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はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

貝原益軒を書こう 七十三 

貝原益軒を書こう 七十三                中村克博

 

 あの日から五日たった夕方、平戸からの船が厦門に入ったとの知らせがあって、あくる日の朝餉のあと松下と根岸は部屋を出た。佳代も一緒だった。鱗雲が遠くに、青い空は澄み渡って、そよ吹く風は冷たかった。いつもの衛兵が二人ついて来た。南安郷城を出ると傭兵の隊長が城門の外で待っていた。護衛の兵卒が十人もついていた。いずれも日本の武士のようで、徒歩武者が着ける軽武装の腹巻をして兜は前立や吹返などのない簡素な兜鉢だった。

根岸たちは厦門の湊から一枚帆の小さな帆船に乗った。湊を出て町が見えなくなるころ人家がまばらな小さな集落が見えてきた。朝日の当たる斜面に畑が見える。波打ちぎわの砂浜に小舟が数隻引き上げてある。人影はない。そこを通り過ぎて岬をまわると帆を降ろした外航船が見えてきた。

警戒のためだろう沿海用のジャンク船が五隻ほど帆を上げて遊弋している。そのうちの一隻が近づいてきた。停船を命じた。二隻は帆を上げたまま風を抜いて接舷した。警戒する軍船は帆柱が二本で竹を編んだような折りたたみ式の帆をゆらゆらさせていた。根岸たちの乗る船は筵の帆を上げていた。筵帆がしばたいて飛び散った水滴が光って降って来た。

接舷して気付いたのか、こちらの船の兵員の数におどろいたようで、ジャンク船の甲板に兵隊が続々と出てきた。船べりに盾がズラリと並んで間を石弓の矢がこちらを威嚇した。傭兵の隊長は慌てたようで急いで旗じるしを取り出して掲げた。黄色地に黑く天地玄黄と染められていた。それを見て石弓は引っ込んだ。船長らしい男が手招きして何か言った。傭兵の隊長は了解して一人でジャンク船に乗り移った。

 

佳代は根岸の袖にしがみ付くようにしていたが、我にかえったように離れた。

「どうなることかと・・・ 連絡が付いているのではなかったのですか」

鄭成功からの許しがあるので心配なかろう」と根岸が言った。

 柳生の松下が日本の傭兵侍に聞こえるように、

「日本から大量な武器を運んできておるので警戒が厳しいが鄭成功の許可を取っているので問題ない。こちらの武装兵を見て不審に思ったのだろう」

 それを聞いて傭兵たちから笑い声がした。話し声が聞こえてきた。傭兵の隊長がもどって来て二隻は離れた。再び帆に風を入れて平戸の船に近づいて行った。

 

 平戸の船で傭兵の隊長と松下や根岸と佳代たちは中央甲板にある帆柱のすぐ後ろの小屋に案内された。傭兵の武士や護衛の明の兵士は船尾甲板にある広い屋形の下で腰をおろしてくつろいだ。傭兵の中には二世や三世の者もいたが、多くが根岸や松下とこのたびの国外移住で運ばれてきた独り身の浪人武士たちだった。まだ昼前だったが握り飯と梅干、たくあん漬けをふるまわれて嬉しそうだった。泣いている者もいた。

 

 根岸たちは煎茶を磁器の湯呑で飲んでした。饅頭や最中、落雁がお盆の上に丁寧に盛られていた。

 傭兵の隊長はみんなに船長を紹介した。部屋の中は窓からの光が届いていたが目が慣れるまでは暗くて顔の表情は見えにくかった。船長は頭に白髪が目立つ初老の頑健そうな体をしていた。顔も腕も日焼けして黑かった。側に眼光の鋭い船乗りが二人いた。一尺ほどの刀を差しているが鍔や縁頭の造りから拵えの良さがわかる。あきらかに武士だと佳代でもわかった。

 傭兵の隊長が根岸や松下や佳代につての事情を説明した。船長は了解して三人を無事に日本に連れて帰ることに尽力すると言った。船は平戸から来たが、積荷の武器は船長個人の密貿易であると了解して欲しいと何度も念を押していた。柳生の松下はそれを了解した。三人はよろしくお願いすると頭を下げた。

 傭兵の隊長はそこで小判の包みを取り出した。

「ここに二十両ある。これは私の心付だ。受け取ってもらいたい」

 船長は包みを開いて、

「これはありがたい。しかし多すぎる」と言った。

 いやいやと言って、傭兵の隊長は十両を船長の前に置き、五両ずつを二人の船乗りに分けた。すると、我々は困ると言って五両と五両を船長の前に置いた。

 船長は分かりました。と言って十両は自分がとって、

「のこり十両は日本に着いたとき、お三人に必要でしょう」と言って傭兵の隊長に返した。傭兵の隊長は受け取った。お互いに身分を明かさない。名乗り合わないのを理解しあっていた。

 

 緊張する話が終わって、船長が茶を飲みながら、

「積荷は火縄銃や日本刀の他に陶器や白磁、染付などをたくさん積んできました」

「磁器はこちらの方が本場ではありませんか」と佳代がいった。

 船長が佳代に詳しく説明するように、

「朝鮮陶工の李参平が良質の陶土を佐賀の西松浦、有田で見つけましてな。そこに移ってきた酒井田円西なる者が息子の喜三右衛門とともに陶器や白磁、染付などの磁器作っておりました。やがて喜三右衛門は赤絵磁器の焼成に成功して柿右衛門を名乗ったのが伊万里の赤絵としてオランダに喜ばれているのです」

 佳代は何か思いついたように、

柿右衛門とは考えの深い命名ですね。赤絵は柿右衛門、末代までこの名前は受け継がれ、子孫に利益をもたらすのでしょうね」と言った。

 船長はさらに話をつづけた。

「初代は乳色の濁手の地肌に赤色の上絵を焼き付ける磁器の風合いをだしました。それはオランダが喜んで買い付けました。オランダのある西の果ての国ではマイセン窯など模倣品も出まわるほどだそうですよ」

