戦った。戦うごとに多くの仲間が死んでいった。
壇ノ浦の敗戦のあとは、ちりじりに阿波国の祖谷に落ち延び、さらに九州にわたってから椎葉の山奥で息をひそめての十余年はながい。
為朝は安住の地がない自分の身と重ねても、その気持ちがわかった。次郎も他のみんなも、しばし言葉がなかった。

気をとりなおし、挨拶のあと互いの状況を説明し合っているところに小早船から島津の武士が三人遅れてくわわった。 
 島津の武士の一人が奇妙なことを言った。
「ここに参る途中、甲板に異国の虜囚がおりましたが、我らを見てフランク、フランクとののしるように叫んでおりました」
 丁国安がはっと思いつくような顔をして、
「おそらく島津の旗印を見て、彼らの宿敵キリスト教徒と思ったのでしょう。南宋では景教といいます。百年も前からキリスト教徒はイスラムの国を攻め続け、軍勢は十字の旗を押し立て騎士の外套の背には十字架を染抜いております」
 話のあとを聖福寺の僧がひきついだ。
フランク王国、もとは一つの国でしたが今は三つの大きな国に分かれています。イスラムの北には、このフランクのほかに多くの国があります。いずれもキリスト教徒です。団結してイスラムの国を攻めます。城を落として街の住民を皆殺しにし、女、子供の肉をむさぼり食うと言います」
 丁国安は眉をひそめて聞いていたが、別の僧がさらに、
「百年前、イスラムの聖地エルサレムはフランクに奪われましたが、イスラムにサラディーンという英雄が現れイスラムを集結して、十年前には聖地エルサレムを奪還しました。しかしフランクは執拗にも海や陸から大挙して攻めてきます。イスラム南宋の進んだ武器を求めて交易船を派遣し、鬼界ヶ島の硫黄を買い付けます」
 平教経は先ほどから家門の軍兵の様子が気がかりでならない。浜を見ると、すでに平家と島津の軍勢が上陸を終えて整然と待機していた。
                           平成二六年九月四日