 佳代は生き生きとした目を輝かして、話を聞きながら根岸の腕に寄り添っていた。松下はほほえましそうにそれを見ながらお茶を飲んでいた。

 傭兵の隊長が落雁を手に取りながら、

「佳代さんは根岸殿の妹と聞いておるが仲のいいオイモウトですな」といぶかった。

令和五年十一月十六日

貝原益軒を書こう 七十二

貝原益軒を書こう 七十二                 中村克博

 

 

 厦門の秋は涼しかった。天気のいい日が続いているが朝など日陰にいると肌寒い。根岸と佳代それに柳生の松下が行きつけの茶屋にいた。店の床は石張りで水を流して洗ったあとがまだ乾かず湿っていた。

長身の娘がいつものように注文をとりに来た。しばらくして髪の毛が白く太った老女が熱いウーロン茶の入った土瓶を机に置いて行った。土瓶からいい香りがしてきた。先ほどの娘が梨をむいて食べやすく切ったものと湯呑を持ってきた。

 

マカオの視察に出かけていた柳生の松下はひと月ほど前に厦門にもどっていた。

松下は佳代がついでくれたウーロン茶の湯呑を手にとって、

「この店に来ると、なんだか落ち着いてほっとしますな」と言った。

佳代がひと盛になっていた梨を小皿に分けながら、

「そうですね。こちらに来てからは朝の食事のあと散歩に出たときにはいつもこの茶店に立ち寄っていますね」

 松下は根岸を見た。根岸は熱いウーロン茶の湯呑をふーふぅと吹いていた。

「根岸殿、急な話だが、ご公儀の方針が急変したようで、できるだけ早く日本に戻るのがいいと思うのですが・・・」

 根岸は湯呑から顔をあげて、

「う、では、松下殿が先に言っておられた、いちど厦門にもどって、それからジャワのバタビアからマラッカ、インドのゴアまで調査に出かける話は・・・」

 松下は湯のみに口をつけたが熱かったのか飲まずに、

「その話は、考えが変わりましてな。日本では、いよいよキリシタンの禁教令が厳しく、海外の日本人の帰国も禁止になって密入国者は死罪のようです」

 佳代がうつむいて、

「私がいなければ、お二人ならすぐ長崎に帰れるのでしょうね。申し訳ありません」

 松下があわてて、

「いや、それは違います。オランダ船はバタビアから来年の六月まで待たねば長崎行きの船はやってきません。それにオランダが清と友好的になり、鄭成功は台湾のオランダとの緊張が高まっています。いろんな情勢の変化が早くて先が分からないのです」

 佳代が元気のない笑顔を見せて、

「冬になる前に日本に帰れるなら、お正月は大坂か京都ですね」

 茶店には客が多くなってきた。通り人の往来が多くなって騒がしい。店の外から人が言い争う乱暴な口論が聞こえていた。

 茶も飲んだし、梨も食べおえ話の区切りもいい、三人は席を立った。佳代は支払いを済ませて外で待つ二人のそばに行った。

 

 外の道には人だかりができていた。男三人に向かって中年の女が叫びをあげている。そばに大きな荷車が止まっている。積荷はなく荷台に古く汚れた麻の菰が敷いてある。横に手押し車が転倒している。大きな荷車にぶつかったのだろう。手押し車の荷物は陶器の皿や器のようで徳利がいくつも転がって皿が数枚割れていた。

 中年の女は右肩のめりになって一人の男を指さして叫んだ。男も大声で言いかえした。それを取り囲む人だかりの中から女に味方する人たちが叫びにくわわってきた。荷車の男たちに味方する者もでてきて騒ぎは大きくなった。通りは人混みで塞がれ、人だかりは群衆になりそうだった。

 三人がその場を離れようとしていたとき、目の前に日焼けした屈強な数人の兵士たちが現れた。根岸と松下は佳代をかばって建物を背にした。三人を護衛する二人の兵士は手槍の鞘を払って穂先を前に向け構えた。

日焼けした兵士たちの頭目らしい若い男は日本の甲冑を身につけていた。

親しみのある声をかけてきた。

「根岸殿、お久しぶりです」

 根岸はとっさに相手がわかったようだった。

「おお、あのときの・・・」

 根岸が由比正雪の反乱にかかわった武士団を日本から運んだおり、鄭成功の代理としてジャンク船の上で差配を引き継いだ相手だった。鄭成功軍にやとわれた日本人傭兵の頭目だった。根岸とは同年輩で海外生まれの二世の武士だ。船上で別れるときに根岸は、これを受取ってくれと二十両の包みを押しつけた。それが小判だとわかると、我らは金のために戦うが施しは受けぬと言った。根岸は懐からポルトガル製の短筒を取り出して、もう会うことはない、ここでお別れだ。自分の気持ちだといって渡した。あのときの武士だった。

 傭兵の頭目は笑いながら、

「もう会うことはない人と、また逢いましたな」と言って頭を下げた。

 

 外は人だかりで騒がしい、根岸たちは傭兵の頭目をくわえて四人で出たばかりの茶屋にもう一度はいった。

 傭兵の頭目は熱い茶を一口飲んで梨をつまんで食べた。外で待つ仲間や護衛の兵士にも届けるように店の娘にたのんでいた。

 松下が傭兵の頭目の湯呑に茶を注ぎ足しながら、

「清国の勢力と対峙する前線は膠着しておるようですが、これからの展開はどう見ておられるか、聞かせてくださらぬか」

 頭目は梨をモグモグ食べて、

「敵は伸びた前線を充実させるようです。兵団をいれかえ物資をたくわえ、地域民の宣撫には専従する部隊がおるようで大きな城郭都市では治安がよく商業も盛んなようです」

 松下は佳代の湯呑にも茶を注ぎながら、

「ほう、それは意外ですね。異民族の軍隊に占領された城郭内で住民が豊かに明るく生活しておるようですが、軍の規律が厳しいのでしょうな」

 傭兵の頭目は一瞬考え込んで、

「いや、きびしいと言うより軍規が正しく統制された清軍のようで、手ごわい相手です」

 

 外の騒ぎが急におさまったようだ。先ほどまでの雑踏がうそのようになって、むしろいつもより静かな通りになっていた。鄭成功の巡察部隊が出て群衆を散開させたようだ。大きな荷車も、ひっくり返っていた手押し車もすでになかった。

 松下が外の様子から目を戻して、

鄭成功の支配地も治安がよく、兵の略奪、暴行はなく、殺人、強姦はもちろん農耕牛を殺しただけでも死刑、更に上官まで連座すると聞いていますが・・・」

 頭目は茶をうまそうに飲んで、

「は、はは、それだけ軍律を厳しくしないと統制がとれないのですよ。なにせ明の正規軍はいないも同然ですし、食い詰めた流浪民や日和見軍閥が多く、明再興にこころざしのある兵が鄭成功には少ないのです」

「そうですか、オランダも清との協力を表しておりますな」

「そうです、オランダも清が正統になるとみておるのでしょう。しかし、鄭成功にとってはその方がありがたいのかもしれませんよ」

「えっ、それは、どういうことですか」

 根岸もそれを聞いて頭目の顔をみた。松下は知りたかった諜報にたどり着いたようだが、うかつにも心の内を出してしまった。

 頭目は腕組みをして目を閉じた。松下は言葉を待った。

 頭目は思いが浮かんだように、目を開いて口元をゆるめた。

「根岸殿と船の上で別れるときに頂いたこれに何度か助けられましたよ」と言って懐から短銃を取り出して机の上にゴトンと丁寧に置いた。

「おお、それは確かにみどもが差し上げた短筒だ」と根岸が言った。

 佳代はそれに見覚えがあった。たしか父がもっていた物で枚方の屋敷の庭で試し撃ちをするのを一度見たことがあった。それがどうして、ここにあるのだろうと思った。

 頭目は机の短筒を手に取って、

「先年、鎮江の街を攻めたおりに清軍の部隊を城壁の角に追い詰めたら降伏を申し込んできましてな。民家の部屋で降伏交渉しておると、いきなり敵将が短剣を逆手で飛びかかりましてな。私はそれを予想しておったので机の下でこの短筒を手にしておりました。銃口を鼻の前に突き出すと目玉が飛び出しそうな顔になった。撃鉄をガチャッと起こすと短剣を机に落として目をつむった顔が憐れで撃つのをやめました」

「それで、どうなさったのですか」と佳代がその先をせがんだ。

「顔を机の上に押しつけて後ろ頭の長く編んだ髪の毛を敵将の短剣で根元から切り取りました。一緒に来ていた二人の副官たちも、私の部下が同じように根元から切り取りました」

 佳代はよかったと顔がほころんだ。根岸と松下は辮髪を切られた三人がそのあと自分たちの陣営にもどってどんな処分をされるか知っていた。

 松下は先ほどのオランダの動きを知りたかったが話に直接はいらずに、

「江戸の御公儀はキリシタン禁制を一段と強めておられます。オランダの交易船以外は一切の国の出入りが禁止されます。我らも早く国に帰った方がいいようです。ところがオランダと清が友好になれば台湾と厦門の行き来もなくなりますな」

 佳代が不安そうに、

「オランダの船に乗れなければ、どうするのですか」

 松下は頭目を見て、

鄭成功が出す密貿易船が五島の男女群島のあたりに出かけておるようだが、それにあたりをつける手立てはないものかなぁ」

 頭目が案を思いついたように、

「それなら、ちょうどよかった。平戸から密航船が軍需品を積んで数日中に厦門にはいるようです。平戸藩士の田川次郎左衛門は父の鄭芝龍から引き継いだ財をさらに大きくして兄の鄭成功を支援しています。が実は平戸の松浦家がうしろにいるようです」

 柳生の松下は隠密の諜報集めとしては話が意外なことになり緊張を隠した。

「それは、ありがたい話だ。しかし我らに手ヅルはないが」

 頭目は、自信ありげにおちついて、

「なぁに、船頭は顔なじみ、密貿易は金しだい、二十両もふところに入れれば」

「そんな金は持ちあわせがないが」と松下は困った顔をした。

「そこの根岸殿から預かっておる二十両の使い道ができたようです」

「えっ、あのお金ですか」と佳代が元気な笑顔をみせた。

 根岸が首をかしげ眉間をよせて、

「しかし、平戸の松浦の船が大量の武器を積んで厦門に行くなど、公儀の禁制に背く重罪です。柳生の松下殿がそれを知ってその船で日本に帰るとは徳川家の信頼あつい柳生家として松下殿は腹切りを覚悟するのですか」

 頭目が声をだして笑った。

「ははは、根岸殿が人の作った法度に命をかけるとは、これは恐れ入った。ははは」

 松下が頭を上下して、真顔で、

「根岸殿のご配慮ありがたい。確かに公儀の考えに背くものですが、この地で拙者が知り得た出来事や見通しを持ち帰って公儀の情報に加えることこそが何よりも先決です。世の中が大きく動くとき、しかも急です。公儀の判断を誤らせないため、清軍のそして鄭成功軍の、そして何よりもオランダの動きが鍵になります」

 頭目が松下を見て、

「明軍は落日、清軍は日の出、いずれ鄭成功軍は大陸から追われる。海に追い出される。清と結んだ台湾のオランダは敵です。そうなったとき台湾進攻の名分が立ちませんか」

 根岸は分かったような分からない顔をして、

「戦は刀ではない。銃や大筒の時代になった。そのまえに、情報が何よりも大切、大きな諜報は御禁制をも無視する判断が与えられるのですね」

令和五年十月十九日

貝原益軒を書こう 七十一 

貝原益軒を書こう 七十一               中村克博

 

 すっかり日が落ちていた。涼しい風がふいて茶室から母屋に移った久兵衛と佐那は二人で夕餉を頂いたあとだった。部屋は燭台の光で明るかったが庭に面した障子の外が白くなったので月が出たのが分かる。

 佐那が障子を少し開けて夜空をのぞいた。

「雲のあいだに居待月、それに虫の声・・・ 秋ですね」といった。

 久兵衛が席を立って障子から顔を外に出した。

「少し欠けた月はいいですね。雲がうっすらとかかって・・・」

 佐那が席にもどりながら、

「尺五先生はこの月を見てどのように詠まれるでしょうね」

 久兵衛が、

「古今伝授は三条西実枝様より細川幽斎公が伝授され、それを八条宮智仁親王様に伝授され、さらに親王様から後水尾上皇様に伝授されて御所伝授が成立しました。尺五先生のお父上、松永貞徳様には地下伝授として細川幽斎公が伝授しておられますね」

佐那は、

「・・・ そうですか・・・」と言った。期待していた言柄ではなかった。

 

 廊下に人の気配がして、上使いの下女が障子を半分ほど開けて両手をついていた。お風呂の用意ができていると知らせた。男女それぞれのしつらえがあるようだ。

 数日前にも烏丸の御池通りで辻斬りがあったそうで、今夜は夜道をさけて泊っていくようにと松永尺五が配慮してくれていた。

 二人を風呂に案内する下女に久兵衛が声をかけた。

「最近は京も、えらく物騒ですね。あちこちで辻斬りが出るようですね」

 下女は手燭をもって先に歩きながら、

「はい・・・」と小さくうなずいた。

 久兵衛はうしろの佐那の足元の暗さに気づかいながら、さらに下女にたずねて、

「辻斬りは物取りですか、試し斬りですかね」

 下女は那佐の足元に明りが届くようにして、

「さあ、私にはわかりません」と頭を下げながら小さく言った。

 

 風呂から上がった久兵衛と佐那は用意されたとなりどうしの部屋に落ち着いた。置き行灯に火が入って部屋は明るかった。隣の部屋とは障子で仕切られ鴨居と天井の間には欄間はなかった。天井に佐那の影が映って動いている。庭に面した障子が月の光で明るかった。雨戸は閉めてなかった。庭番の伊賀者が昼も夜も警固している。

 久兵衛脇差を刀掛けに置いた。大刀はすでに枕元の刀掛けの上の段に置かれていた。いまだに何でこんな重たい刀を腰につけているのかと思った。風呂を使う前に着ていた羽織袴が刀掛けの横にきちんと畳まれていた。部屋が明るい。行燈の火を調節しようと火皿の大きい芯を消したとき、うっかり小さい芯まで消えてしまった。それでも月明りで部屋は暗闇ではなかった。寝床に横になったが目が冴えて眠れそうにない。

 となりの部屋はまだ先ほどのままに明るかった。何をしているのだろうと思った。声をかけてみたいが・・・ ためらっていた。掛布団をかぶっで「おやすみなさい」と小さく言った。言ったあと自分の女々しさに恥じて気持がむずむずした。

すると、となりの部屋から、

「おやすみなさいませ」と声がした。

 久兵衛はびっくりした。あわてて、

「おやすみなさい」と夜具から顔を出してこたえた。

 いよいよ眠れなくなった。

 

 久兵衛は目をつむって息を大きく吸った。そして息を止め、ゆっくり吐いた。ゆっくり息を吸い、さらにゆっくり吐いた。力を抜く、力を抜く、全身の力を抜く。両手を体側に置いて、手のひらを上にして背中の肩甲骨を左右引き寄せた。両方の手首を外にねじってさらに手のひらを上に向けた。その状態でしばらく呼吸をゆっくり続けた。そのあと両脇の手をへその下丹田にこんどは手のひらを下にして置いた。吐く息に意識を集中した。細い息をできるだけ長くはいた。自然に、意識して自然に無理をせずに吐く息をできるだけ長く細くはいた。気がおさまってくるのがわかった。ゆっくりした血のめぐりが意識に伝わって、下腹の奥の方が温かくなってきた。

厦門にいる根岸と佳代のことが思いに浮かんできた。長らく消息を知る手掛かりがない。どうしているだろうかと思った。

耳鳴りがする。かすかに低く単調で唸るような音だ。気にするとよけいにはっきり聞こえる。いや、虫の声のようでもある。久兵衛は両耳に人差し指を突っ込んでみた。音はやんだ。指を離してみた。先ほどの音がまた聞こえてきた。いくつかの虫の声が混ざり合って一つの音のように耳鳴りのように聞こえているのが分かった。すると、また、となりの部屋に寝ている佐那の顔がうかんだ。夜具の中の佐那のようすを想像した。虫の声がする。うつらうつら、意識が遠のいていった。

 

久兵衛は襖を静かにひらいた。月明かりで障子が明るく佐那の目を閉じた顔がはっきり見える。那佐は声を立てなかった。いやむしろ久兵衛を受け入れるようであった。これが現実か夢なのか、数日前か今なのか、一瞬かゆっくりなのか、夢のうつろうまま、ときもないようにあらぬ情景がすすんでいった。久兵衛は佐那に顔をうずめた。佐那はなされるままにしていた。そして、こたえてくれた。久兵衛は今おきているのが夢なのか、いや夢ならさめないでほしいと思った。  

 

 久兵衛の寝息がとなりの部屋から聞こえてきた。佐那は書きものをやめて、行燈の灯りを小さくした。虫の声がしていた。  

                               令和五年九月十三日

五島から博多まで

五島から博多まで                 中村克博

 

 

 九州商船のフェリーは長崎港を朝八時すぎに出て五島の福江港に三時間ほどで着いた。フェリーを下りると車で福江港近くの石田城の跡に出かけた。五島氏一万二千石の本丸跡地は五島高校になっていた。海風が強い石段を女生徒が数人おりてきた。風が吹き上げて彼女たちはいっせいにスカートをおさえた。歴史資料館に行った。天気だったのににわか雨が激しく降った。笑顔のいい女性職員が傘を貸し出してくれた。

五島うどんを食べようと思ったら二時すぎていてどこも店が閉まっていた。五島うどんは特産の椿油を塗って伸ばした乾麺で博多のうどんの三分の二くらいに細い。鍋で茹であげ水洗いせず熱々のままアゴだしのつゆで食べるそうだ。

 

福江の港に面したホテルにチェックインした。昼抜きで夕食が待ち遠しい。地元に人気の食事どころをフロントで尋ねると居酒屋石松がイチ押しだった。歩いてすぐだった。個室も広間も賑やかで、カウンター席に案内された。目の前で忙しく包丁を使っている初老のおじさんはズングリムックリ、日焼けしたタコ坊主頭に指の太さのねじり鉢巻きで愛嬌がいい。なじみ客の話に笑顔でこたえている。ワサビのきいた刺身の盛り合わせ、きびなごのてんぷら、げそのてんぷら、量が多くて腹いっぱいになった。ビールがうまかった。

 

夜明けのずっと前、船のエンジンの音がして目がさめた。暗い窓のカーテンを開くと次々と小型の漁船が出て行く風景が月の明かりで見えた。右舷の緑のランプが右に移動して船が動き出したのが分かる。先に走る船の船尾燈と両舷の赤と緑の光が遠くなっていくのをしばらく見ていた。船が出て行って静かになったのでベットに横になって眠った。

部屋が明るくなっていた。青く光る水平線が輝いて朝日が昇ってくるのが窓越しに見えた。青かった空はオレンジ色にそまって鳥がたくさん飛んできた。カモメと思ったらカラスだった。

 

博多行きの野母汽船のフェリー太古は福江港を十時十分に出航する。ホテルをチェックアウトして、時間があるので鬼岳の展望台に行った。晴れた空を見上げると広大な山の斜面に草刈り作業をする人たちが見える。遠くの水平線は湾曲して、黑く光る海や幾つもの島影が見えた。

福江港に到着してフェリーの車寄せに行くと乗用車は見あたらない。大型トラックの間に混じって埋もれるように並んだ。博多港には午後五時四十五分ごろに到着する予定だ。営業距離は約二二六キロメートルになる。

フェリーボート太古は大正五年就業で野母商船の歴代に継がれてきた連絡船の船名だ。大正五年は西暦一九一六年、第一次世界大戦の最中でヨーロッパは大混乱の時代だ。福岡市にアメリカの南部パブテスト派の宣教師ドージャーが西南学院を創設した年でもある。

太古は福江を出て幾つもの島をぬうように北上した。天気がいい、デッキの風が気持ちよかった。部屋は左舷側と正面が大きな窓で、広くて設備がいい。机でノートパソコンを開くと妻がコーヒーを淹れてくれた。青方から小値賀と島のターミナルに接岸しながら太古は走った。複雑に入り組んだリアス式海岸の断崖や小さな無人島が次々といれかわりたちかわりすぎていった。疲れたので部屋のベットで横になっていたら次の停泊地の宇久は眠っていた。

 

むかし、博多から宇久までヨットで何度か来たことがある。もうあれから二十年ほどになる。小戸のハーバーから宇久の港までの航海距離は約一三〇キロメートル、ヨットの帆走平均速度を五ノットとして最短距離で二六時間だが風は変わるので実際の航海距離はもっと長くなる。風がよければ早くなるし、向かい風ならジグザグに走るので距離は倍ほどのびる。凪が続けばいつ着くかわからない。レースでなければ機帆走で走るので七ノットくらいで直進する。予定がたてやすい十八時間あまりで着く。

狭いヨットのコックピットでは日がな一日、見えるのは海と空だけ聞こえるのは波風の音だけ、クルーがいても長い付き合いで会話はない。数日つづく航海なら船内で料理をするが、一昼夜ならコンビニ弁当かオニギリだ。まぁ、それでも、うまいが・・・ トイレはあるが使わないでデッキから用をたすし、手は洗わない。雨風が出て時化て来たら宿帆したり、ストームジブに替えるたりするが、波をかぶって濡れて斜めになったデッキの上での作業は危険で考える暇などない、雨風の夜だと手元は見えない。落水防止のハーネスを付けているので動きは限られる。暗闇で勝手に手足が動かなければ大変なことになる。

 

平戸島生月島にかかる橋の下をフェリー太古は通った。波戸岬が見えてきた。呼子町加部島加唐島の間を通る。ヨットでは何度も通った景色なのに太古の三階デッキの高さからは違う風景に見える。唐津湾に浮かぶ姫島、志摩芥屋の西の端、西浦の岬、いよいよ玄界島が見えてきた。ヨットならこれから二時間ほどで帰港するが太古は二十分ほどだろう。

令和五年九月一日

貝原益軒を書こう 七十  

貝原益軒を書こう 七十                   中村克博

 

 

 先日、南禅寺の金地院をたずねてからひと月ほどたっていた。お盆もすぎて、いくつもの夏の行事も終わって、セミの声がすずしくかんじるようになっていた。

 久兵衛は松永尺五と久しぶりに対面していた。受講場所が二条城の近くの講習堂から御所の南下の尺五堂にうつっていた。尺五堂の茶室は母屋を離れ、ひなびた感じの茶庭をとおって藁ぶきの草庵がしつらえてあった。佐那が同席していた。

佐那は飲み干した茶碗を尺五に返して、

「お茶の味わいは、いただく場所でもかわるものですね」

 尺五は受けた茶碗の底を見ながら、

「そうですか、茶の味わいはいろいろあるようですね」

 部屋を夕方の風がとおりぬけていた。蚊やりの煙の匂いが漂っている。

 久兵衛は金寺院で見学してきた小堀遠州の八窓席の茶室について、どのような感想を報告すべきかの論考はできていたが切り出せないでいた。

 久兵衛は床の花をみたり、天井をながめ、窓の外をみたりしていた。

「この茶室は金寺院の八窓席とは求める趣きが逆のようにおもいます」

 尺五はうなづきながら、久兵衛をみて、

「そうですね。どのように違うとお考えですか」

 久兵衛はかるく頭を下げてつつしんだ姿勢になって、

「はい、こちらの造りは数寄屋で柱は面皮付、天井も飾り床も利休様が望まれた冷凍寂枯、侘びとか寂びの領域かと思います」

「なるほど、それでは金寺院の八窓席はどのような成り行きで造られますか」

 口頭試問にこたえる学生のように、

小堀遠州公は新奇の茶風をおこされたのは古田織部公のようでもありますが、直弟子でも流儀はちがいます。綺麗寂びなどともいわれますが、それは表層のこと、実情に即して世情を先取りするか世上を誘導する独自の趣旨があるようです」

 尺五は満足そうな顔をして、さらに質問した。

古田織部公は大坂の陣のあと切腹をさせられますが、遠州公は茶の師匠をなぜ事前に助言できなかったのでしょうね」

 久兵衛は待っていたように

徳川秀忠公の茶頭であり、古田織部公ほどの大名が世の動きに疎いはずはありません。先の先まで読んで東軍に属したのだと思います」

「そうですか、ならば、なぜに豊臣家に内通するなどの嫌疑を受けたのでしょうな」

 久兵衛はしばらく考えていたが、

織部様は利休七哲のひとりで交易や商いを重視する考えです。内々の儀は宗易(利休)に公儀のことは宰相(秀長)が存じ候と言われたほど、利休様も豊臣秀長公も太閤殿下が信頼していた商業を重要する側近です」

 尺五は久兵衛のそのあとの説明をしばらくまっていた。

久兵衛は姿勢をただすように背を伸ばしたが沈黙がつづいた。

そのとき、佐那がおそるおそる口をひらいた。

「大納言秀長様がお亡くなりになったあと、郡山のお城には金蔵いっぱいの金銀があったそうですね。秀頼さまの大坂城にはその何百倍もの金銀や財宝があって、それが天下騒乱のよりどころとなっていたと聞いております」

 その話のあとをつなぐように久兵衛が話しはじめた。

「徳川家は戦乱のない天下泰平の世を治める手立てを次々に講じますが、戦さをしない武士の人倫として朱子学をひろめます」

 佐那が不思議そうに、

「武士の生きかたは庶民の見本になり、道徳の根底に朱子学があれば商いを卑しい行為だと世間は思うようになりはしませんか」

 尺五はなるほどと、

朱子学南宋期にでた儒教の一派ですが、孔子はもともと商業を否定してはいません。それに徳川家は交易や商いを重要だと思っています。これは織田信長公から太閤殿下から続く国家支配の基本です。物流の支配を第一に、そのもとになる資本、つまり金が何よりも大切なことは身をもってわかっています」

 佐那はなおも理解できそうになく、

朱子学はむつかしい学問で、範囲がひろくて・・・ そのなかで、父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信。それに仁・義・礼・智・信などがおもいだされ、家族とか国家を秩序づける狙いですが、それが、なぜ商いが卑しいと独り歩きしておるのですか」

 尺五は嬉しそうに聞いていたが、

「貝原殿、いまの佐那殿の意見についてどのように考えますか」と言った。

 久兵衛は、はっ、とかしこまって、

「ほんとに、朱子学は難解で朱子学者の林羅山先生は家康公から家綱公の四代の将軍家に侍講としてお仕えしておられます。国家の経営は戦時も平時も理財の確保と使い方が根本で、幕府がその主導を持ちます。参勤交代は全国で二百以上の大名家が正妻と世継ぎを江戸に住まわせ、大名家の故郷はみな同じです。その江戸住みの家臣団は五十万から百万人ほどになります。それに盆暮れに限らず大名家どうしの高価な贈答品が行き交います。国元の特産品の発展にもなりますが、江戸は巨大な資金が集まる物流と消費の場所になります」

 久兵衛は話を中断してひと息いれた。それを佐那が話をせかすように、

「徳川さまは各地の神社仏閣の修理や街道の整備などを大名に負担させ、それにオランダとの貿易を長崎の出島で独り占めされます。いけずですね」

 尺五が笑いながら、

「徳川家は日本中の金山や銀山を天領として、貨幣の鋳造と発行を独占しますね」

 佐那は久兵衛を見て、

「利休様の数寄屋の草庵は清貧と献身、自由と平等、救いと愛を秘めています。古代に西域から伝わったイエスさまの教えとおなじです」

 久兵衛は困った顔をして尺五を見て、

小堀遠州公は利休様がもとめた侘び寂びの茶室を書院風な時代にもどしました。瀟洒、洗練、新鮮を感じますが、貴賤の分、自然の道理、変則と当意即妙を表明しておると・・・」

 尺五は黙って聞いていた。待ちきれないように佐那が口をひらいた。

「利休さまと遠州公は根本がことなっておるのですか、もとめるものが反対なのですね」

 尺五は黙って聞いていた。日が落ちてすずしい風がふいていた。

                                 令和五年八月十七日

金地院の八窓席、袖壁の下地窓・・・

貝原益軒を書こう 六十九                 中村克博

 南禅寺の金地院には拝観する建物はいくつもあるが本堂だけを見学して外に出た。石畳のゆるやかな坂道を下りていった。人の通りが多くなっていた。木立の葉陰をとおして日差しがまぶしかった。旅籠や湯豆腐を食べさせる店や茶店が並んでいる。

 久兵衛のすぐ後ろを歩く下宿屋の娘が、

久兵衛さま、湯豆腐を食べてまいりましょう」と声をかけた。

 久兵衛はふりかえって、

「そうですね。少し疲れたし、腹も減った。のども乾きました」

「気楽なお寺さん参りかと思っていましたら、そうではなかったのですね」

 久兵衛は額の汗をふきながら、

「お付き合いいただいて、申しわけありません」

「いえ、いえ、いいのですよ。ふだん誰でも入れない金寺院さまですし」

「尺五先生のお勧めで、前々から手筈を取っていただいたのです」

「そうなのですか、それで、どんなことを感じられたのですか」

 久兵衛は小さな湯豆腐屋の店の前で足をとめていた。紺地に湯豆腐と白く染めぬいた暖簾をくぐって二人は中に入った。風がとおって涼しかった。

 店の入り口は小さかったが中に入ると奥が深くて手入れのいい庭が広がっていた。衝立で仕切られた座卓がいくつも並んだ長い座敷に通された。二人は向かい合って座った。

 久兵衛は出された茶をごくりと飲んで、

「金寺院では書院の奥につながっていた茶室の八窓席を見てくるのが目的でした」

「へぇ、あのお茶室ですか」

「はい、金寺院崇伝様の依頼で小堀遠州公が差配して作った三畳台目の遠州好みだそうです」

 娘は小首をかしげて、

「ふつうのお茶室とどのようにちがうのですか」

「私も茶室のことは知識が不十分ですが、世の中の規律を変えようとしておった金地院様の意をくんでの遠州公の作事でしょうから・・・」

「松永尺五先生からの言付でおいでになったのですね。どんな意味があるのでしょうね」

小堀遠州公が手掛けられた茶室は大徳寺にある黒田家の塔頭龍光院にもあります」

「へぇ、そうどすか、龍光院さまにも遠州さまのお茶室があるのですか」

「そうです。蜜庵席といいますが、いぜん私も訪れたことがあります」 

 娘は少し考えていたが、

「私はお茶のお稽古をまだ初めていませんけど、座敷の隅に風炉先屏風を立てたり、数寄屋の四畳半などを見たことはあっても、八窓席のお茶室は・・・」

 その先を久兵衛が言葉をつないだ。

「あんな、せまい部屋に床柱の脇にもうひとつ柱を立て、そのあいだの上半分が塗り壁で、そこに小舞の竹組が見える下地窓が付けてある」

 湯豆腐の料理が運ばれてきた。娘は箸をとる前に手を合わせて頭を下げた。久兵衛は箸をとる前に田楽豆腐の串をつまんで口に入れた。

 娘は久兵衛を笑いながら、

「まぁ、こんなにたくさん。どれもおいしそう」といった。

 久兵衛は豆乳の器をとって一口飲んだ。

「おう、これは冷えて、おいしいもんですね」

 娘は湯豆腐をすくって、久兵衛のだし汁の器に入れた。

「先ほどのお茶室、お点前の座と正客さまの間に土壁があって、そこに竹格子の窓が開いていましたね」

「そういえば、主人と客は、じかには向き合わず下地窓をとおして座りますね」

「なにか意味があるのでしょうか」

 久兵衛は箸をとって湯豆腐をつかもうとしていたが動きをとめた。

「なんと、それは、あたかもキリシタンの」と言って言葉を飲み込んだ。

「えっ、なんですか、キリシタンの・・・」

「いや、何でもありません。いや、思い過ごしです」

「えっ、金地院崇伝さまはキリシタンをご法度とされたのでしょう」

「そ、そうです。金地院様は伴天連追放令を秀忠公の名で出されました」

 娘は納得いかない顔を久兵衛に向けて、

久兵衛さま、言いかけたキリシタンが、どうしたのですか、私はまえまえから不思議だったのですが、お濃茶の回し飲み、一つのお茶碗で次々と口をつける・・・」

 久兵衛が娘の話の後をつづけた。

キリシタンの洗礼では葡萄酒を信者が回し飲みする。似ていますね。しかし日本では昔から酒杯のやり取りや回し飲みはやっていますよ」

「でも、織部灯篭はキリシタンの十字架をかたどっているとかいいますよ」

「はは、そんな話に根拠はありませんよ。古田織部公が大坂の陣で豊臣方に通じていて切腹させられた。そのことがこの風聞がおきた理由かもしれません」

「でも、利休さまのお弟子にはキリシタンの大名が多いのでしょう」

 久兵衛はやれやれと言った顔を隠さず。

黒田如水公もそうですが、利休様から茶の湯を伝授された中に多くのキリシタンの大名がいます。かと言って茶の湯キリシタンは全く別の分野ですよ。それは影響もあったでしょうが、風評は真実とは限らずおもしろければ広がります」

娘は素直にうなづいて、

「そうですね。気を付けねば・・・ はしたないことです」

 久兵衛は湯豆腐を食べた。娘がだし汁の器につぎ足した。

「先ほどの三畳台目の茶室で下地窓をとおして主客と主人が相対する場面ですが・・・」

 娘は話の転回におどろいた。久兵衛は慎重に話しはじめた。

「ふと頭をよぎったのは、以前キリシタンの教会で見た告解の部屋です」

「こっかい、それは、どのようなことですか」

「信者が自らの罪をバテレンに告白して神様のゆるしを得ることです」

 娘は神妙な顔をして聞いている。久兵衛はつづけた。

「告解部屋は司祭と信者の間が壁で仕切られ、そこには格子が付いた小さな窓があります」

「先ほどのお茶室のようすと、なんだかよくにていますね」

 久兵衛はゆばに大根おろしと生姜をたっぷり乗せて食べた。

「利休様は侘び寂を求められたようですが、数寄屋の小間は要人が腹を割って打ち解け、あるいは密談や謀議の場所だったと言われます」

 娘はみつだん、とくちずさんだ。九兵衛はつづけた。

「しかし、金寺院の八窓席はそれとは違うようで、はっきり別の意図があるようです」

令和五年七月二十日

貝原益軒を書こう 六十八

貝原益軒を書こう 六十八                中村克博

 久兵衛は下宿屋を出て四条の橋を渡っていた。下宿屋の娘が一緒だった。朝の日差しに鴨川のせせらぎが光って、岸辺に白い鳥が長い首をおり曲げてまどろんでいた。風がひんやりすがすがしい。

 娘が下駄の音をはずませ欄干に手をかけた。

「あら、今年は納涼床が多くなりましたね」と言った。

「そうですか、夜はにぎわうのでしょうね」

 

 二人は八坂神社を通って知恩院の境内を歩いていた。

 久兵衛が本堂を見上げて、

寛永十年でしたか、知恩院は本堂をはじめ多くの建物が全焼したが、家光公のさしずで再建が進められ、八年ほどかかって完成していますね」

「ほんとに徳川様は京を大切にされ、ありがたいですね」

「徳川家は浄土宗で知恩院は浄土宗の本山です。代々の門主は皇族の皇子が任命され、その方は徳川将軍家の猶子となる決まりです」

「へぇー、徳川様のつながりがふかいのですね」

 

 知恩院から青蓮院を通りぬけ、ゆるい坂道を歩いて金地院に着いた。久兵衛は額の汗を手拭で拭いた。門の詰所でしばらく待たされて取次の若い僧侶が小走りでやってきた。本堂に通されて尺五からの紹介状をわたして履物を脱いだ。広い庭に面した広縁に案内された。

 

 縁に座って庭を眺めていた。菅の円座が用意してあった。お茶が運ばれてきた。

 娘が茶碗を手に蓋をとって、かるく頭を下げた。

「金地院崇伝さま、黒衣の宰相さんとよばれて・・・ こわそうですね」

 久兵衛が茶をゆっくり、味わうように、

「そうでしょうね。字は以心、法名が崇伝。俗称は一色氏、足利氏の一門です」

「・・・、えらいお方は、いろいろお名前がおおくて、たいへんですね」

久兵衛は茶を飲み干して、はは、と笑って、

「名前はまだありますよ。後水尾天皇の近くにお仕えして本光国師の称を授けられます」

 娘は飲み終えた二つの茶碗をそろえながら、

天皇さんや徳川さまにおつかえして、とうとい人ですね」

 久兵衛は座を立ちながら、

「家康公の側近として寺院諸法度武家諸法度禁中並公家諸法度の制定に、スペインやポルトガルとの外交にも深く関わっておられ、徳川治世の礎を作った人です」

 案内の僧侶の姿が見えた。

 

 いくつかの部屋をとおるたびに襖絵の説明があった。

 水面に映る月を取ろうとする猿が描かれている襖絵の前に来た。

 娘が立ち止まって、

「随分手の長いサルですね」と不思議そうに言った。

 案内の僧が、

長谷川等伯の作で枯木猿猴図です。摩訶僧祇律の故事によります」

「まかそうぎりつ・・・ なにか、意味があるのでしょうか」

 僧が笑いながら案内の足をすすめて、

「猿が枯れ木につかまって池の月に手をのばしておる。どうするのでしょうね」

 娘は歩きながら、少し考えているふうだったが、

「手がとどいたら月は、きえてしまいます・・・」

 久兵衛が思いついたように、

「そうか、猿がぶら下がっているのは細い枯れ枝、折れるのですね・・・」

 

 方丈の出入りの小さな玄関が見えてきた。

框のそばに看却下の札がたててあった。

 案内の僧が娘の方を見て、

「看却下、禅宗の寺の玄関でよく目にしますが、どう読みますか」

「はい、履物をそろえなさい。人様のものも、そっと気づかれないように、なおしなさいと、おばあさまから昔おそわりました」

 久兵衛がふたたび思いついたように、

道元禅師の言葉に、仏道は人々の脚跟下にあり、というものがあります」

 娘が驚いたように、

「えっ、仏さまの教えが足の下にあるのですか」

 案内の僧がにこやかに娘を見た。

「いいですねぇ、おばあさまの教え、履き物をそっと揃える。そのような仕草が、生き方を美しいものにしますね」

 久兵衛がうなづくように、

「そうか、このような、しぐさの伝承も世の中に和をひろげるのですね」

 久兵衛が話をつづけた。

「元和四年には将軍秀忠公より江戸城北の丸に約二千坪の屋敷を拝領し金地院を建立した。翌年には僧録となり国中の僧侶の人事を統括する。京都南禅寺塔頭の金地院と江戸城内の金地院を往還しながら政務を執った。三代将軍、徳川家光の諱の選定、元服の日取りも崇伝禅師により決められた」

 案内の僧が話し終わった久兵衛を見て、

「将軍になられて家光公が上洛します。そのため崇伝様は張り切って金地院の大改築をされました。ところが、家光公は金地院にはいらっしゃらなんだ。その後も、一度もです。なんだか、なあ・・・ なぜでしょうなぁ・・・」

                              令和五年六月十五日